第十三章

第28話

「……持月さん?」


 静寂に包まれた空間で響き渡る紙と鉛筆の音。自習室で難しい顔をしながら参考書を睨みつけていた持月が名前を呼ばれて振り返ると、すぐ真横に先日のあの子が立っていた。


 ワイシャツの胸元に巻かれた真っ赤なリボンと清楚な黒いジャンパースカート。それは通学時によく見かける桃園女子高等学校の制服だった。


「か、勝来さん?」驚いた持月は彼女の姿をじっと見つめ、「……制服だ」と咄嗟に呟いた。


「あ、これ?」と彼女は自身の制服を指でつまむと、「今日は学校に用事があってね、そのままこっちに来たの」と笑顔で答えた。


 長い髪をゆるりと一つに束ね、左の首すじから肩に向かって垂らす姿は夏らしくもあり、女性らしくもあり、上品な彼女にとても似合っていた。


「予習中ですか?」


「えっと、講座が一つ空いちゃって」


「私と同じだね!」


 彼女は両手を合わせると、「隣の席、座っても良いですか?」と続けて遠慮気味に尋ねてきた。


「あ、うん」


 隣の席に置いていた鞄を急いでどかした持月は、そっと周囲を見渡した。他にも空席はちらほら見られたが、わざわざ彼の隣に腰掛けた彼女は「お邪魔します」と礼儀正しく言いながらテキストを開き始めた。


 制服姿の彼女からは先日と同様に柔軟剤の香りが漂い、その匂いから見事に再会できたことを実感した持月は、喜びの感情が徐々に湧き起こっていた。


「この前の模試、結果はどうでした?」


 しばらくの間は互いに自身のテキストを解いていたが、持月の耳元に顔を近づけた彼女は小声でそう尋ねた。


 自習室ということもあり声量を抑えるつもりでそうしたのかもしれないが、あまりに至近距離で囁かれた持月は思わず鳥肌が立ち、続いてひどく気恥ずかしい心地がした。


 気づかれないように息を整えた彼が「予想通り、ボロボロかな」と答えると、勝来は苦笑いしながら「実は私も……」と返し、直後に二人揃ってため息を漏らしたことで自然とその場に笑いが込み上げた。


 慌てて周囲を見回した勝来は「騒がしくしちゃ迷惑ですよね」と小声で呟きながら自身のテキストに向き直ったが、その姿にはどこか落ち着きがなく、時おり持月の方をちらちらと眺めている。


「あの、良かったら少し外で話さない?」


 持月がそう言うと、思いのほか前のめりに彼女が「良いの?」と迫って来たため、彼は少しばかり戸惑いつつ何度か首を縦に動かした。


 一緒に席を立った二人は談話室に移動し、先日行われた模擬試験の話をして過ごした。他には互いの志望校の話や参考書についてなど、やはり受験関連の話題が大半を占めた。


「何だか、ものすごく有意義な情報交換だった気がするよ」


「私も!」


 興奮した際に両手を合わせるのは、彼女の癖なのかもしれない。持月はその仕草をとても魅力的だと感じていた。同意する際に目を細めて笑うところや、彼女が纏う朗らかな空気感。それらは彼の中に幼少期の記憶を思い起こさせた。


 嶋田一家と休みの日に揃って訪れた温泉街で過ごす穏やかな時間は、彼の心をゆっくりと解してくれた。彼女が隣に居るだけで、持月はそんな過去の温かな想い出と同じ感覚を味わうことができた。


「私、学校の友達とは受験の話ってあんまりしないの」


「どうして?」と持月が尋ねると、唐突に項垂れた彼女は、「私の名前にちなんだあだ名があって、それがすごく恥ずかしいから」と答えた。


「あだ名?」と彼は首を傾げ、「どんな?」


「それは……」


 勝来は言いづらそうに身体をもじもじさせると、「笑わない?」と彼の顔色を伺うように尋ねた。


「うん。絶対に笑わない」


「――の女神」


「え?」


「だから、<勝利の女神>って言われてるの」と早口に言った彼女は、「……勝ちが、舞い来るからなんだって」と説明すると、口に出すのも恥ずかしいと言わんばかりに頬を赤らめた。


「クラスメイトが冗談半分に私を拝んだ後で推薦を貰えたとかで、それが学校中に広まっちゃって」


「なるほど、上手いこと言うね」持月は顎に手を遣り、「良いあだ名じゃないか」と答えた。


 彼は本心でそう思っていた。知り合ってからほんの短い期間ではあったものの、心優しい彼女は女神と呼ばれるにおよそ相応しい存在だと感じており、そのご利益をすでに自身も得られているのではないかと思うほどに勝来と過ごす時間は癒しに満ちていた。


 ところが彼女は、持月の台詞に対しむっとしたように頬を膨らませると、「持月くんに、この苦労は分からないもん」と拗ねたように言った。


 持月は、その光景にまたも既視感を覚えた。複雑な心理が幾層にも組み合わさって構成された女という生き物に対し、今回も彼は選択肢を誤ったようだ。それでも、今回ばかりはそのまま終わらせる訳にはいかないと意気込んだ彼は、「どういう苦労があるの?」と続けて尋ねた。


「苦労っていうか」


 彼女は空気の抜けた風船のように萎みながらまたも項垂れると、「勝ちなんてむしろ、私から一番縁遠い存在なのに」と呟いた。「模試の結果だってなかなか伸びないし、勝利の女神なんてあだ名は私なんかには烏滸がましいというか、その――」


「……はは」


 持月はふと、彼女の言葉を遮るように小さく笑い声を漏らすと、それを引き金に腹を抱えて笑い始めた。その姿を見た勝来はいじけたように顔を背けると、「もう! やっぱり馬鹿にしてる」と彼を責めるように言った。


「いやいや、そうじゃなくて」


 持月は溢れ出る涙を指先で拭いながら、「僕が言うのもなんだけどさ、勝来さんってすごい真面目だよね」と言った。「ひょっとして勝来さんは、勝利の女神に相応しくなりたいの?」


「私は別に、そんな……」と答えながら振り返った勝来は、親しみを込めて顔を覗き込む彼の視線にまたも頬を赤らめ、少々戸惑った表情を浮かべ始めた。


「じゃあ良いじゃないか」


「でも、そういう訳には」


「例えばみんな、神社にお参りに行くでしょ?」


「え? ……うん」


「お参りに行く理由ってなんだろ。わざわざ足を運んでお賽銭を入れるのは、神様にただ挨拶をするため? それともご利益を求めて? でもさ、神様が本当にご利益を与えてくれるかなんて誰にも分からないよね」


 話の意図が分からず黙って首を傾げる彼女を見た持月は、思わず得意げな表情を浮かべながら、「要は自己満足なんだよ」と言った。「参拝者は勝手に騒いで、それで満足してる。君の周りの連中には好きに言わせておけば良いと思うし、間違っても勝来さんが責任を感じる必要なんてない」


 持月はそこで一息つくと、「あだ名を呼ばれること自体が不愉快なら、また話は変わってくるけど」と言葉を濁した。


「あ、ううん。言われるのは別に構わないの」と答えた彼女は顔を上げ、「私、勝手に責任を感じちゃってたのかな」と言って頭を抱え始めた。


「だから、気まずいっていうか、力になれなくて申し訳ないって気持ちでいっぱいだったけど、考えてみれば私が何かしてあげる必要ってないんだよね」


 勝来は一人で納得したように何度か頷くと、「ありがと。何だか気持ちが軽くなったかも」と言って晴れやかな表情を彼に向けた。


「僕はそんな……。少しでも役に立てたのなら良かったよ」


 話の運び方や屁理屈のような理論など、すべて百瀬の受け売りだったが、それでも目の前の彼女が喜ぶ姿を見ると持月は嬉しい気持ちになれた。


「あのさ。連絡先、交換しても良いかな」


 その日の別れ際、持月は勇気を振り絞って彼女にそう切り出した。勝来は嫌な顔ひとつ見せず鞄から携帯電話を取り出すと、「私で良ければ、是非!」と笑顔で答えてくれた。

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