第27話
「どうして――」と持月が言いかけると、「さっき受験票見せてくれた時にちらっと見えたから」と彼女はすぐに付け足した。
「私は桃園女子なの。結構近いよね。もしかしたら通学の電車で前にも会ってたりして」彼女はそう言って奥ゆかしく微笑むと、「そっか。だから予備校も同じなんだよね」と一人で納得したように頷いている。
「それ、食べないの?」
「え?」
先程からもじもじと触っているだけで一向に開く気配のない弁当箱に視線を遣った持月は、指差しながらそう尋ねた。するとまるで飼い猫を労(いたわ)るようにそれを撫でた彼女は、「あなたは?」と尋ね返した。
「僕は、これ」と言って持月が鞄から取り出したコンビニの袋を見せると、「やっぱり、コンビニで買ったやつだよね」と彼女はどこか決まり悪そうに答えた。
「駄目かな?」
「ううん! 違うの」
彼女は慌てて顔の前で手を振ると恥ずかしそうに俯き、「周りの人たちを見ていたら、お弁当箱なんて持ってるのは私だけだし、『あの子、たかが模擬試験で気合入れすぎだよね』とか言われてるのかなって。そう思うと少し居心地が悪いっていうか……。本当はね、今日も友達と一緒にお昼を食べる約束をしてたんだけど、その子が急に風邪引いちゃって、それで――」
「僕はお弁当の方が良いけどな」
持月は彼女の言葉を遮るようにそう言うと、「だって、そっちの方が落ち着くし」と真顔で答えた。
「落ち着く?」
彼女はその言葉の意図が分からず、戸惑いの表情を浮かべている。それを見た持月は気づいたように、「あ、僕の両親は共働きなんだけどさ、いつも朝が早いからある日母さんに『無理して作らなくても良いよ』って言ったことがあるんだ」と早口に説明した。「そしたら次の日から、一度も作ってくれなくなったんだよね」
「えっ! 一度も?」
「うん。すごく極端な人なんだ」と持月は答えると、「正直たまには作ってほしいけど、『無理しないで』って言ったのは僕の方だし、今さら言えないっていうか」と苦笑いを浮かべた。
「だからお弁当箱を見ると、僕はちょっと羨ましいかな。手作りのお弁当を食べてる時だけは、何処にいても家の食卓にいる感覚になれるし。うちの味だなぁって」
「あっ、だから落ち着く! 確かに、まったりするよね」
彼女は嬉しそうに持月の意見に同意すると、「今まで、そんな風に考えたこともなかったな」と答えながら自身のお弁当箱を大事そうに見つめ始めた。
「周りの人との違いを、気にする必要なんてないよ」
持月は微笑みながらそう言うと、「周囲との相違点はむしろ誇るべきだって百瀬、あっ。友達が! そう言ってたんだ」
「ふふ」
焦ったように言い直す持月を見た彼女は、片手で口元を覆いながら上品に笑い、「そのお友達は、自分にとっても自信があるのね」と言った。
「ありがとう。今日は一人で少し心細かったけど、あなたのおかげで午後も頑張れそう。あ、お名前……」
「持月! 持月薫です。その、君の名前は?」
「私は、
「こ、こちらこそ! ……よろしく」
その後、持月は昼食の時間や小休憩の際に彼女と会話を交わすうち、奇妙な感覚を味わっていた。今日が初対面のはずが、彼女の前ではひどく饒舌になっている。嶋田以外の人前でこれほど自然と言葉が浮かんできたのは初めてのことだった。
勝来は物腰が柔らかく、良くも悪くも素直な人物だった。物事を語る際には頭の中で思いついた言葉を直感的に発し、まさに天真爛漫といった風情がある。時おり自身の失言に対してひどく申し訳ないといった表情で謝罪の言葉を並び連ねることもあったが、含むところのない彼女のそんな姿に持月は却って安心ができた。
小難しい駆け引きや偽りの笑顔を振りまく日常を否応なく眺め続けていた彼にとって、これほど心休まる空間は久々のことだった。
「持月くんって、ほんとに楽しい人ね。もう笑い疲れちゃった」
瞳から溢れ出る涙を拭い、勝来は大きく深呼吸をした。「あと一教科かぁ。試験の後って、何だかとっても甘いものが食べたくなるよね」
「頭を使うから」
「私って、勉強中にすぐお菓子とか食べちゃうから、受験中に太らないか心配だよ……」
「そんなこと――」と答えながら、持月はふと彼女の身体を眺めた。細身の百瀬に比べ、適度にふくよかな体つきをした勝来は随分と胸が大きく、弾力のある二つの膨らみを眺めるうちに目の前の人物が異性であることを改めて認識した彼は、唐突に頬を赤らめた。
「どうしたの?」と勝来が尋ねたことで持月は正気を取り戻したが、自身が未だに彼女の胸元を見つめていることに気がつくと、慌てて左右に首を振りながら「な、何でもないよ!」と答えた。
見ると彼女もまた、頬を赤らめながら身体をもじもじさせており、「やっぱり、太ってるかな?」と恥ずかしそうに尋ねた。
全くもってそうではないと必死に答えつつ、「可愛いよ」という一言がどうしても口に出せない彼の中には、ある衝動が生まれ始めていた。
彼女と、二人きりで過ごしたい。
それは持月にとって、恐ろしく大それた行為だった。もちろん彼は今までに女性を誘った経験はなく、そんな光景を脳裏に思い描いたこともなかった。それがこの瞬間には泉が湧き出すように欲を見せ始めると、彼は乾いた喉を潤すために一度唾を飲み込んだ。
「あ、あのさ」
意を決して持月が言葉を発しかけた瞬間、運悪く室内にはチャイムの音が鳴り響き、続く言葉を伝えることはできなかった。それを合図に機械仕掛けの試験管が教室に姿を現すと、即座に問題冊子を配り始めている。
仕方なく前を向き直った持月は、筆記用具を整え始めた。すると背中をちょんちょんと突つかれて控えめに振り返ると、「頑張ろうね」と小声で言いながら彼女が顔の前で拳を握っていた。
それに対して小さく頷いた彼は、気づけば自身も拳を握りながら自然と口元を緩ませていた。
あぁ。彼女と過ごす時間が、早く戻って来ないだろうか。
持月は試験中もそのことで頭がいっぱいだった。試験自体は残念ながら彼の苦手とする英語であったため、早々に諦める自体となった。見直しにもまるで気が回らず、時間を持て余した彼は勝来と共に喫茶店で過ごす光景を脳裏に思い描いた。
横長のガラスケースに並ぶ彩り豊かな甘いものを熱心に見つめる彼女は、この上なく幸せそうな雰囲気を漂わせている。そんな彼女の横顔を眺める持月は、あまりの幸福感に景色が眩しくすら感じられ、目を細めながら口元を大いに緩ませるのだった。
ようやく模擬試験がすべて終了し、持月が問題用紙をいそいそと鞄に仕舞い込んでいると、予想外に素早く席を立った彼女は「またね」と笑顔で挨拶を交わすと足早に教室を出て行ってしまった。
思わずため息を漏らした持月は、彼女をお茶に誘うことはおろか、連絡先の交換すらできなかった自分の行動力のなさを呪った。
縁があれば、また再会することもあるだろう。今日の結果をなるべく楽観的に捉えることに決めた彼は、一人でとぼとぼと家路についた。
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