第26話

 夏休みに入ると、持月は一人で夏期講習に通い始めた。予備校では頻繁に模擬試験が行われ、今朝も肌を刺すように張りつめた空気のなか競争相手の集う教室を彼は歩き進んでいる。不慣れな室内でライバルたちの間を縫い、手に持った番号と照らし合わせながら席を探した。


「あれ……。おかしいな」


 不意に小さく声を漏らした彼は、目の前にあるべき自身の席に見知らぬ女の子が堂々と腰掛けているのに気がついた。三度ほど手元の番号と机上の番号を見直してから、持月は遠慮気味に「すみません」と声を掛けた。


「はい?」


 座席から彼を見上げたのは、やはり知らない顔だった。水色の涼しげなワンピースを着た髪の長い女の子。背筋を真っ直ぐに伸ばし、太腿の上できちんと両手を揃える姿はいかにも育ちの良さそうな雰囲気を醸し出しており、持月の顔を見つめる彼女は次に続く言葉を待っていた。


「もしかして、席を間違えていませんか? 僕、そこのはずなんだけど」


 なるべく丁寧な口調でそう伝えると、持月は自身の受験票を見せた。


「えっ? ……うそ」


 テレビ女優のように素晴らしい角度で首を傾げながら持月の受験票を覗き込んだ彼女は、慌てて自身の持つ番号と見比べ始めた。「あっ、ごめんなさい!」と彼女は両手を口元に当てて席を立つと、勢い余って机に膝をぶつけてしまい、「あ、痛ぁ……」と声を抑えた悲鳴をあげた。


「だ、大丈夫?」


「あぁ、はい」と頬を赤らめながら瞳を潤ませた彼女は、ゆっくりとその場から離れて鞄を掴み、「どうぞ」と手のひらを席の方に向けた。


「ど、どうも」


 軽い会釈をして席に移った持月がすれ違った瞬間、彼女の衣服からは仄かに柔軟剤の香りが漂った。上品に香る花の匂いは香水が放つ特有の妖艶さと異なり、まるで柔らかな毛布に包み込まれるようだった。座席には未だ彼女の温もりが残っており、それがどこか生々しく感じられた彼は困惑した頭で気もそぞろに参考書を開き始めた。


 しばらくして気配もなく教室に現れた試験官は、機械的に問題冊子と解答用紙を配ると無機質な表情を浮かべたまま試験開始の号令を放った。


 つい先日から本腰を入れて受験勉強に取り組み始めたばかりの持月だったが、初めの数問は難なく解き進めることができた。そのまま調子を上げていければ良かったのだが、やはり勉強不足は否めない。


 見覚えはあっても解き方の分からない問題、習ったのかどうか首を傾げたくなる問題、出題の意図すら理解できない問題などが多数見られ、もはや未知との遭遇に等しかった。


 昼食の時間になった途端に持月は机の上に突っ伏すと、ぐったりと項垂れて深いため息をついた。そこへ後ろからそっと肩を叩かれ、起き上がって振り向くと先ほど席を間違えた女の子がすぐ後ろの席から心配そうに彼を見つめていた。


「あの、大丈夫ですか?」


 上半身を捻った持月は、一つ後ろの席に腰かけた彼女を眺める。それはどこか見覚えのある光景に思えた。彼女は心配そうに持月を見つめながら、「体調が優れないのなら、早退した方が良いですよ」と言った。


「体調? ……あぁ」


 持月は納得したように声を漏らすと、「大丈夫ですよ。ちょっと馬鹿すぎる自分が嫌になってただけだから」と薄ら笑いを浮かべながら答えた。


「あっ。そっかぁ」と彼女は安堵したように息を吐くと、机の上に置いた小ぶりのお弁当箱に両手で触れながら、「今日の問題、難しかったよね。私も全然分からなかった」と言った。


「そうなの?」


 やはり他の者にとっても難しかったのかもしれない。彼女の台詞から不出来な者が少なくとも自分だけではないことを知った持月は、助かったなどと不謹慎ながら内心で思い描いていたが、「でも、私だけじゃなくて良かったぁ」と彼女はぽつりとそれを口に出した。


 優しく微笑みかける表情に自然と口をついて出たような台詞。そこには全くといって良いほど悪意が感じられず、溢れ出る純真さに持月はむしろ癒される心地がした。


「あの、さっきはごめんね、席間違えちゃって。私って本当におっちょこちょいで」と彼女は謝ると、またも恥ずかしげに頬を赤らめている。


「いや、僕は別に……。気にしてないから」


 恥じらう彼女の空気が伝染し、持月の方も何故だか気恥ずかしい気持ちになった。嶋田ならばこんな時、気の利いた台詞の一つでも言えそうなものだ。


「――若宮高校の人、なんだね」


 そう言って先に沈黙を破ったのは、彼女の方だった。

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