第十二章

第25話

 暑さも本格化し、夏休みを目前に控えた頃、百瀬に彼氏ができた。噂によるとある日の放課後に告白され、その場で了承したようだ。相手は二つ隣のクラスの男子生徒で、名前も聞いたことのない奴だった。


 これといって特徴のない、凡庸を絵に描いたような男。彼女はあんな奴のどこを気に入ったのだろうかと疑問に思いながら、持月は苛立ちを隠せなかった。あの日の口づけは、一体何だったのか。心に深い傷を負った彼は、最後の腹心を失ったローマ人のような孤独感に苛まれた。


 学内において彼氏持ちとは、一種の特殊状態を示している。それはまるで巧妙に仕掛けられたトラップのようなもので、むやみに声を掛けた異性は浮気を促したものと校内で噂され、あたかも法を犯した者のように扱われた。


 それゆえ持月はクラス内ではもちろん、図書委員で二人きりの時ですら彼女との会話を避けて過ごしていた。


 部室へ通う足が遠のいたことを彼女からは詰問されたが、生返事で答えながら持月が逃げの姿勢を貫くと次第に百瀬が彼に声を掛ける回数は減り始め、その後行われた席替えではまるで二人の関係性を具現化するように端と端に席が分かれた。


 少しずつ距離を縮めていた彼らは、あっという間に疎遠になった。途方もない脱力感と虚無感を味わった持月は今や教室が別次元の空間に思え、不毛な日常に悶々とした寂しさが襲うと今にも胸が張り裂けそうだった。


「なんだ、最近元気ないな」


「……別に」


 隣を歩く嶋田は、持月の異変にすぐさま気がついた。近頃は放課後になるとその足で帰宅するので、彼と一緒になる機会も多くなっていた。


「なんだ、機嫌も悪いのな」


「だったら何なのさ!」


「おいおい、急にキレんなよ。反抗期か?」と冗談交じりに答えた嶋田は、「まぁ、俺で良ければ話してみなさいな。数学以外なら大抵は問題ないぞ」とお茶らけた様子で言った。


「いや、そういうんじゃないから」


 持月がぶっきらぼうにそう答えると、「なんだ、勉強じゃないのか」と嶋田は後頭部で両手を組み、「もしかして、女か」と言った。


「な、なんでさ?」


「おぉ、マジか。お前が女とはねぇ」


 持月の分かりやすい慌て様に驚いた嶋田は、すでに瞳孔の開いた瞳をさらに見開きながら「ふむふむ」と何度か頷いた。


「まぁ、俺から一つだけ言わせてもらえればだな、――女は腐るほどいる!」


「ざっくりとしたアドバイスだね」


「ちなみに彼女を作るなら、大学に入ってからがおすすめだぞ」


「一つじゃなかったの? それに、何でフラレた前提なのさ」


「え、違うの!?」と彼はまたも眼球を剥き出しにした後、「まぁ、あれだ。薫もこれから受験勉強が本格化するわけだし、今から付き合ってもすぐに卒業なんだからさ、脈アリなら早いとこ告っちまえよ」


「……もし、脈がなかったら?」


「そっちはもっと簡単だろ」持月の肩に腕を回した彼は声を抑えながら、「――さっさと諦めることだな」と囁いた。


 帰宅した持月は、二階に上がってそそくさと自室の窓を開いた。もはや習慣となりつつある喫煙の最中に携帯電話が鳴って見ると、それは嶋田からのメッセージだった。


 煙を吹かしながら内容を確認すると、「これでも見て元気だせやぁ」という文面の下にはURLが記載されていた。


 リンクを辿るとSNSのとあるページに飛び、自動で再生された動画には見覚えのある光景が映し出された。真っ黒な空間で椅子に腰かけた仮面姿の少女は、ワイシャツの上から執拗に胸を揉んでいる。


「あっ」と声を漏らした持月は咄嗟に画面から目を背けたが、彼女の荒々しい息使いは未だ耳に届いていた。


 煙草を空き缶に捨ててから再び視線を遣ると、太股の辺りを撫で回す彼女は時おりスカートの裾を思わせぶりにちらりと捲くりあげた。その艶かしい指先の動きから目を離せなくなった彼は、食い入るように動画を見つめ続けた。


 写真部の部室であの日垣間見た、あの瞬間。その先がここにはある。


 ――すると突然、彼は下半身に熱を帯び始めるのを感じていた。


「おう、薫。帰るか」


「うん」


 翌日の放課後、遠方の座席から送られる熱い視線に気付かぬふりをして持月は席を立った。朝からずっと、百瀬の存在を感じるだけで気持ちが落ち着かなかった。まるで秘密裏に一夜を共にしたような、そんなバツの悪さを覚えた。


 百瀬は相変わらず「おはよう」と朝から軽い調子で挨拶を寄越したが、反射的に彼女の身体を意識してしまう持月は思い掛けずそれを無視した。そのため彼は、不機嫌な圧力を浴びながら一日を過ごしていた。


「昨日のアレ、どうだった?」


「あ、あんなの送らないでよ」


「てことは、見たんだな」と嶋田はニヤついた表情を見せ、「お前は部屋にエロ本の一つもないからなぁ。そのうち欲求不満が爆発すんじゃねーかって心配してたんだよ。幼馴染としてはさ」


「それは悪友としてでしょ……」


「お、そっか」と答えると嶋田は彼の肩に腕を回し、「まぁ、一応定期テストも近いし、エロ動画もほどほどにしとけよ」と小声で言った。


「じ、自分で送っといてよく言うよ!」


「あは、そうだったか」と惚けた声を出した嶋田は、快活な笑い声を上げた。そんな彼の姿を眺めていると、自分を元気づけるために何かと知恵を絞ってくれる彼の気遣いが、持月は素直に嬉しかった。


 帰宅すると持月は部屋に篭もってパソコンを起動させ、毎夜のように彼女の動画を眺めて過ごした。彼が部室を訪れなくなって以降は動画の更新もされておらず、同じ動画を何度も繰り返し再生するうちに今では目を閉じれば瞼の裏に彼女の裸体をくっきりと思い描けるようになった。気づけば不意に彼女の幻影が目の前に現れるような気さえするほどだった。


 彼女とのふしだらな関係を思い描くだけでは飽き足らず、何時しか持月は校内に煙草を持ち込むようになった。校舎裏でひっそりと吸いながら、誰かに見つかるかも知れないという状況がさらなる背徳感を生み出すと、興奮と虚しさが一層激しく、それも同時に訪れた。


 彼女の言わんとすることが、持月にも少しずつ分かり始めてきた気がした。欲求とは、エスカレートするものなのだ。

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