第十一章

第24話

 果てた後にも身体が火照り、そこには確かな罪悪感が存在していた。


「今日は何か、激しかったね。どうかしたの?」


「あぁ、別に。……ごめん」


「謝らなくても。気持ちよかったし」


 てきぱきと自身の下着を身に付けた綾香は、いつものように彼の下着を放り投げると新しいお香に火をつけて台所に湯を沸かしに行った。彼女の後ろ姿を眺めながら、彼の頭の中ではあの子の姿が影のように重なってしまう。


 珍しく浮き足立っている自分自身が、持月は気に入らなかった。無造作に頭を掻きむしりながら、またも煙草が吸いたい衝動に駆られている。性的な欲求と煙草の匂いは、彼にとって切り離せない要素となっていた。


 ベッドから起き上がった持月は、「この間は災難だったね」と現実の彼女に向けて話しかけた。


「なにが?」


「川村のことだよ」


「あぁ」彼女は思い出したように何度か頷き、「でも、慣れてるから」


 コーヒーにこだわりを持たない彼女は粉コーヒーをスプーンで適当に掬い、湯を注ぐ。日によって薄かったり苦かったりと、味はまちまちである。


「私はきっと、潤滑油なの」


「僕はオリーブオイル派だな」


「……ばか」と返して顔をニヤつかせた彼女は、改まった表情を浮かべ、「みんな自分に都合の良い事ばっかり言うでしょ? 人の話なんて全部反対側の耳から通り抜けちゃう。私はあんな風に人前で本音を曝け出すことなんて出来ない。ううん、したくないの。だからそんな私が間に入って、物事を円滑に回転させるべきなのかもしれないかなって」


「なるほど」


 言うなればその役割は、高校時代の百瀬と同じだった。大半の人間は公の場ですら自らの欲望に忠実で、その暴力的な情動の捌け口として彼女らは利用されている。表では徹底して本性をひた隠し、欲求を抑圧する彼女らはその反動として裏側のごく限られた世界で密かに背徳的な行為に及び、鬱憤を爆発させた。


 そこに生じる落差や相反する要素が混ざり合った姿にこそ、彼女らの魅力は隠されている。群衆に紛れてあれほど隙を見せまいと奮闘する彼女が時おり垣間見せる綻び、その奇妙な危うさは強烈な引力を伴い持月を惹きつけていた。


 当然ながら、綾香はあの頃の彼女よりも成熟しており、道化を演じることにも長けていた。非常に抜け目がなく、周到である。それでもやはり人前に立つ彼女が所詮は精巧に作られた偽物であると彼が気づいたのは、綾香の振る舞いにあの子が重なったからだろう。


「僕の前では油っぽくないよね」


「何よその言い方、汚らしい」と言って綾香は笑うと、「あなたと私は、似た者同士だから」と答えた。


「僕ってヌルヌルしてる?」


「その下り、しつこい」と言いながら綾香は両手にカップを持ち、彼の方へ歩いてきた。「頭の中で考えていることが時々通じ合うと思わない? 忙しい時とかは特に。ほら、あの日とか」


 そう言うと、彼女は唐突に笑い始めた。大型連休の入店ラッシュを思い出しているのだろうか。あの時期はアルバイトの休み希望も多く、少ない人員で吐き気がするほど忙しかったが、それでも持月と綾香は上手く連携しながら汗だくになって何とかやりきっていた。


「ピーク時に彼氏が来た時は、ほんとぶん殴りたかった」


 眉間に皺を寄せながら彼にカップを手渡すと、綾香は隣に腰掛けた。


「握りやすいフライパンが一つ余ってたのに」


「なんでその時言ってくれなかったの?」


「もっと重いやつが空くのを待ってたんだ」


「あはは。ほんと、薫さんったら気が利くんだから」


 今日は、少し濃い。口に含むとざらついた粉の食感が残ったが、それでも綾香に淹れてもらうコーヒーが彼は好きだった。


 彼らはこの上なく、相性が良かった。それはひとえに身体の関係に留まらず、仕事の面においても言えることだった。互いの思考をある程度予測できるため、混雑時ですら二人の間では言葉でのやりとりを必要としない。そんな彼女と仕事をすると、パズルのピースが上手く噛み合う瞬間のような喜びが溢れて彼は心地良かった。


 しかし、行動や思考をある程度予測できるからといって互いの本質をすべて見通せるわけではない。むしろ奥底に抱える致命的な問題に触れることを自重するあまり、時にむず痒いような感覚に襲われる。本意は一体どこにあるのかと、不安にもなった。


「ねぇ、最近彼氏とはどう? 仲良くやってる?」


 ルールを犯す行為であると承知で、彼はそう尋ねた。隣で途端に歪んだ笑顔を浮かべ始めた綾香は、「どうして、そんなこと聞くの?」と低い声で返した。


「いや……」


 持月の心中は今まさしく、全身を油で塗りたくった綾香に抱擁された心地だった。油分で滑った互いの身体は摩擦力を失い、みるみる遠ざかっていく。気づけば彼女は、遥か先の孤島で一人蹲っていた。


「別に聞きたくないでしょ。他人の恋愛事情なんて」


 他人……。


 持月は不意に、彼女の洗練された仮面に怖気づくと「そうかもしれないな」と口にしていた。


「あはは。今日の薫さんは色々とおかしいよね」と声を上げて笑った綾香は、「可愛い」と囁きながら彼の頭を撫で、立ち上がってシャワーを浴びに行った。彼女の後ろ姿が扉の向こうに消えていくのを見送った持月はため息をつき、すでに冷め始めているコーヒーを一口に飲み干した。


 僕は、綾香に何を求めているのか。


 持月は徐々に自我を失いかけていた。彼女を手放したくない理由は単なる快楽か、背徳感か、それとも独占欲だろうか。


 欲……。


 とうの昔に投げ捨てたはずの感情が芽生えていることに気づいた彼は、戸惑いを隠せなかった。目の前の彼女を独り占めしたいという想いが日毎に増していく。


 出会った頃の綾香は、まるで利用者のないメリーゴーラウンドのように徒労感に溢れた少女だった。少しずつ持月と言葉を交わすようになり、関係を結んでからも彼の中では例に漏れず、宿り木に留まる一羽の小鳥に過ぎなかった。


 当初は彼氏の立場に取って代わろうなどとは微塵も思っておらず、彼女にその気がないことも理解していた。それが今では綾香に対し、彼は深い情愛を抱き始めている。けれど同時に、忘れかけていたあの子の影がすぐ手の届く所に感じられるとやはり心が揺さぶられ、そちらに傾きかけてしまう。


 持月はそんな自分自身が、ひどく傲慢な人間に思えてならなかった。


 決して、欲を抱いてはいけない。欲望は時に快楽を運び、いずれは苦痛を伴うものなのだから。

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