第23話

「私のお父さんは、結構有名な写真家なの。ずっと世界を飛び回ってて、会えるのは一年のうちほんとに少しの間だった。だから私もカメラが上手くなれば、お父さんもこっちに興味を持ってくれるかなって思ったの」


 そう言うと彼女は革のショルダーバッグから小ぶりのカメラを取り出し、フラッシュを焚いて持月を撮影した。


「……眩しいよ」と照れたように持月が顔を背けると、「いいじゃん!」とそれを追いかけながら彼女は何枚かシャッターを押し、「私の苗字ね、ほんとはもう百瀬じゃないんだよね」と言った。


「え?」と持月が振り返ると、彼女は「隙あり!」と言って彼をフレームに収めた後、手に持ったカメラを大事そうに撫で始めた。


「ほら、離婚してお母さんは再婚相手の籍に入ったから今は桜井絵美だし、私も本当はそこの籍に入るのが普通の流れではあるんだけど、それだけは断ってお父さんの籍に残してもらってるの」


「どうして、断ったの?」


 やはり、実の父親を想って籍を外れなかったのだろうか。籍から離れるとまるで他人に逆戻りしたように思えてしまい、僅かな繋がりに縋りついたのだろうか。


 持月が密かにそんな想像をしていると、彼女は眉間に皺を寄せ、「だって、籍を移したら私は桜井冬華だよ? そんなの春だか冬だか訳分かんないじゃん」と怒ったように言った。


 持月が無言でじっと顔を覗き込むと、彼女は本気でそう思っているように見えた。だから彼は思わず吹き出してしまい、「あはは。それはそれで、贅沢な名前に思えるけどね」と笑いながら答えた。


「君って、段々私に対して遠慮がなくなって来てるよね」


 そう言うと百瀬は少し拗ねたように顔を背けた後、夜空に浮かぶ月を見上げた。まるで遠い異国を転々と渡り歩く父親を心の中に思い描くような、そんな彼女の真摯な横顔を眺めた持月は、「でも、僕は百瀬って名前の方が、何か好きだな」と言った。「君には似合ってるよ」


 持月の言葉に振り返った彼女の瞳は、色素の薄い琥珀色ではなく焦げ茶色をしていた。それが百瀬という子の、ありのままの姿だった。


「なにそれ。説得力がまるでないよね」と答えた百瀬は赤らめた頬を隠すように俯きながら、「そういえば、男子はさっき集まって何の話してたの?」と話題を変えた。


「えっと……」と言葉を詰まらせた持月は、少々気まずい表情を浮かべ、「エッチな話、かな」と答えた。


 それを聞いた百瀬は肩を竦めながら、「やっぱり。どこも似たようなもんだよね」とため息交じりに言った。


「厭らしい目つきで何人かこっち見てたし」


「厭らしいって……」


 その言葉に持月は、ショルダーバッグの革紐を斜めがけにした彼女の胸元にふと視線を遣ると、豊満な二つの膨らみがくっきりと割れている様に思わず目を逸らした。


「じ、女子も、エッチな話をしたりするのかな」


「もちろん!」と快活に答えた百瀬は、彼の耳元に顔を寄せ、「たぶん、男子より何倍もすっごいよ」と吐息交じりに囁いた。「生々しいんだから」


「そ、そうなんだ……」


 男子たちが話していたように、女子も彼らの身体を眺めてあれこれと言い合ったりするのだろうか。そんな彼女たちの姿を想像すると、持月は妙に気恥ずかしくなった。自分もその対象に入ったりするのか、百瀬はそういった話題に参加するのだろうか。


「百瀬は――」と言いながら持月が振り返ると、彼女はいつの間にかバッグから取り出した煙草に火をつけ始めていた。


「もう! またこんな所で」彼が慌てて周囲を警戒すると、百瀬は吸い込んだ煙を勢いよく吐き出し、「良いじゃん、こんな田舎道だし。どうせ誰も通らないよ」と言った。


「それに、今は二人とも私服だしね」


「そういう問題じゃ……」


「しっ!」と彼女は人差し指で彼の唇にそっと触れると、「君って何だか、母親っぽいよね」と囁いた。


 彼は足を止め、黙って自身の胸にそっと手を触れた。


 心音が、やけに騒がしい。数秒間見つめられただけなのに、それがとてつもなく長い時間に感じられた。


 そのうちに指を離した彼女は、彼の前を歩き出した。


「君はさ、いつもと変わらなかったね。お酒も飲んでなかったみたいだし」


 前を向いたまま呟くようにそう言うと、彼女は携帯灰皿に煙草を押し消した。


「やっぱり、百瀬にはバレてたか」と持月が頭を掻いていると、彼女はくすっと笑い、「こんな風にはなりたくないもんね」と視線を落としながら寂しげに言った。


「いや、そうじゃなくて……」


 彼はずり落ちた眼鏡に触れると、位置を正して彼女を見つめ、「あそこでみんなを眺めていると、不思議な気持ちになったんだ。こんな言い方して良いのか分からないけど、あまり刺激を感じなかったっていうか」


「そうなの?」と首を傾げた彼女は、「でもそれって、正しい反応だよね」と答えた。「もしかすると、君が自我に目覚めた証拠なのかも」


「自我?」と呟くと、彼は俯いて腕を組みながら、「どうすれば、もっと楽しいって感じられるのかな。いや、楽しいっていうのとは少し違って、今日だって十分楽しかったんだけど、僕が言いたいのはもっと――」


「ねぇ、手繋いでいい?」


「え?」


 顔を上げると思いのほかそばに彼女が近寄っており、返事を待たずして彼の右手を取った。


 その感触は想像以上に柔らかく、温かい。自分で手を握るのとは違い、指先の感触の伝わり方が遥かに敏感だった。彼女が僅かに力を込めるとその先の皮膚や細胞がどこか違和感を覚え、くすぐったいような、身体の芯が疼くような気分になった。


 彼は手汗が滲むのを感じ、それが妙に気になり始めていた。不愉快ではないだろうか。力加減は? もう少し力を抜いた方が……。徐々に激しさを増す心音が手の平から伝わってしまうのではないかと心配になり、彼はひどく落ち着かなかった。


「楽しくなった?」


「お、おかしいよ。僕らが手を繋ぐなんて、そんな……」


「どうして?」


 彼女は持月の顔を覗き込み、向かい合ってもう片方の手も握ると顔を近づけた。


「どうしてって言われても、えっと――」


 百瀬はゆっくりと、それでいてスムーズに彼の口元へ唇を合わせた。そっと顔を離した彼女は潤んだ瞳で彼を見つめ、「少しくらい、おかしくても良いじゃない。君って考え方がケチだよね」と言って笑顔を見せた。


 その瞬間、彼の思考能力は突如動きを止めた。太陽を直に見上げたように目の前は真っ白になり、まるで全身が痺れるような、電気が走ったような衝撃があった。心臓は相変わらず激しく脈打ち、いつかは胸を突き破ってしまうのではないかと思われた。


 初めてのキスは、新鮮なレモンのように爽やかで甘酸っぱいものであると嶋田から聞かされていたが、実際に彼が経験したのは、微かに桃の香りを含んだアルコール臭さと芳しい煙の匂い、それらの要素をごちゃ混ぜにしたマシュマロのような感触だった。

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