第20話
ゆっくりと後ろを振り返った須藤玲奈は、声の主である持月を静かに一瞥すると、床に落ちた雑誌を拾って再びページを捲り始めた。
ほんの束の間だけ持月と交わった彼女の眼差しは、まるでごみ捨て場を漁る烏を眺めているようで、「なんだ、居たのか」とでも言いたげに冷淡なものだった。
持月は鼻の上でずれた眼鏡の位置を正すと、両手の指を胸の前で絡めながら、「あのさ、今度図書委員が主催で小学生の読書会を開くことになってて、それで、子供向けの本をいくつか選出しなくちゃならないんだ」と言葉を詰まらせながら言った。
「何が言いたいわけ?」
そう言って急かすようにカウンターに詰め寄ったのは、小宮だった。
「だから、えっと……。今日はこのあと僕ら二人で市民図書館に行くように先生から頼まれてるんだ」
「はぁ? そんなの、あんた一人で行けば良いじゃん!」と大森は大声で怒鳴りながら、小宮の隣に並んでカウンターを叩いた。
二人の威圧的な態度に臆しながらも持月は勇気を振り絞り、「も、もちろん、僕は一人でも構わないんだけど、その……。今回の読書会の担当は、か、柿崎先生なんだよ」と続けて話した。
彼がそう話すと、目の前に立っていた小宮は「げ、柿崎……」と思わず苦い表情を浮かべて舌打ちをした。
柿崎とは生徒指導を受け持つ体育教員で、生徒たちに正義の鉄槌という名の暴力を容赦なく振るう男である。前職がヤクザの幹部だったとも密かに噂されるその男は異様な貫禄があり、彼女らのような素行の悪い生徒にとっては名前を聞くだけでも不愉快な存在だった。
「後で先生も様子を見に来るって言ってたから、百瀬がいないときっと僕が問いただされるだろうし、僕はその……。ほら、あの先生って恐いから、言い訳とかあまり上手くできないかもしれない」
「ちっ。何それ、使えねー」
醜く顔を歪めた小宮は、またも舌打ちをしている。
正直、穴だらけの言い訳だと持月は思った。読書会なるものが本当は存在しないことなど、行事予定に目を通していればすぐに分かることだ。生徒指導で体育教員の柿崎が図書委員の活動に関わりのないことなど、冷静に考えればすぐに思い当たる。
だが持月は、彼女たちがそれらの情報にひどく疎いことをすでに把握していた。あの須藤玲奈ですら、先日行われた避難訓練のサイレンに驚いている様子を見せていたくらいだ。
恐らく彼女らには気づかれない。しかしながら、彼の胸の中は今にも破裂寸前だった。
僕は今、嘘をついている。
それだけでも持月の心はざわついていた。それに加えてこの危機的状況、本来ならば頭の中が真っ白になってもおかしくないはずなのに、彼の頭は妙に冴えていった。血液が巡り、アドレナリンが分泌されるのを感じられる。緊張と興奮の狭間で、持月は確かな高揚感を覚えていた。
「え、どうする?」
途端に弱気になった大森が小宮の方を見遣ると、「私に言われても……」と答えた彼女はお伺いを立てるように須藤玲奈の方を向いた。
片手を腰に当てて雑誌のページを捲っていた須藤玲奈は、彼女らの視線に顔を上げるとわずかに顔を歪め、「千鶴のとこ声掛けに行くよ」とだけ言って扉を出て行った。
「千鶴かぁ。あいつ空気読めないしなぁ」
「まぁ愛美じゃなきゃ、私は誰でも良いけど」などとぶつぶつ言いながら、取り巻きの二人は須藤玲奈の後を追った。
「ふぅ……」
彼女らが去って室内が唐突に静まり返ると、持月は大きくため息をついた。すると途端に身体が震えだし、自分はとんでもないことをしでかしたのではないかと冷や汗が額に滲んだ。このまま嘘がバレないようにするには一体どう辻褄を合わせるべきかと彼が思考を巡らせていると、「どうして、あんな嘘ついたの?」と百瀬が乾いた声で尋ねた。
「え?」
見ると彼女は、未だ怯えたように青ざめた表情を浮かべている。やはり余計なお節介だったかと彼は罪悪感を覚え始めたが、「あーあ。これで私も下手すると、いじめられちゃうかもなぁ」と百瀬は開き直った表情で口にした。
「ご、ごめん……。そうだよね」
持月が焦った顔で謝罪すると、それを見た彼女はくすっと笑い、「ううん、助けてくれてありがとう」と答えた。「君が挙動不審過ぎてかなり冷や汗ものだったけど、案外上手くいったね。柿崎の名前を出した時のあの二人の反応は傑作だったよ。この、大嘘つき!」
そう言って彼を指差した百瀬は、無邪気に笑っている。それにつられて持月にも薄っすら笑みが溢れると、身体の強張りは徐々に解れていった。
「でも、どうして助けてくれたの?」
ひとしきり笑い終えた百瀬は、首を傾げながらそう尋ねた。
「それは……」と俯いた持月は、先ほどの事について考えていた。あの時の衝動がどういった類のものであるのか。
「一応、……共犯者だし」と考えた末に彼が答えると、彼女は優しく微笑みながら、「ほんと素直な人だよね、君は」と小さく呟いた。
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