第21話

 その日帰宅した持月は、未だ興奮冷めやらぬ状態が続いていた。


 虚言により他人を欺いたにも関わらず、思いのほか気分は晴れやかだった。それは百瀬からの感謝の言葉と、初めて彼に見せてくれた温かな笑顔が大いに影響していたのかもしれない。


 善行のために用いる虚言は、必ずしも悪ではない。持月はそう思った。より深く潜ることで、彼女の深層に少しでも近づきたい。急いで私服に着替えた彼は、キャップを被って自室を出た。


「あら薫、どこか行くの? もうすぐご飯よ」


 階段を降りて玄関に向かう際、持月はリビングにいた母親に声を掛けられた。「本屋に行ってくる」と咄嗟に答えた彼は、続けて話しかけられる前にスニーカーを履いて玄関を後にした。もはや前科持ちの身だ、これしきの嘘では何も感じない。


 持月が目指す場所は実のところ本屋ではなく、コンビニだった。徒歩圏内にもいくつか点在していたが、今日の彼は自転車に乗って普段は利用しない離れた店舗を目指した。


 穏やかな風に揺れる葉桜は、周囲の木々と区別がつかないほど凡庸な姿になり果てている。すっかり春の終わりを感じさせる景色だったが、それでも太陽が沈むと昼間に比べて途端に気温は低くなり、ウインドブレーカーのポケットに片手を突っ込んだ彼は前かがみになって自転車を漕ぎ進んだ。


 暗がりに一軒だけぽつんと佇む灯り。外から眺める限りでは、利用客はほとんど見受けられない。現在レジの前で会計を済ませている男性客以外には表に立つ彼と、電灯に屯する蛾だけだった。


 彼は恐る恐るコンビニに足を踏み入れた。


「っしゃーませぇ」と覇気のない声が店内にぼんやりと響き渡るなか、彼はすぐさまレジには足を向けず、ひとまず店内を大回りしてから缶コーヒーを一つとライターを手に取った。


 レジに店員は一人だけだった。髪にパーマの掛かった男性で、バインダーを片手にボールペンで何かを書き込んでいる。


 持月がレジの前に立って商品を置くと、すかさず棚の上にバインダーを置いた彼は何も言わずにバーコードを通した。


「二百六十円で――」


「あ、あの、四十八番! ……をくださぃ」


 声に反応して顔を上げた店員は、彼の方をちらりと見遣る。幼い顔立ちをした持月はキャップのつばを心持ち下に向けながら、顔が見えないように覆い隠した。相手は特に何も指摘することなく黙って後ろの棚へ振り向くと、指定された煙草の箱を手に取った。


 白い箱の上部には、緑色の屋根のようなデザイン。百瀬が吸っていたものと同じその箱を持月は記憶していた。店員はそれにもバーコードを通すと、「三点で、七百八十円っす」と言って袋に詰め始めた。


 店を出た持月は、急いでその場を離れた。怪しまれただろうかという不安を覚えつつ、またも胸が高鳴るのを感じていた。来た道よりも力強くペダルを漕いだ彼は、心を弾ませて自宅を目指した。


 自宅に到着すると、母親に見つからないようこっそりと二階に上がった持月は自室の扉に鍵を掛けた。電気の消えた真っ暗な室内を奥まで進み、窓に掛かったカーテンを開くと柔らかな月明かりが室内を優しく照らし始めた。


 薄暗がりの中、窓を開けた彼はコンビニの袋から煙草の箱を取り出した。手に持った物を見つめていると、唐突に足が竦むような気持ちになった。


 試したい。けど、本当に良いのか? その葛藤がしばらく続いた。


 悩んだ末にビニールの包装を解いた彼が蓋の内部に見られる銀紙をぎこちなく破ると、綺麗に整列した二十本の煙草が姿を現した。顔に近づけて匂いを嗅げば、それは百瀬の香りだった。


「一本だけ、試しに」と自身に言い聞かせる彼は、白い棒を箱から取り出した。口に咥え、呼吸を整えてからライターで先端に火をつける。


 息を吸い込むと、先日と同じように煙が体内へと入り込んだ。今回は加減を間違えなかったおかげか、咳が漏れ出すこともなかった。


 あぁ、ひどく苦い……。


 身体はふらつき、頭が重い。まるで重力の渦に飲み込まれてしまうような心地だ。こんな煙を吸い込むことで何が満たされるのか、彼にはやはりまだ理解が出来なかった。


 されど、そこはかとなく沸き起こるやましさ。特異な世界に足を踏み入れたような背徳感は、およそ破廉恥な行為を犯している感覚だった。これを繰り返していけば不可解な心の疼きの意味を知り、彼女の深淵へとさらに近づけるのではないか。そう思った彼は、今度はひときわ強く煙を吸い込み始めた。

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