第四章

第7話

「もう。吸う時は窓開けてよ。臭いが付いちゃう」


「ここは君の部屋だったか?」


「あなたの部屋でもないでしょ。個人的にその臭いが苦手なの」


 エプロンを外して椅子に腰掛けた綾香は、賄いのカレーを机に置いて携帯電話の液晶を熱心に眺めている。持月は吸いかけの煙草を灰皿に寝かせると、しぶしぶ立ち上がって休憩室の窓を開いた。


 彼の務めるレストランでは、ホールとキッチンの担当スタッフがそれぞれ順番に休憩を取る仕組みとなっていた。持月と綾香はこの日偶然一緒になったが、賄いを準備する都合上こういうことはよくある。


 彼らは職場ではあまり会話をせず、周囲からはさほど親しくないものだと認識されていたが、そもそも持月は彼女と二人きりにならない限りほとんど誰とも口を利かなかった。


「なんか、今日は暇だね」


 綾香はそう言うと、携帯電話を置いて窓際に立つ持月の方に視線を遣った。「このまま終わると思う?」


「もう少しで、またひと波来るだろうな」


「だよねぇ……」とため息交じりに答えた綾香は、何かを思いついたように目を輝かせると、「じゃあ、もしこのまま暇だったら後であれ作ってよ、美味しいやつ!」と言った。


「はぁ? 今から賄いを食べる奴がよく言うよ」


「その頃にはもう消費してるもん、若いから」


「ふん」と鼻息だけで答えた持月は、冷蔵庫に余った食材を頭の中に思い描いていた。持月の作るオムライスが彼女のお気に入りだが、今日はあいにく鶏肉が品薄だった。


「ソーセージで代用か」と持月が小声で呟くと、綾香は彼の思考を見透かしたように笑みを浮かべ、「私、薫さんの味付けなら何でも好きだよ」と言った。


「まだ作るとは言ってない」


「はいはい。暇だったらね」


 そう言って綾香が持月の横顔を眺めていると、休憩室の扉を叩く者があった。


「――お疲れぇ」


 扉を開きながら綾香に声を掛けたのは、ホール担当の川村真理だった。鼻筋の通ったリスのような顔立ちをした彼女はエプロンを片手に目を細め、薄ら笑いを浮かべている。


 左右に口を大きく開き、歯茎を剥き出しにして笑う姿は間抜けな馬のようで、持月は苦手だった。他にも勤務態度の悪さや社員に媚を売るような姿勢が非常に目障りな存在ではあったものの、自分に害がない限りは極力関わらないように努めていた。


 彼女らの年代は近いが、川村真理の方が一つ年上で先輩のホールスタッフでもあるため綾香は慌てて席を立ち、「川村先輩! あれ、もう上がりですか?」と緊張した面持ちで答えている。


「うん。なんかねぇ、暇だからちょっと早いけどもう上がって良いよって、坂井さんに言われたの」


 川村真理は舌足らずな話し方でそう言うと持月の方をちらりと見たが、軽い会釈をしただけで挨拶は寄越さなかった。


「あぁ……。坂井さんに」


 坂井とは、ホールを担当する持月よりも若い社員である。不健康なほどに色白な男で、飲食店勤務の割に派手なパーマをかけた彼は本部の人間が時おり視察に来るとあまりの要領の悪さにいつも罵声を浴びせられている。


 持月としてはもうひと混みあると予想していたので、判断を早まったのではないかと心配になった。


「早く上がれて良かったですね」


 綾香が笑顔でそう答えると、川村真理は大袈裟にため息をつき、「でもさぁ、今月は稼ぎたかったからさぁ、逆に迷惑なんだよねぇ」と不機嫌そうに言った。「なんであたしばっか」


「あぁ……」


 前回に自身が早上がりを命じられていた綾香は彼女の意見に全く賛同できなかったが、気まずい空気を即座に感じ取ると、「そうですよね! いくら暇だからって、突然帰らされるのは迷惑な話ですよ」と切り返しながら見事な太鼓持ちを演じている。


「でしょ! 坂井さんってぇ、暇だったらあたしのことばっかすぐに帰らせるような気するしさぁ、あの人きっと、あたしのこと嫌いなんだよ」


「いえいえ、そんな、違いますよ!」


 綾香は焦ったように手を振ると、「明日香ちゃんが残りたいって言ったのかもしれないじゃないですか」と言った。「あの子は学費も自分で稼がないとですから、大変でしょうし」


「あぁ。明日香ちゃんねぇ」


 その名を耳にした川村真理は、心底煩わしそうな表情を浮かべ、「あたし、あの子って何か苦手かも」と冷たく言い放った。「坂井さんにすっごい媚売ってなぁい? そのせいであたしたちがこんな風に被害を受けるなんてさぁ、何か納得いかないよねぇ。――ちっ。腹立つわぁ」


「…………」


 社員に媚を売って楽な仕事ばかりしている張本人がよく言うものだと内心で思った綾香は、ほんの一瞬だけ居心地の悪い表情を垣間見せたものの、「良かったら、私と代わってもらえるよう坂井さんに聞いてみましょうか」とすかさず提案をした。「ねっ、それが良いですよ!」


「えぇ、ほんとに? でもそんな、綾香ちゃんに悪いよぅ」


 川村真理は抑揚を効かせた台詞でそう答えると、彼女の申し出を受け入れ難そうに手を振っているが、その言葉とは裏腹に両の瞳は半月状を描き、むしろ当然だと言わんばかりの雰囲気を漂わせていた。


「えぇ、どうしよっかなぁ。ほんとに良いのぅ?」


「全然良いですよ。どうせ今日は暇ですし、是非私と代わってやってください!」


 綾香が駄目押しにそう言うと、川村真理は先程までの険悪な空気とは打って変わり、甘やかされた子供のように無邪気な表情を浮かべながら、「えへ。綾香ちゃんは、ほんと優しいよねぇ」と言った。


「いえいえ。私も今日は、早く帰りたかったですから」


 綾香は徹底して、目の前の相手に本心を隠し通した。二人の不毛なやりとりを窓際から密かに眺めていた持月は、小さくため息を漏らしながら脳裏に思い描いていたオムライスのレシピを追い払ったが、そんな彼に視線を遣った綾香はどこか申し訳なさそうな表情を浮かべている。


 なぜ君が、そんな表情をするのか。


 少なからず苛立ちを覚えた彼は、窓の方へと向き直った。


「じゃあ私、坂井さんに言ってきますね」


 綾香が席を離れようとすると、川村真理は慌てて彼女を呼び止め、「えぇ、そんなすぐに行かなくても良いってぇ。あたしもその間に一回これ挟みたいし」と言って指を二本立てながら煙草休憩をアピールした。


「あぁ、そうですよね」


 半ば呆れたように、彼女が僅かに肩を竦めたのが持月には分かった。細心の注意を払っても、彼らは根底で通じ合ってしまう。席に腰を下ろした綾香が気分を取り直して賄いを食べ始めようとしたところで、ノックもなしに勢いよく扉を開いた社員の坂井は室内を覗き込んだ。

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