第6話

 ふくらはぎに疲労感を覚えつつ、部室棟の三階を端まで確認してようやく持月は写真部の部室を発見することができた。扉を軽く叩いたが、反応はない。彼は小声で「失礼します」と呟きながらノブに手をかける。鍵は掛かっていなかった。


 電気はついているが室内に人の姿は見当たらず、ざっと見たところ鞄などの荷物も置かれていなかった。文芸部と同じく長机が一つとパイプ椅子がいくつか配置され、向かって左側の壁際に設置されたスチールラックには文庫本の代わりに分厚いファイルが並んでいた。


 持月は三脚を置いてすぐに退散しようと思ったが、室内の右奥に設置されたパーテーションの裏に<暗室>と表記された扉があるのを見つけ、それが少し開いていることに気がついた。


 扉の向こうに部員がいるのかもしれないと思った彼は、隙間から中を覗き込んだ。四畳ほどの狭い室内は壁一面に暗幕が引かれ、照明が落とされている。スタンドライトの灯りが一つ、これまた黒い布で覆われた椅子に腰掛けた一人の女子生徒を頭上から照らしていた。


 彼女は何やら軽妙なポーズをとり、向かいの三脚に設置されたスマートフォンの無機質な瞳がその姿を捉えていた。


「ひっ……!」


 今にも悲鳴を上げそうになった持月は咄嗟に両手で口元を押さえると、その場で身体を硬直させた。じわじわと膝が震え始めている。


 なぜなら制服姿の彼女は奇妙な白い仮面を被り、口元の僅かな部分を除いて顔がすべて覆い隠されていたからだ。仮面にはレースの装飾が施され、生きた人間のように艶かしい雰囲気を醸し出している。


 彼女は一体、何を行っているのか。


 あまりにも異様な光景に思考が一時停止した彼はその場を動くことが出来ず、口を押さえたまま彼女に見入っていた。やがてワイシャツのボタンを一つ、また一つと順に外し始めると、彼女は恥じらうような仕草で肩を露わにし、時間をかけて下着姿になった。


 ……狂っている。


 持月の中で咄嗟に湧き起こった感情は、彼女の非常識な行為に対する強い嫌悪だった。顔を歪め、怒りにも似た感情が溢れ、目を背けたくなった。

 だが、それにも関わらず、激しい拒絶や憤りが犇めく脳内の僅かな隙間には好奇心という始末に負えない感情が介在しており、それらが葛藤を繰り広げながら体内を駆け巡ると、彼は頭がひどく混乱した状態でなお、その光景を食い入るように見つめ続けた。


 椅子から腰を上げた彼女がスカートの側面にあるファスナーに手を掛けると、彼は息を飲んで思わず一歩後退った。その拍子に背後に置いた三脚へ足を引っ掛けてしまい、地面を打つ鈍い衝撃音が静寂を破った。


 突然の物音に驚いた彼女が胸元を押さえながら持月の方を振り向くと、彼らは向かい合った状態でしばしの間互いを見つめ合った。


 堪らず先に目を逸らした持月は、視線の先に彼女の物らしき黒い学生鞄と、そこにぶら下がったピンクの熊を見たのだった。



「――ねぇ、どうして誰にも話さないのかな?」


「それは……」


 翌朝、下駄箱で持月が上履きに履き替えていると、ピンクの熊が付いた学生鞄の持ち手を握りしめた百瀬は嘘のように自然な挨拶を寄越した。その場は思わず彼も挨拶を返したものの、以降は彼女に対して余所余所しく振舞っていた。


 例のストラップで確信へと至ったものの、実のところ部室に誰かがいると聞いた瞬間から、持月の脳裏にはすでに彼女の名前が浮かんでいた。


 写真部の部員といえば、今年は百瀬冬華ただ一人しか在籍者はおらず、進級後すぐに配布された今年度の部活動一覧のプリントを見た彼は、同じ境遇のその名に対して密かに親近感を覚えていた。


「僕はその……。誰にも、言うつもりはないから」


 熱気で曇った眼鏡を外し、ハンカチで拭うために彼が俯くと、「どうして?」と尋ねる彼女の顔が突然目の前に現れた。吐息が感じられるほどの至近距離に驚いた彼は思わず飛び上がりそうになったが、慌てて顔を背けながら「……別に。誰かに話すことでもないし」と答えた。


 彼女はその言葉の真偽を確かめるべくまじまじと彼を見つめていたが、しばらくして椅子に凭れ込むと、腕組みをして何事かを考え込んでいた。


 その姿をちらりと眺めた持月は一度大きく息を吸い込み、「百瀬は、どうしてあんなこと――」と言葉を発しかけたが、突然校内に轟いたチャイムの音にそれは遮られた。


 程よい振動と共に間延びした機械音が鳴り響く間、彼らは黙って互いを見つめ合った。チャイムが鳴り止むと途端に彼は席を立ち、「僕が、持って行くから」と言って日誌を手に取った。


 足早に教室を去ろうとする持月に後ろから「ねぇ」と声を掛けた百瀬は、足を止めた彼の背中に向け、「教えてあげよっか?」と口にした。その言葉に持月が振り返ると、席から立ち上がった彼女は口元に薄っすらと笑みを浮かべ始めた。

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