第8話
「ごめん、急に混んできた! 川村さん、まだ上がってない?」
「げぇ」
呻くように漏らした川村真理は手に持っていた煙草の箱を慌てて背後に隠すと、苦い顔で綾香の方を見た。続けて得意の上目遣いに切り替えた彼女は坂井の方を向き、「あっ、……どうしよう。もうタイムカード押しちゃいましたよぅ」と見え透いた嘘をついた。
「マジか」
「だってぇ、坂井さんが上がって良いって言うからぁ。私これから友達に会いに行く約束しちゃいましたよぅ」
「いやまぁ、それはそうなんだけどさ。そこをなんとか!」
「明日香ちゃんがいれば大丈夫じゃないですかぁ? あの子坂井さんのためならすっごい頑張れる子だしぃ」と、無理に綾香とシフトを変えてまで居残りをしようとしていた彼女もやはり混雑した夜は勘弁らしく、断固として嘘をつき通した。
そこへ立ち上がった綾香が、「私そろそろ休憩終わりなんで、もう入れますよ」と笑顔で割って入った。
「え、マジ?」
当然、嘘だった。彼女は持月と同様、先ほど休憩に入ったばかりだった。綾香が賄いにほぼ手をつけていないことを見ればそれも一目瞭然だったが、坂井も川村真理も肝心の部分は気づかぬふりを貫き通していた。
「じゃあ、ひとまず三番卓のバッシングから」と早速指示を受ける綾香は、腰にエプロンを巻きながら休憩室を後にした。
残された川村真理はふっとため息を漏らすと椅子に腰掛け、隠していた煙草を取り出して火をつけ始めた。
彼女はその後、しばらくの間はタイムカードを切らずに携帯電話を見ながら寛いで過ごしていた。区切りの良いところまで(この店では十五分毎に給料が発生するシステムとなっている)時計の針が進むと、ようやっとカードを差し込む気になったのか、エプロンをくしゃくしゃに丸めながら立ち上がった彼女は機器の方へと歩きだした。
「――良い性格してるよな」
「…………」
ぴたりと動きを止めて振り返った川村真理は、まさか持月が自分に話しかけたとは思いもよらず周囲をぐるりと見回したが、室内にいるのは自分と彼のみであり、その彼は自分の方へ真っ直ぐに視線を送っていた。
「あ、もしかして私に言ってます?」
「今の僕には、君しか見えないけど」
「やだぁ、それって何か、口説き文句っぽーい」
川村はただでさえ細い目をまるで縫い合わせたように細めながら、へらへらと笑った。片手に持つタイムカードで覆われた口元では、今まさに歯茎が剥き出しになっていることだろう。
「君って自分に素直(わがまま)で、前向きな(自分本位な)子だよね」
綾香に対する仕打ちが少々癪に障った持月は、暗に彼女の罵倒を試みたが、「そうですかぁ? ちょっと照れるかも」と川村真理はどこか気恥ずかしそうに身体をくねくねさせると、「友達にはよく、『人に遠慮しすぎぃ』とか言われちゃいますけどねぇ」と答えた。
「僕には人懐っこい(媚びている)ように思えるけど」
「そんなぁ、褒め過ぎですってぇ!」とはしゃぎながら彼女がカードを扇ぐと隙間から僅かに歯茎が覗き、持月は先ほど食したカレーを吐き出したい気分になった。一貫して冷ややかな視線を送り続けているものの、これほどまで勘の鈍い相手は稀なことだった。
「私、結構優しいって言われるんですよ。この間なんか――」と勢いよく話し始めたところで、彼女はふと思い出したようにタイムカードを機械に差し込んだ。このままさらに十五分を稼ぐつもりかと持月は懸念していたが、そこはやはり引き際をわきまえているようだ。
「手馴れたもんだね」
持月がそう言うと、これだけは上手く伝わったようで唇の前に人差し指を立てた彼女は、「内緒ですよ、持月先輩」と猫なで声で一言添えながら厭らしい笑みを見せた。
そんな彼女の振る舞いを見た持月は、コミュニティ内に必ずしも存在する騙し合いは大人になっても何ら変化が見られず、むしろ悪化の一途を辿っているのだと再認識をさせられた。
やはり直接的でなければ、あの手の輩に真意を伝えるのは難しいことであると後悔の念を抱きつつ、持月は颯爽と去り行く彼女の背を眺めながら二本目の煙草に火をつけ始めた。
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