第36話 真の花

 ケスハーンは大いに焦っていた。援軍は来ず、代わりに現れたのは見たこともない巨大な魔獣。しかも知ってか知らずか足元に迫って来る。


 壊された研究棟から逃げ出す人々の叫び声が聞こえる。逃げるかここで待つか。ケスハーンは決めかねて行動を遅らせた。


 魔獣の巨体が鱗を逆立て、閃光が走った。ケスハーンは反射的に床に伏せる。一瞬の後、爆裂音が八方から押し寄せ塔がびりびりと震えた。顔を上げれば地面は抉られ、王宮の壁は焦がされて屋根には穴が開いている。火の手が上がっている箇所もあり、誰かの悲鳴が遠く響いた。


「この……っ!」


 その光景を見た時、ケスハーンは腹の底から咆えた。今まで感じたことのない、種類の違う怒りだった。


「我が城を、国と民を傷つけたなッ!」


 ケスハーンは決して生まれ育った国を愛していないわけではなかった。ずっと王子として育ってきたのだ。欲望に弱く思慮分別も足りないが、王たる者の意識だって皆無ではない。


 ただ、すぐにカッとなるのはケスハーンの悪い癖だ。衝動的な行動が事態を好転させることはあまりない。たとえ珍しく動機が正しいものであったとしても。


「成敗してくれるわッ!」


 人それを蛮勇と呼ぶ。


 ケスハーンは心配して駆け寄ったカヤミラから魔法具を奪い、足元の虹龍に向かって発射した。刺激するべきではないと思ったコーネリアが止める間もなかった。


 命中精度こそ訓練によるが、特に反動などはなく使い手を選ばないのが魔法具の利点だ。相手は巨大で外すような的ではない。


 パン、と軽い音を立てて放たれた攻撃魔法が、レガリクスの頭で弾けた。一瞬光が広がったが、それ以上のことは起きない。


「は……?」


 ケスハーンの中で魔法具は魔獣を倒せる唯一の武器であり、これさえあれば必ず勝てる伝説の聖剣のようなものだった。だから各国がこぞって欲しがり、ヘーズトニアが繁栄を続けられるのだ。そう信じ切っていた。魔法具で倒せない魔獣が存在するというのは、想像のはるか外にあったのである。


 そんなはずはない。軽くパニックに陥ったケスハーンは魔法具の魔力が尽きるまで撃ちまくった。だが結果は覆らない。放たれた魔法は魔獣の体を明るく彩るだけですべて消えていった。


 ダメージがないとはいえ、それだけ連射されればレガリクスだって気付く。首が不埒者を探して上を向き、赤い目がぎょろりとバルコニーをねめつけた。髭がせわしなく体の側面を叩き、不快感を表す。かあっと口が開き、そこに光球が生まれた。


「う、うわああああああ!!」


 それが何かわからなくとも、よくない事だというのは直感的にわかる。とはいえ対処する方法などない。ケスハーンも、一緒にバルコニーにいたコーネリアとカヤミラも、硬直したままその時を迎えた。


 衝撃音がして太い光の線が放たれ、バルコニーを掠めて天空を裂いた。天井が吹き飛び、手すりと床がバラバラに砕ける。


 浮遊感に身を縮めたケスハーンは、落下していないことに気付いて目を開ける。


「カヤミラ……!」


 後ろを見ると床に伏せた状態で腕を伸ばし、脇の下から抱きしめるような形でカヤミラが必死にケスハーンの体を支えていた。ヒビの入った床がみしりと鳴る。物見塔は斜めに削り取られ、ケスハーンはカヤミラに引っ掛かるような形で宙に浮いていた。


 大柄なケスハーンを抱えているのだ。重さに耐えられず、カヤミラはじりじりと外側へ引っ張られる。ケスハーンは支えになるものを求めて周囲を見回したが、つかまれそうな場所は見当たらなかった。同時に自分のすぐ下で、壊れかけた壁にコーネリアがぶら下がっているのが見えた。


「コーネリア……」


 ロープか何かを下ろせば助けられるかもしれない。もしくは下の階に下りて内側に引き入れることができれば。


 ずるりと位置が動いたことで、ケスハーンははっと振り返る。身を乗り出したカヤミラも、どこにも支えがないのだ。間もなく訪れる未来は簡単に予想できた。


 その時ケスハーンの口から、自分でも思ってもいなかった言葉が飛び出した。


「カヤミラ、手を離せ!」

「嫌です!」

「離すのだ! 下りてコーネリアに手を貸せ! そうすれば二人とも助かる!」

「嫌っ! あの女がどうなろうと構わない! でもケスハーン様だけは!」

「聞き分けよ! お前だけでも助かるというに!」


 ぼろぼろと涙を流しながらカヤミラが叫んだ。


「絶対に嫌! この手が離れる時は、妾が死んだ時です!」

「カヤミラ……!!」


 ケスハーンは目を見開いて絶句した。つい先ほどもコーネリアに嫌だと連呼された。同じ言葉なのに、何故こうも甘く嬉しいのだろう。


 力尽きたコーネリアの手が壁から離れるのが見えた。紫色のドレスが風をはらんで広がる。まるで花が散るようだとケスハーンは思った。


「すまぬ……」


 どちらの女に言ったのか。嫌な音がしてバルコニーの床が崩れ、ケスハーンはカヤミラと共に宙に投げ出された。落下の瞬間目の端に、散りかけた花を救い上げる黒い影が見えた。


 コーネリアを抱きかかえたゼアンが、はるか先の地面にふわりと着地する。


「山猿め」


 むかっ腹が立つようなほっとしたような複雑な気分でケスハーンはカヤミラを抱きしめた。気を失ったようだが、その手はまだケスハーンの上着を握り締めている。こうなったらこの可愛い女を絶対に離すものかとケスハーンは最後の意地を固めた。


「ちっ、やっぱり出遅れた」


 声がして、誰かがケスハーンの襟首を雑につかんだ。それで落下の方向が捻じ曲げられた。光を反射する金髪、白い端正な顔。それが不機嫌さをありありと浮かべてケスハーンを見る。


「ハズレを引いたな」

「エルメイン!」

「その女をしっかり捕まえておいて。離したら捨てていくよ」

「なっ」


 ケスハーンはカヤミラを抱く腕に力をこめた。再度の浮遊感のあと、地面がすぐそこに迫る。落下の衝撃は思ったより軽かった。その後エルメインはゼアンの後を追って走り出し、ケスハーンはまるで荷物のように引きずられていったのだった。

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