第3話 幼馴染の護衛

 頬を刷毛が滑り、唇の上を紅筆がなぞる。


「お嬢様、できましたよ」


 ニコラの声で目を開けたコーネリアに眼鏡が差し出される。それを受け取って顔に掛け、コーネリアは椅子から立ち上がった。


「どこもおかしいことはない?」

「お綺麗ですよ、お嬢様」

「お化粧は大丈夫?」

「ええ。お嬢様をお守りするために念を入れております。御心配はいりませんよ」


 家からついてきたニコラは、ずっとコーネリアの身の回りの世話をしている専属侍女だ。婚約式で面と向かって罵倒されたことがトラウマになって、コーネリアは今でも鏡を見ることができない。だから衣装も化粧も全部ニコラに任せてしまっている。


 今日から学生生活が始まる。婚約してから十年。ずっと放置されてきたが、ついにヘーズトニアに呼び寄せられてしまった。ケスハーンの顔を思い出すと恐怖で体が固まる。


 婚約は継続と聞かされて、最初は家と国のために諦めようと思った。どうせこんな醜い娘はまともな相手と縁付くことはできない。何の役にも立たないよりは、その方がましと思っていたから。


 だが周囲が諦めさせてくれなかった。兄はコーネリアを守るため先に留学して、情報収集と人脈作りに努めてきた。幼馴染のゼアンは一人にさせまいとして護衛を買って出てくれた。


 手首のブレスレットに目を落とす。ゼアンが十歳の誕生日に贈ってくれたものだ。チャームの白い花は彼の手彫り。コーネリアはずっとお守りだと思って身につけている。


 幼い頃から兄と同じようにコーネリアを可愛いと言い、頭を撫でてくれた再従兄はとこ。辺境住まいの彼とはなかなか会えなかったが、思い出はどれも優しくて暖かい。


 寮の玄関に降りると、そのゼアンが待っていた。


「おはよう、ネリア」

「おはようございます」


 伸ばされた手を取る。守ってくれる、助けてくれる人がいる。だからコーネリアも決めた。


 婚約を解消するために、全力で努力するのだ。具体的な方法はわからない。国を動かすことは難しいし、周囲に迷惑を掛けたくはないから無茶な方法も取れない。だが希望は捨てない。


 思わず深呼吸するとゼアンが足を止めて振り返った。


「大丈夫だ。俺とエルが必ず守る」

「ありがとうございます。ゼアン様がいてくださることが、本当に心強いですわ」


 今はそれぐらいしか言えない。不本意であっても婚約者のある身だ。しかしいつか彼の存在がどれほど支えになってきたか、どれほど感謝しているか、どれほどコーネリアの心を占めているのか聞いて欲しい。


「わたくし、頑張ります」


 ゼアンは微笑んで力強くうなづいた。


 ベストの結果を得るためには、まずは隙を見せないこと。コーネリアは完璧な淑女としてヘーズトニアでの一歩を踏み出した。





 多くの貴族が通う魔法学校は、ある意味貴族学校でもある。そのため教室や実験室、図書館といった施設の他に、ちょっとしたお茶会も開ける談話室が何ヶ所も置かれている。


 その談話室の中でも一番大きく豪華な一室は、ケスハーンとその側近候補……つまり取り巻きたちが集まるたまり場であった。


 新学期が始まったケスハーンは焦っていた。


「むう……このままでは我の卒業と同時に結婚の準備が始まってしまう」


 望まぬ婚約者がついに国へやってきた。今年度で卒業予定のケスハーンは、目の前に見たくない現実を突きつけられた形だ。


「ケスハーン様! あんな女狐、この国から追い出してやりましょう!」


 しなだれかかる柔らかい感触に振り向くと、カヤミラが心配そうに眉をひそめケスハーンを見上げていた。


「何か策があるのか?」

「ええ、生徒たちも皆あなた様の味方ですわ。わらわにお任せくださいませ」


 カヤミラは艶然と微笑んだ。





 一年生の教室は、教師が出て行った瞬間からざわざわとし始める。


 正面に教壇があり、生徒の席は段々になっている。特に場所は決まっていないが、コーネリアとゼアンは一番後ろの席に座っていた。でないと後方から紙つぶてが飛んできたりするからだ。


「カエルって表情が見えないから何考えてるかわかんないよな」

「そもそも見せられる面じゃないから」


 前の方で固まっている男子生徒のグループから笑い声が起きる。度々繰り返される聞えよがしの嘲笑は特定のグループが主体だが、それを注意する者は誰もいなかった。


 話しているのはケスハーンの取り巻きだからだ。王子が婚約者を嫌っていることはたちまちのうちに校内に広まり、コーネリアは王子を騙して婚約者になった悪女に仕立て上げられていた。


「殿下もお気の毒に」

「あんなブスじゃ騙すしかないだろ」

「カエル姫だからな」


 片付けをしていたゼアンの顔つきが鋭くなるのを見て、コーネリアがなだめた。


「いいのです。よくあることでしたから」

「よくある?」


 コーネリアが国元でも”カエル姫”と揶揄されていたことは知っている。だが王都に滅多に出てくることのなかったゼアンはその実態を知らない。


「エルメインがカリカリするわけだ」


 荷物をまとめ終わったゼアンが立ち上がる。コーネリアは不意に風が動いたように感じた。


「だいたい国元でも貰い手がなかっ……うわあっ!?」


 外にも声が届くようにか、悪口を言っていた男子生徒は開いた窓の枠に腰かけていた。その頭に、突然上から庭木の枝が降ってきたのだ。驚いた男子生徒はバランスを崩して窓の外へ転げ落ちた。


 慌てて安否を確認しようとする仲間たち。教室は一転して大騒ぎになった。


「次の授業は第二実験室ですから行きましょうか」

「え? ええ……でも」

「一階ですからせいぜいかすり傷ですよ」


 ゼアンは学校では婚約者のいるコーネリアに配慮して、一線を引いた態度を取っている。教科書やノートを二人分持ったゼアンに促されて、コーネリアは教室を出た。

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