ボリバル男爵(2)


 天は――より正確を期するなら天候は――ボリバル男爵に味方しなかった。


 雨足は衰えるどころか勢いを増していた。濡れた服は動きを妨げるだけでなく、容赦なく体温を奪っていく。足元のぬかるみも時間が経つごとに酷くなる一方だった。


「くそっ。こんな雨の中斬り合いなどやっていられるか!」


 ボリバル男爵は村の通りをひた走っていた。

 後ろからは動屍体ゾンビの集団が追いかけてくる。

 

 目的地は雨でけぶる視界の先に見えていた。

 この村の、領主の屋敷だ。

 農村の貧相な民家とは異なり、しっかりとした木造三階建である。


 ボリバル男爵は玄関の扉を蹴破り、転がるようにして領主の屋敷に飛び込んだ。

 息をつく暇もなく背中で扉を閉める。


 どんどん、と動屍体が扉を叩いてくる振動が背中に伝わってくる。耳障りな呻き声も、だ。


 ボリバル男爵は濡れそぼった髪をかきあげ、足元にひろがっていく水溜まりを見ながら大きく深呼吸。三度目の深呼吸で扉の振動は止んだ。


「……諦めたか」


 どすん、と音を立てて床に座り込む。できたばかりの水溜まりが尻に直撃するが気にしない。どうせ既に全身濡れネズミなのだ。


 ボリバル男爵は教会から領主の館までの道のりを、無傷で辿り着くことに成功した。


「ワシの腕もまだまだ錆びついてはおらんな」


 不敵に唇を歪めるが、心身の疲労は明らかだった。執拗に襲い掛かってくる動屍体は恐れも疲れもないのに対して、生身のボリバル男爵は常に周囲を警戒し限りある体力で戦闘と移動をしなければならないのだ。それに豪雨の影響もあった。


「せめてあとふたり……いや、ひとりでも味方がおれば楽だったものを。あの巫女めが。ワシの言う通りにしておれば万事上手くいったものを……。何が安全だ。守るだけでは勝機は得られんのだぞ」


 もう何度目になるかも分からない剣の神の巫女への悪態を呪詛のように繰り返して、ボリバル男爵は気分的にも物理的にも重い腰を上げた。玄関の扉をしっかりと施錠し、屋敷の中へと進んでいく。


 幾度も訪れたことのある屋敷の間取りを頭に描きつつ、暗い屋内をカンテラで照らす。割れた花瓶。破れたカーテン。絨毯の上の血痕。この屋敷も動屍体の襲撃を受けたのは間違いないようだった。油断はできない。


 進路の先、右手側のドアが開いていた。田舎とはいえ曲がりなりにも領主の屋敷のドアが無造作に開けっ放しということはありえない。


「……居るな」


 ボリバル男爵はカンテラを腰に提げると、代わりに剣を抜いた。

 呼吸を整え、じりじりとドアに近付いていく。

 ドアの隙間からは室内の様子は窺い知れない。

 暗闇しか見えない。

 警戒しながら一歩、二歩と近付いていく――


「Grrrrrrr!」


 ――その背後から動屍体が勢いよく飛び掛かってきた。

 屋内に残っていた動屍体にいつの間にか追跡されていたのだ。

 完全な奇襲。

 だが、


「愚か者めが!」


 ボリバル男爵は鮮やかなステップで動屍体の鋭い爪を回避。宙を泳ぐような体勢になった動屍体へ斬撃を二度、三度叩き込む。素早い動きに遅れてボリバル男爵の贅肉が揺れた。


「叫び声を上げては潜伏しておった意味があるまい。とはいえ、動屍体にそんな知恵が残っているはずもなし、か」


 ひとりごちる間もボリバル男爵は視線を正面の扉から外していない。

 案の定、もう一体の動屍体が飛び出してきた。


「その程度の連携でワシが殺れると思ってか」


 舐めるな、と口の中で呟き、疾風の如き機敏さで斬り伏せる。

 二体が完全に動かなくなったのを確認して、剣を収めた。


 動屍体が飛び出してきた部屋を慎重に覗きこむと、若い女の死体があった。体のあちこちを乱雑に食い千切られれており、既に絶命している。ゾンビ化する可能性を考慮して念のため頭部を砕いてから、ボリバル卿は短く聖句を唱える。


「この調子では屋敷の中にどれだけおるやら知れたものではないな」


 部屋の棚に置かれていた真新しいタオルを数枚手に取ってボリバル男爵は部屋を後にした。濡れた髪や体をタオルで拭う。すぐに一枚目のタオルはびしょびしょになってしまった。水を吸って重くなったタオルを廊下に投げ捨て、二枚目、三枚目と使っていくうちにようやく人心地がついた。


「着替えもしたいところであるが、流石に無理か」


 自分ひとりしかいないのだ。着替え中に襲われては対応しきれない。それに、とボリバル男爵は自分の腹部を見下ろした。サイズの合う服を見繕うのに時間をかけるわけにもいかない。


 気を取り直して歩を進め、行きついたのは食堂だった。誰も――生き残った人間も動屍体も――いないことを確認し、裏の厨房へと回る。竈の火は落とされていることに落胆しつつ、食糧庫を物色した。


「ふむ。まあまあだな」


 野菜、チーズ、燻製肉が見つかった。固くなったパンもある。

 舌触りの悪いパンを齧りながら物色を続けると、葡萄酒を発見した。思わず頬が緩む。グラスを探す手間すら惜しんでらっぱ飲みにする。一気に半分ほどを飲み、口の端を拭いながら調理台に瓶を置いた。


「ふうっ」


 濡れた体を拭き食事を摂ることで英気を養うことができた。

 腹も膨れ、落ち着いた気分で今後の行動計画を検討しはじめる。


 ここまでは順調にきている。ひとえにワシの判断が正しかったということだな。名残惜しいがあまり食い過ぎると動きが悪くなってしまう。これくらいにして武器を探すとしよう。確か数年前にここの領主――といっても村長だが――にワシが与えた魔剣があったはずだ。記憶に間違いなければ応接間に飾ってあったはず。しなびた農村には過ぎた剣をくれてやったと後悔したものだが、今となっては当時の判断は正解だったな。やはりワシは間違っていない。剣の他にポーションの類も見つけたいところだ。準備が整い次第、逆襲だ。不埒な動屍体どもめ。目にもの見せてくれるわ。

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