偽りのアカシア

楡野なの

1話完結

ニセアカシア:五月から六月にかけて咲く毒性を持つ花。花言葉「死に勝る愛情」



*



 手を、離した。

 彼はまっすぐ、海へ向かって落ちていく。驚き、引きつった顔で、こちらに手を伸ばしたまま。

 じわ、と視界の端が揺らいでいく。だめだ、彼に見られてしまう。帽子を深く被り直して、くっと俯いた。

 いつの間にか体に染み付いてしまった動作で、小さくなっていく彼に手を振る。

「…さようなら、アネモネの囚人」

震える唇。

耐えきれなくなった瞼の内側から、涙が溢れ出した。


*


 始まりは、あの日だった。

 大きくて真っ黒な、悪役ですと言わんばかりの軍艦。幼い頃に読んだ絵本に出てきた海賊船そっくりで、どこかわくわくしてしまった自分がいたことも覚えている。

 海賊船は島に乗り上げ、たくさんの男の人を吐き出した。みんな同じ、銀色の鎧を身に纏っていた。

 その中に一人、鋭く磨かれた剣を抜き、天高く掲げる男の姿があった。リーダー格なのだろうか。彼は赤い羽根のついた兜を取り、大きく息を吸い込んで、言った。


「この島を、国直属の罪人収容所とする」


 怯える島民たち。私もその一員だった。

幼い私にはその言葉の意味はわからなかったが、ざいにん、と声に出すとなんだかざらざらしていて、取り消すようにきゅっと口を結んだ。

 やがて島民たちは追い出されるようにして島を後にし、残されたのは、島を失いたくないというおばあちゃんと、孫である私だけだった。

 彼らは、当時まだ幼い少女だった私を、収容所で引き取ろうとした。おばあちゃんは必死でそれを止め、度重なる交渉の末、ある条件付きでおばあちゃんと一緒に暮らせることになった。

 しかし、その条件は、想像の遥か上を行く残酷さをはらんでいた。

 月に一度、囚人に会いに行く。そこで会話を重ね、囚人を恋に落とさなくてはならない。そして囚人の出獄の日、海に落として殺せ、というのだ。

 幼い女の子に任せるにはあまりに過酷すぎる役目に、最初は手足の震えが止まらなかった。

何度もその役目を断ろうと思った私の心によぎったのは、おばあちゃんの姿だった。

 私が気付いた時には、もう親はいなかった。覚えているのは、大声で泣きじゃくる私にずっと寄り添っていてくれた、おばあちゃん。一人で何人分もの愛情を注いでくれたおばあちゃんに、恩返しがしたかった。

 「行ってきます、おばあちゃん」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 今日も私は、小高い丘の上にある収容所へと歩を進める。海岸沿いにある私の家からでも、その高くそびえ立つ石の壁は、美しい星の光の中に異彩を放って存在していた。

 一昨日、一人を海に落とした。少しでも囚人の弔いになればと、私は小さなお墓を作っていた。看守たちに見つかるといけないから、崖の近くに生えた低木の影に小さく土を盛り、その季節に咲いていた花を添えて。

 今日からは、この島に来たばかりの新しい囚人と会話をするのだそうだ。出獄まではちょうど一年と聞かされていた。じゃあ、今度の花は紫色のアネモネか。私の大好きな色だ。

 一面に広がる紫の絨毯にそっと腰掛け、月を眺めて囚人が出てくるのを待つ。

 囚人との待ち合わせはいつも同じ場所。外へ繋がる通路の階段を降りた先、月と向かい合う丘の上だ。今夜は雲ひとつなくて、真っ青な真空に月がぽっかりと浮いている。思わず見とれていると、約束の時間を過ぎていることに気がついた。

 まずい、もう戻っちゃったかな。急いで立ち上がると、突然風が強く吹いた。その拍子で、被っていた白い帽子が高く舞い上がる。あ、と手を伸ばしても、空を掴むだけだった。

 走って帽子のあとを追うも、一向に降りてくる気配がない。海に落ちてしまうのだけは避けたかった。

 もうだめか、と思った矢先だった。

 タタタ、という軽快な音。


 彼が、横から飛び出してきた。思わず足を止める。


 階段を駆け下りた加速を味方に、勢いよく飛んだ彼は、空中に漂う帽子を見事に捕まえて見せた。足音も立てず花畑に降り立ち、手に取った白い帽子をじっと見つめている。

 私は何故か、彼から目を離せなかった。

 あろうことか、彼は囚人服だった。私が、殺さなくてはならない相手。

 彼は私の存在に気付いていないようで、ずっと帽子を見つめていた。私が見られている訳では無いのに、なんだかちょっと気恥ずかしかった。

「…あの」

焦れったくて、自分から声をかけた。おかしい。いつもだったらもっと元気に、明るく話しかけられるのに。

 男は驚いたような顔をして、こちらを向いた。吸い込まれてしまいそうなほど、純粋で、透明な瞳。思わず目を逸らす。

「帽子、ありがとうございます」

彼は帽子を私を一瞥し、そっぽを向いて「気をつけろ」と呟いた。片手で不器用に、帽子を突き出す。

 私は両手でそれを受け取って、馴染みのある肌触りに少し安心した。微笑んで、顔を上げる。

「すみません。お優しいですね」

「たまたまだ」

彼は顔を背けたまま言う。だめか。今までの囚人は、褒めると心を開いてくれていたのに。

 冷たくあしらわれるのには慣れていない。突き放されたようで、気持ちが弱くなる。次、なんて言えばいいんだろう。

 わずかな沈黙。何か、話題を。

「なんでこんなところにいるんだ」

え、と小さく零す。見開かれた私の目と彼の瞳が、重なる。

「ここがどんな場所か、わかっていないのか」

会話をしたくないのかと思っていた。純粋に、嬉しかった。上がる口角を隠すようにはにかんで、答える。

「ここに住んでるんです」

「住んでる?どうして」

「この島、刑務所が出来る前は、一つの集落だったんです」

 私は語った。正体がばれないように、内容をかいつまんで話すのにも慣れた。相手の同情を買うことも、作戦のひとつだった。

 「普段は、島の隅にあるおばあちゃんの家にいます。でもたまに、外に出たくなっちゃって。ほら、ここって月が綺麗に見えるでしょう?」

黄色く浮かんだそれを指さした。彼の視線を誘導し、ロマンチックな雰囲気を作り出す。我ながら使える手だ。

「季節ごとに咲く花も変わるんですよ」

 彼は、初めてものに触れる時のような優しい目で、足元のアネモネを見下ろした。

 彼の動作の一つ一つが、囚人とは思えない丁寧さを纏っていた。荒々しく尖っていた今までの囚人とは一線を画すような、不思議な人だ。

 「この花は、なんというんだ」

彼の興味を引けた。掴みはいい感じだ。私は膝を折り、小さな一輪を摘んだ。

「これは、アネモネです」

あねもね、と復唱する彼はまるで無知な子供のようで、かわいらしい、なんて思ってしまった。

 ぶわ、と風が強く吹いた。看守が時間を知らせる合図だ。衝撃でアネモネが飛んでいく。

 ふわふわと宙を舞うアネモネは、自由だった。

 立ち上がり、彼に一礼する。帰らないと。

 姿が見えなくなってから気付く。やっぱり、変だ。

 囚人との会話が名残惜しいなんて、思ったことも無かったのに。


 それから彼に会う度、私は無垢な少女を演じた。

 あたかも、この瞬間が一番楽しいかのように。命が終わることすら知らない、純粋な子供のように。

 彼はそんな私を、包み込むような穏やかな目で見た。壊れものを扱うかのように、そっと、優しく。

 私は、私を悟っていた。この役目を果たす上で、一番抱いてはいけない気持ちを彼に寄せていたことを、知っていた。

 その思いは日に日に強くなり、彼の笑顔を見る度に高鳴る心音を隠しきるので精一杯だった。

 そんな、ある日の事だった。

 「なあ」

 彼は、私に心を開いてくれるようになった。彼の隣に座り、月を見上げていた。

 「俺、あと半年で出獄が許されるんだ」

知ってます、と心の中で答える。本当は、知りたくなかったけれど。

 笑顔を作り、おめでとうございます、と喜んだふりをした。

「あと半年で、ここを出ていかなくちゃいけない。だから、」

 私は察した。遮ってはいけない。

 私は役目を遂行しないといけない。そうわかっていたのに。

 いつの間にか膨らんだこの大きな感情に、嘘をつくことは出来なかった。


 「じゃあ、来年の五月」


 見開かれた目と、彼の驚いた顔。

 ああ、私はなんて自分に甘いのだ。


 「…アネモネが咲く頃に、迎えに来てくれますか?」


 絵本に出てくるお姫様気取りな、気障ったい台詞。頬が熱くなっていくのがわかる。

「…俺を、待っててくれるのか」

彼の透明な瞳に、射抜かれる。加速する鼓動。

 彼はきっと、私を裏切るなんてことはしないだろう。そう分かっていて、こんな薄っぺらい約束を結んだ。最低だ、と自分を嘲笑いたくなる。

「もちろん」

精一杯の笑顔で返した。耐えきれない程の罪悪感が、重くのしかかる。目元にぐっと力を入れていないと、何かが溢れてきてしまいそうだ。

 彼は笑った。心の底から、幸せを噛み締めているようだった。この笑顔と共に生きられたら、なんて幸せなのだろう、と思った。

 私の、初恋だった。




 その日から、一度も彼に会っていない。

 おばあちゃんの持病の腰痛が悪化し、世話をしないといけないから。看守にはそう伝え、しばらくの間お休みをもらった。しかし、それは口実にすぎなかった。

 これ以上彼に会ったら、彼の目を見つめたら、きっと次は堪えきれない、と思ったのだ。ぼろが出てしまう寸前まで、感情は膨れ上がっていた。

 殺したくない。彼とずっと一緒にいたい。彼と一緒に、生きたかった。そう思うが故に、私に覆い被さる責任を、彼にも背負わせるなんてことは出来なかった。

 最低だな、と思った。

 彼はきっと、私を信じて待ってくれているだろう。私は、その優しさに甘えている。勝手に出会って、勝手に好きになって、勝手にいなくなって、最後には勝手に殺すのだ。自分で手をかけるなんて、望まないバッドエンドにも程がある。

 彼に会いたい。会って、ちゃんと謝りたい。この気持ちを伝えて、ハッピーエンドを迎えたい。そう願って生きることも、私には許されないのだろうか。

 溜息は、日に日に増えていくばかりだった。


 そして半年が過ぎ、ついにその日がやってきてしまった。

 いつも通り、白いワンピースに着替え、滑らかな生地の白い帽子を被る。鏡の中の私は、なんだかいつもより緊張しているように見えた。

 「行ってきます、おばあちゃん」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

彼の出獄は昼前だという。待たせてしまわないように、少し早めに家を出た。

 歩き慣れた、監獄までの道。ここを通るのは久しぶりのはずなのに、体はちゃんと近道を覚えていた。

 あともう少しで、半年ぶりに彼に会える。ずっと楽しみにしていたはずなのに、いざその瞬間を目の前にすると、引き返したくなるのはなんでだろう。意識しすぎて、自分の歩幅も忘れてしまった。

 花畑は一年前と同じように、一面に紫色の花をつけていた。惚れ惚れしてしまうほどの快晴と、暖かな陽気に見送られる彼は、ちょっと幸せ者かもしれない、なんて思ってしまった。

 それに比べて、私はどうだ。

 何年経っても、どれほどたくさんの人を殺し続けても、刑務所にすら入れられない。募っていく罪悪感に苛まれながら、ずっとこの島で生きていくのか。それなら私は、きっと誰よりも囚人だ。

 風が強く吹いた。看守からの合図か、それともただの青嵐か。いつかみたいに飛ばされないように、と帽子を押さえると、ほんのりと手のひらに暖かさを感じた。そろそろ、出獄の時間だ。

 私の大一番が、始まる。


 彼は囚人服を脱いでいた。囚人らしさをまったく削いだ風貌で現れた彼に、さらに緊張してしまう。看守が用意したのだろう、丁寧にアイロンをかけられた白いシャツの襟は、掴みやすそうで安心した。失敗するなよ、と言われているようだった。

 彼は、私が何も言わずに姿を消したことを、これっぽっちも怒っていなかった。こちらが困ってしまうほどに、どこまでも優しい人だった。

 「ここ、座ってください」

お決まりになった流れ。足をぶらつかせ、無邪気さを装う。

 「すみません、勝手にいなくなっちゃって」

「元気だったか」

こちらの心配までしてくれる。疑う心は微塵もなさそうだ。

「はい、ちょっと寂しかったですけど」

「これからは、ずっと一緒だ」

思わず、きゅっと口を結んでしまう。ずるい。不意打ちだ。

 そして、唐突に感じた胸の痛みに、嫌な予感がした。

 「…はい。嬉しいです」


 …ああ、だめだ。

 溢れる。


 「…こんな私と話してくれて、ありがとうございました」

最後まで気付かないでいてくれて、ありがとう。


 「あなたと一緒に見た月は、今までで一番綺麗でした」

心からの言葉。あの日のささやかな月の光は、彼という存在を大きく、照らしていた。


 「覚えていますか?風で飛んでいった帽子を捕まえてくれたこと」

私の心はあの日からずっと、彼に支配されている。


 「摘んだアネモネが飛ばされていった時、帰らなくちゃ、と思いました。これ以上話したら、だめだと思って」

彼はまだ、この言葉の真意に気付いていない。


 「でも、会話を重ねていくにつれ、あなたのことを好きになっている自分がいる、と気付き始めたんです」

 何を言っているんだろう、私は。

 私情を挟み込んではいけないとわかっていたが、止まらなかった。初めての感情に戸惑う。


 「あなたとの日々は、幸せそのものでした」


ずっと、紡いでいきたかった。

あなたと過ごす日常を。未来を。


 「…許してください。私はあなたを、いつまでも忘れません」

彼の表情が固まる。

風が強く吹いた。もう、時間だ。

 最後は笑顔で、送ろう。


 「さようなら。…愛しています」


ぐっと力を込めて、襟を掴んだ。




*




「なあ、あれ見た事あるか?」

「なんだ?」

「崖のとこにある、小さい木」

「あー、アカシアだろ?黄色い花の」

「そうそう。でさ、こないだ見つけちゃったんだよな」

「なんだよ、早く言え」

「木の下に、小さいラベルと紫色の花が添えられてて、こう書いてあったんだ」



「アネモネの囚人、ってさ」

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