第8話 紅の女傑
という経緯で、留守にしがちな母の穴を埋める為に
マティルデ
すぐに子宝も授かり、これで両家の行く末も安泰と思われた矢先に悲劇は起きた。夫である辺境伯の急死である。悲しむ間も無く、病弱な嫡子も幼くして亡くなってしまう。辺境伯の親族はその多くが戦死しており、マティルデは期せずして領主の座を得た。こうなると、トゥールーズ家に疑惑の目が向くのは当然の事。領内では反発も多かった。
だがマティルデはここから頭角を現す。すぐさま領内を駆け巡り、小さな村や集落に至るまでの代表者と話して回ったのだ。内容はこれまでの統治方法の継続、主に税や徴兵制度について今回の当主交代では変更しないと約束した。トゥールーズ家による統治への介入を危惧していた領民は安堵した事だろう。彼女が馬車ではなく自ら馬を駆って各地へ赴いた事も大きい。戦時下では統治者の顔を知らない領民も多かった中、見目麗しい新領主がわざわざ挨拶に来た事で彼女はあっという間に信頼を勝ち取った。
そう、国王から特別に統治を認められ、女伯の通称で呼ばれる彼女は尊敬すべき人物だ。なのだが。
「エヴァー! ただいまー!!」
馬車から降りるなり私を抱き上げるこの女性と同一人物とはとても思えない。彼女の目線まで持ち上げられ、夏の日差しが眼を焼いた。
「よう、こそ、おいでくださいっ、ました。マティルデ叔母様」
優勝トロフィーよろしく私を抱き上げたまま飛び跳ねるのは暑苦しいのでやめてほしい。母に負けず劣らずの豊満な肉体のおかげで痛くはないが。
「あら、少し大きくなった? やっぱり子供は成長が早いわぁ、3日会わないだけなのに!」
「落ち着いて下さいませ叔母様、人は3日ではほぼ成長しません。気のせいです」
やっと下ろしてもらえたかと思えばクシャクシャと頭を撫でられる。たっぷり時間を掛けてギーゼラが整えてくれた髪が台無しだ。
「エヴァったら、そう仏頂面をしてはいけないわ。淑女たるもの、いつでも微笑んでいなくては。家族の前では別だけれどね!」
それはそうだろう、家族の前以外で女伯殿のこんな姿は見せられまい。緩みきった表情で姪に頬擦りする姿などは。
「女伯様、どうぞ中へお入り下さい。陽の高い内に始めませんと授業の時間が無くなります」
少し棘のある声色はギーゼラ。どうしてか彼女の女伯に対する態度にはいつもの柔らかさが無い。まさか自分が整えた髪が乱される事を不快に思っての事ではあるまいし、過去に何かあった訳でもなさそうだが。
しかし今回の諫言の内容は適切だ。陽が落ちない内に自領へ帰る叔母との授業は時間の制約が大きい。日が長い季節ならいいが、冬などは本当に瞬きの内に終わってしまうだろう。いそいそと屋敷へ向かう事にする。
母パトリツィアと共同で進められる授業はマナーとダンスが主で、今は叔母を男性役に見立てたダンスのレッスンだ。
「トリシアの教え方が良いのね。まだおぼつかないけれど、大きくなって手足が長くなれば立派なレディよ」
トリシアというのは母の愛称。出会い頭こそあんな風だが、授業中の叔母は至って真剣で、身内だからと手は抜かない。その彼女が褒めるなら教養について心配は無いか。
「足が逆、それでは殿方の足を踏み付けてしまうわ。基本を疎かにしない事。考え事をしながら踊りたいのなら身体にステップを染み込ませなさい」
訂正、まだまだ修行が足りないようだ。学園入学まで時間はたっぷりある、気長に真面目に取り組むとしよう。
武芸の鍛練を始めて半年で6歳の少女の体力が爆発的に増える事は無く、息が上がって来た。屋敷の中はそれなりに涼しいが、季節柄どうしても汗が滲む。
「お茶を淹れましたので休憩なさいませんか?」
私の限界をいち早く察知したギーゼラが茶菓子と共に割って入る。なるほど、専属ともなれば主の変化にも敏感に反応出来る訳か。名前を覚える手間が省けるくらいにしか思っていなかったが、悪くない。
「あらぁ? 授業の時間が惜しいのではなくって?」
「無理をして詰め込んでも効率が良くないかと。それに、女伯様にもお疲れが見えます」
叔母の軽口に対する反論は至極真っ当なものだ。肩をすくめた叔母が大人しくテーブルに着いたのが何よりの証拠と言える。
額にうっすらと浮かぶ汗をギーゼラに拭ってもらってから、下品にならないよう紅茶を流し込む。茶菓子は質素なクッキーだが、混じり気の無い甘さが心地良い。
「……私はトリシアの幼い姿を知らないけれど、きっと今の貴女のように愛らしかったのでしょうね」
ティーカップを傾けながら叔母がしみじみと呟く。もちろんその所作に隙は無い。
パトリツィアとマティルデの出逢いはパトリツィアがトゥールーズ家へ嫁いで来た時で、当時の母は17歳だ。ゲーム本編でのエヴァは母親譲りのブロンドに気の強そうな目元をしているから、叔母の見立ては概ね正しい。ついでに豊満な肢体も受け継いでおり、父の面影といえば狼を思わせる琥珀色の瞳くらいか。
「叔母様もお若い頃から美人と評判だと父から聞いていますよ。"トゥールーズの姫雛鳥"、でしたか?」
「もうっ、照れるわそんな昔の話! 声が良く通るからといって、春の鳥になんて喩えられて恥ずかしかったのよ?」
父と同じ琥珀色の瞳を持つ眼を細め、愛用の黒い扇子で口元を覆う姿はまさに貴婦人と呼ぶに相応しい。母が持つ艶やかな美とは違い、叔母のそれはこちらの気が引き締まるような凛々しさがある。
「さてはレーモン公ね? それじゃあ、お返しに彼の小さい頃のお話をしてあげましょうか」
「それは是非お聞きしたいです」
残念ながらノックと共にドアが開き、その先を聞く事は出来なかった。本当に興味があったのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます