第7話


「エヴァ嬢は、どのような武具がお好きですかな?」


 唐突な問いはアルトリウスに師事して半年ほど経った頃。池の淵で椅子に座って釣りをしていた時の事だった。わたしが答える前に口を開いたのは、側で日傘を差してくれていたギーゼラ。夏の盛りで日差しは強いが、池から吹く風は心地良い。

 

「もうっ、そんな事を仰って! 未だに木剣1本すら持たせて下さらないではありませんか! そうは思われませんか、エヴァ様?」


 そう、実は師匠と出会った日からというもの、稽古と称して森での鬼ごっこと、池での釣りばかりしている。私が文句も言わずに従っているのは、あの日の彼にただならぬ何かを感じたからだ。


 とはいえ半年もそんな事を続けているものだから、母ですら「まだ剣を持たせていただけないのですか?」と訊いてくる始末である。弱音を吐いたら辞めさせるという父との約束もあるので、己の未熟故と答えてはいるが、そろそろダンスよりも釣りの方が上手くなりそうだ。


「あら、わたくしが釣りをしているのはそんなに似合わないかしら?」


「い、いえ! 集中する横顔はお母上に似てお美しく、一日中でも眺めていられるのですがっ。アルトリウス様は武芸の師として招かれた筈、いつまでもこのような……」


 平民が趣味でやるような事を続けるのは、外聞が良くない。といった辺りか。

 無理も無い。今の私の姿は、どれだけ好意的に見ても気まぐれに釣りに興じる商家の娘といった所だろう。森を駆け回る度に汚れ破れていたのでは流石に金も仕立て人も追い付かないと言う事で、母パトリツィアが特別に許した稽古着は到底公爵家の令嬢が着るような物ではない。使用人らに意見を求めて作ったこれは、動き易くて丈夫なので重宝している。


「私を想ってくれているのは分かったわ。ですが、師匠は意味も無くそのような事をお訊ねになる方ではありません。ようやく……と考えてよろしいでしょうか、師匠?」


 笑みを深めたアルトリウスが竿を上げる。掛かっていた魚の名は知らないが、見事な大きさだった。


「ナイフ1本握った事もありませんし、まずは剣を習いたいと思います」


「お父上に似て賢明でいらっしゃる。合わせて弓もご教授致しましょう。では、今日はこれまで」


 左手で器用に針を外した魚をそっと水中へ戻すと、飛沫を上げて泳ぎ去って行った。



「エヴァ様、本日は昼食の後……」


「あぁ、叔母様がいらっしゃる日だったわね。身だしなみを整えておかないと」


 屋敷のバルコニーで少し遅いランチに舌鼓を打っていると、浮かない顔のギーゼラが教えてくれた。


 話は武芸を学ぶ許しを得たあの日まで遡る。


※※※


「あなた、どうしてもエヴァに武芸を学ばせるというのであれば私にも考えがあります!」


「……考え、だと?」


 決心した様子で立ち上がるパトリツィアに、レーモン公が明らかな動揺を見せた。普段は夫の反応を伺いながら恐る恐るといった調子の彼女がこうも毅然と意見を述べるのは珍しい。私とて数秒、呆気に取られてしまった。


「はい。幼くして武芸ばかり習わせたのでは、年頃になって殿方と一緒に狩りに出掛け、夜の城下町へ繰り出しかねませんわ!」


 弓を習う事はあるかもしれないが、必要も無く狩りに行くつもりはない。クロエにしか興味の無い私が夜の城下町など。いや、クロエと一緒になら可能性はあるか。6歳の子供にそんな心配を抱くとは、母の実家の男達はどんな生活を送っていたのやら。


「ですから、エヴァには私自ら令嬢としての教育を施します! あまり幼い頃から厳しくするのは良くないとも考えていましたが、武芸に比べればマナーやダンスの勉強など容易いもの。よろしいですわね、あなた?」


 願ってもない話だ。いずれ学園に入学するにあたって、日常生活を滞り無く送る事はクロエを手に入れる為に必要不可欠、さっさと身に付けておくのが吉だろう。


「お父様、エヴァはトゥールーズ家の為にこそ武芸を学びたいと申しました。ならば、公爵令嬢に相応しい所作を身に付けるのもその一環かと思います」


「良く言いましたエヴァ!」


 目を輝かせて小さくガッツポーズを作る母は淑女らしからぬ姿だったが、それを横目に父はほんの少し微笑んでいる。なんだかんだで妻に甘いのだ。


「当人がそう言うのなら何も言うまい。だがパトリツィアよ、おまえだけでは手が回らない事も多かろう。どうだね、他に教師をあてがってみては?」


 公爵の妻というのは、見方によっては平民の妻よりも忙しい。単純な肉体労働ではないが、他の貴族との交流や領地の視察で夫に付き添う事が多いのだ。実際、3日続けて屋敷に居る事の方が少ないのだから母は働き者と言えるだろう。ギーゼラ曰く、他家との交流はともかく領地の視察などには理由を付けて行きたがらない夫人も少なくないという。無論、そういう手合いは領民からあまり親しまれないようだが。


「そうですわね。ですが信頼してお任せ出来る方となると……そうだわ! お義姉様にお願いしてはいかがでしょう? トスカナルの方も落ち着いたと聞きますし、有事には馬車を飛ばせばすぐの距離です。あのお方ならご自身で馬に乗るかも知れませんが」


「姉上か……まぁ、不足は無かろうが。しかし彼女に幼い子の面倒を見ろと言うのも酷ではないか?」


 仲の良い間柄なのか嬉しそうな母とは違い、歯切れの悪い父。話に上がった女性の資質を疑っての事ではないようだが。


「いいえ、マティルデお義姉様は私が産気付いたと聞いて一番に駆け付けて下さった方。産まれたばかりのエヴァを抱いて、困った事があれば遠慮無く頼って欲しいと言って下さったものです」


 随分と母の信頼厚いらしい人物の名には覚えがあった。直接会った記憶は無いが、噂を聞く限りでは確かに不足無く私の教師を務められるだろう。


「…………まぁ、6歳の幼な子だ……心配は、いや……」


「トゥールーズ家の為を思えば、エヴァは厳しい教育も苦にはなりません。ですからお父様、どうか」


 私の援護もあっては、妻にもそうだが娘にも甘い父は首を縦に振るしかなくなった。もしもレーモン公が表情豊かな人物だったなら、周囲が呆れる程のおしどり夫婦だっただろう。そんな事を思いつつ、遠くない内に始まる稽古漬けの日々への覚悟を決めた。

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