第6話 囁く微風
誕生日から3日ほどで武芸の師は
「お待たせ致しました、先生」
「あぁ、エヴリーヌ嬢。どっこいしょ……と。お久しぶりでございます。と言っても、お会いしたのは産まれたばかりの頃でしたな」
歳を取ると月日が経つのが早くてかないませんなぁ。という呟きは謙遜ではない。父が初陣の頃には国内外で名の知れた騎士だったというなら、その父に娘が産まれる程の月日が経てば自ずと彼の歳の頃も知れる。
父も少なからず参じた戦場で無類の武功を挙げ、王国一と称された騎士と聞かされていた。荒ぶる神の如き戦いぶりから"叫嵐"の二つ名で味方すら慄いた人物だったと。
「改めまして。我が名はアルトリウス、この度お嬢様の武術指南を仰せつかりました。ご覧の通りの老骨ですが、剣の握り方くらいはお教え出来るでしょう」
髪は豊かだが白髪でない部分を探す方が難しい。腰は曲がっていないが、杖を突く足元は僅かに不安定だ。きちんとこちらを見据える眼差しにも覇気は感じられない。肘から先が失われた右腕も相まって老爺のようだ。まだ春の遠い季節、風が骨身に染みているだろう。
「お若い頃はそれはお強く、ご気性の荒い方だったそうです。和平が結ばれて戦も無くなり、不慮の事故で右腕を失くされてからはめっきり老け込んでしまわれたとか……」
唖然とする私にギーゼラが耳打ちする。レーモン公め、老け込んだ云々は聞いていない。率直に言って今の私でも足を引っ掛ければ倒せそうだ。
まぁ、こんな老体でも基礎の基礎くらいは教わる事が出来るだろう。どうやら脳にまで老化は及んでいないようだし、はっきり受け応えが出来るならしばらくは彼で我慢するか。
「そ……そうでしたか、なにぶん幼い頃でしたのでご容赦を。エヴリーヌ・トゥールーズでございます。女だてらに武芸を学ぶなどとお思いかも知れませんが、なにとぞご指導賜りたく存じます、アルトリウス殿」
内心の落胆は出来るだけ隠して礼をする。
覇気は感じられないが真っ直ぐな眼差しが、違う事無く私を追っているのが分かった。表情に出てしまっていただろうか。せっかく手に入れた機会だ、初手から機嫌を損ねたくはない。
「これはこれは、お若いのにしっかりとしたご挨拶ですな。なにより健康であられるのが良い、外で遊ぶのがお好きなのですか?」
「エヴァ様は好奇心が旺盛なのです。暇を見付けてはお屋敷の内外を歩き回られていますから、足腰がしっかりしていらっしゃるのでしょう」
アルトリウスの問いに答えるギーゼラは、自分の事のように誇らしげだ。好奇心というよりは、どんな些細なものでも情報を得る必要があっての事だが。
「なるほどそれで……日頃から身体を動かすのはとても良い事です。しかし剣を持つのであれば健康なだけでは足りません、しっかりとした土台を作りましょう」
そう言って窓の外へ視線を移すアルトリウス。父がよく剣を振っている広場とは別の方向だ。
「ふむ。では、近くの森で追いかけっこをしましょうか」
「はい……はい?」
言葉の意味が分からずにまたも呆気に取られてしまった。まさかとは思うが、稽古と称して孫ほどの歳の私と遊びたいだけではなかろうか。
いや、まだだ。もう少しだけ様子を見よう。私に体力を付けさせる為だと思えばまだ合点がいく。
「我輩も幼い時分には野山を駆け回ったものです。お父上も勉学より外で遊ぶのがお好きな方でした。では、支度もおありでしょうし、外でお待ちしておりますので」
今度は昔話だ。今日一日で彼に対して感じる処が無ければ武芸を身に付けるのは後回しにするしかない。
そうと決まればとことん付き合ってやろうではないか。
「ギーゼラ、着替えを用意して頂戴。汚れても構わない物で、なるべくしっかりした作りの物がいいわ」
「ええと、乗馬用のお召し物などはいかがですか?」
「あぁ、少し前に作らせたのだったわね。それにしましょう」
貴族の嗜みとして乗馬を体験するのに採寸したのだった。子供の成長は早く、すぐにサイズは合わなくなるだろうから汚れたり破れても気にする事は無いだろう。走る為の物ではないが、この世界にジャージがある訳も無い。
ギーゼラを伴って森の手前へ。森と言ってもそこまでの広さは無く、森と林の中間といった所だ。しかし誰の趣味なのか小川や小さな池が整備されており、ただ大きいだけの森よりもずっと散策し甲斐がある。
「それでは始めましょう。まずは我輩が鬼です、森を出なければどのようにお逃げいただいても結構。木に登っても小川に潜っても構いませんが、怪我はなさらない程度に。10数えたら追い掛けます」
「承知致しました。それでは失礼」
一礼して駆け出す。何度か歩いた事があるので迷う事は無い、迷うとすればアルトリウスの方だ。そもそも追い付けるかどうか。
「エヴァ様ー、お怪我にだけはくれぐれもお気を付けをー!」
2人の姿が見えなくなった所で整備された道を外れ、小川を飛び越える。
(7、8、9……)
短い斜面を登ると池を見渡せる場所に出た。ここは道なりに歩いただけでは絶対に辿り着けない場所で、下の池から見ると小さな崖の上に位置する。
10。さて、お手並み拝見だ。足跡を辿るにしてもこの位置からであれば、まばらに細い木が生えているだけの斜面を登って来る人影は見逃さない。果たして"叫嵐"は未だ健在だろうか。
座って待つ方が良いだろうかと考え始めた頃、斜面の中腹に人影があった。
中腹に?
「気付け、なかった……?」
決して居眠りをしていた訳でも、意識を他所へ向けていた訳でもない。そもそも崖の上まで来たのは警戒する範囲を限定する為だ。低速とはいえ動き続ける彼の姿を木々と間違える筈もない。
いや、それよりも逃げるのが先決だ。左右か、前か。後ろの崖を飛び降りるのは、稽古の範疇で選択するには危険すぎる。ならば左右のどちらかへ、池のほとりを逃げ回ろう。
「おや、考え事ですかな」
アルトリウスが居た。彼が彼だと視認出来る位置に居た。馬鹿な、あんなにゆっくりと歩いていたのに。私はその距離に接近されるまで思考に囚われていたのか?
「ほれ、捕まえましたぞ」
状況を飲み込めないまま、なんなら一歩も動けないまま彼の左手が肩に触れる。暑くもないのに首筋を汗が伝った。
「さぁ、今度は貴女が鬼ですぞ。エヴリーヌ嬢」
私を追って来た時と変わらぬ速さで逃げようとする背中へ問う。
「……
「出来ません」
即答だった。
ゆっくり遠ざかる背中を見つめる事数秒、音を立てないよう近くに落ちていた木の枝を拾う。私の腕力でも投げられて、当たれば確実に痛い大きさだ。
「…………」
振りかぶって、後悔する。己の首が飛ぶイメージなど。あんな細い、刃も付いていない杖で。一足跳びで、など。
枝を足元に放って、アルトリウス……否、師匠の背を追う。レーモン公め、ここまでの大物とは聞いていない。
結局、私の手が師匠の背中に届く事は無かった。生涯に渡って。
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