第9話
「ただいま帰りましたわ、義姉様。おくつろぎ頂いていますか?」
現れたのは母パトリツィアだった。今日の仕事は夜までかかると聞かされていたが、早く済んだのだろう。足早に女伯の元へ歩み寄ると、ギーゼラが持って来た椅子に掛ける。
「まぁトリシア! 直に顔を合わせるのは久し振りだけれど、やっぱり美人ね。お帰りなさい」
「もうっ、義姉様ったら。私も随分歳をとりましたわ。それを言えば義姉様こそ、お会いする度に凛々しくなられて」
貴族によくありそうな心にも無いお世辞合戦ではなく、本当に仲が良いらしい。容姿こそ似ていないが、醸し出す雰囲気は姉妹のそれだ。この世界では行き遅れと言われる歳まで嫁ぎ先が決まらなかった叔母と、若くして嫁いで来た母の交流は長い。トゥールーズ家は叔母と父の姉弟だけ、家族の元を離れて嫁いだ母にとっては歳の近い同性という事でよく懐いていたと聞く。
「レッスンの進捗はいかがですか? 娘は私などよりずっと器用な子ですから、嫁いだばかりの私に手解きして下さった時ほど手はかからないかと思いますが……」
そう、実は母に作法やダンスの教練をしたのも叔母なのだ。ともすれば父と居る時よりも母がリラックスした様子なのは、そういう理由もあるのだろう。
「これだけ歳が離れていては比較のしようが無いわよ。けれど、6歳の子供としてなら目を見張る物があるでしょう。社交会に出るのを見るまで死ねないわ」
親族相手にくだらないお世辞を言う性格でないのはもう知っているし、素直に喜んでおこう。
※※※
母の登場で授業は茶会へと変わり、昔話を聞く内に刻限が迫る。
「奥様、そろそろ……」
静かに告げるギーゼラの表情はどこかほっとしているようだ。叔母が帰るからだろうか。
「まぁ、もうそんな時間なの? 楽しい時間はあっという間で困ります。もっとお話ししたいのに……」
拗ねる子供のような顔をする母は、とても娘を産んでいるとは思えない程幼く見える。父にも私にも見せない顔だ。
「こうして通いの教師が出来るのだもの、またすぐに会えるわ。お互い忙しい身になったものね……」
母の手を取り、愛おしげに自らの頬へ寄せる叔母の表情は反対に歳を重ねた悲哀に満ちていて、私の目には何故か印象的に映った。今生の別れでもあるまいに、と。
馬車まで見送ると言う母に従い、僅かに傾き始めた陽の下へ。派手さは無いが丈夫な造りの馬車には御者の他に中年の男が1人乗っており、女伯が近付くと恭しく手を取る。帯剣しているので護衛兼従者といったところか。姻戚関係にあるとはいえ他家の領地を往来するのだから当然だ。
「それじゃ、ごきげんよう。エヴァ、ダンスの練習を欠かさずにね」
「はい、叔母様」
にっこりと微笑んだ叔母が乗り込んだ馬車の中には細身の剣が掛けられていた。護衛らしき男はすでに帯剣しているので、あれは彼女の得物だろう。あれもまた、彼女が持つ多くの二つ名を示す物。姫雛鳥、トスカナル辺境伯、マティルデ女伯……そしてもう1つ。
紅殿子。彼女が女伯の名で知られる以前、トスカナル領で起きた小規模な戦に身を投じた時に呼ばれていた名だ。
トスカナルの領主交代に乗じようと暴発した隣国の軍部。その一部が突如として侵攻して来たこの戦で、彼女は亡夫に代わり、鎧に身を包んで戦ったといわれている。領主の館に忍び込んだ数名の敵兵を返り討ちにし、館の一室を血で染め上げたとも。
マティルデは知っているのだ、戦を。
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