[10章9話-1]:わたしは『あかね先生』




「ありがとうございました」


 約1ヶ月過ごした宿舎を後にする。


 昨日までに、お世話になったアカデミーなどには挨拶も済ませた。


「本当に、持って行かなくていいの?」


 茜音が部屋に借りていた両親の日記や書類を返しに行ったとき、日本に持ち帰ることも提案されたものの、彼女は首を横に振った。


 持ち帰れば間違いなく大騒ぎの品だ。せっかく空の上で静かな時間を過ごしているであろう二人に迷惑をかけたくない。


「これは、パパとママの二人の記録です。ここにはわたしはまだいません。だから、ここに静かに置いておくことが一番だと思います」


 あの手紙のことを話すと、それは間違いなく二人の娘である茜音が受け取ることを想定して書かれてある物だからと、土産として渡された。


「さぁて、帰ろうか」


 すっかり顔なじみになっていた宿舎の面々に見送られ、空港までの電車に再び乗った。


 二人ともスーツケースひとつの身軽さだ。あちこちのお土産は一昨日までに用意をして先にオーストリアを発っている。


 昨日も手をつなぎながら朝から街歩きを始め、いくつもの美術館やプラーター遊園地などを訪れて、時間の許す限り二人だけの時間を過ごした。


 離陸する飛行機の窓から、2カ月過ごした街並みを見下ろしながら、涙が自然にこぼれた茜音。


「また、戻ってくるよ……」


 茜音にとって、この街は特別な意味を持つ場所に変わっていた。


 夜間飛行になって、窓のブラインドを下ろす。



「疲れた?」


「健ちゃんこそ。なんかあちこち振り回しちゃったみたいで、ごめんね」


 機内食を食べながら、これからのことを少しずつ話していく。


「帰ったら、お墓参りに行こうよ。茜音ちゃんを幸せにしますって、ちゃんと報告しなくちゃ」


「うん。そうだね」


 あの手紙は大切にしまってある。


「片岡のご両親にもちゃんと言わないとね」


「健ちゃん、焦らなくても大丈夫だよ? 片岡のお母さんもお父さんも、もうわたしに任せるって言ってるから反対されることもないし」


 もちろん、結婚は茜音の人生の最大の転換点となる。進めなければならないと思う一方で、急ぎすぎてミスをしたくないという考えと両方の葛藤がある。


「近く、僕は苗字を変える予定でいるんだ」


「えぇ? そうなの?」


 茜音の身辺調査をお願いしてしてた頃、健も自分の戸籍などを調べてもらっていた。


 茜音を迎えたとして、突然親戚が現れてあれこれ言われるのは避けたい。それに、今の保護者代行が園長先生になっていることからも、今後のことを考えて整理しなければと思っていた。


 その結果、健自身はもうどこの籍にも属していなかった。松永という苗字も、以前からあったために変えていなかっただけだと分かった。


「だから、佳織さんに言われたんだよ。僕が変更して、茜音ちゃんがお嫁さんにきてくれることにすれば、新しい苗字にできるって」


 健も悩んでいたのだ。茜音と次に進むために何をしたらいいのか。


「なるほどねぇ。なんにしようかぁ」


 東京までのフライトの間、二人は自分たちの名前を考えていた。松永も佐々木にしても、トラブルの原因になるようなものは使いたくない。


「健ちゃん、ありがとう」


 ここにきて、いろんなことがあったけど、今の自分が帰る場所は彼の腕の中。


 それがはっきりしただけでもこの2カ月は無駄にはならなかった。


「あのね、わたしは、やっぱりみんなの『あかね先生』なんだと思う。いろんな勉強したし、ピアノやバイオリンを弾いたりみんなと一緒に歌うのが大好き。それでいいんだって。パパもママも解ってくれるよ。わたしが自分で決める道だから」


 これまでは、どうしても自分の出生が明らかになるにつれ、両親の意志を継がなければならないのかと迷うときもあった。


 はっきりと自分の道を選んでよいと二人からの応援をもらった今は自信を持って言える。


「帰ったらお仕事だよぉ」


 この研修旅行のレポートを出し終わったあと、茜音は最初で最後の音楽コンクール生活にピリオドを打った。

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