003 夫の想い。母の想い。二つの心を繋ぐもの。
※ 001、002の続きです。
補聴器の壁貼り説明書は、なんとかかんとか完成した。
2時間もあれば出来るだろう、と甘く見ていた。
正確には「普通の説明書き」ならば、余裕を持ってもそれくらいで出来る。
けれど、いまは「認知症の母が分かる言葉」で、「認知症の母が分かる手順」で「認知症の母が嫌でも目に入る場所に貼り、絶対見逃さないサイズと体裁」で説明されたものを作らねばならない。
このハードルはめちゃめちゃ高い。エベレスト? いやいや。控えめに言ってオリンポス山だよこれ。なんだその山? って火星の山だよ。太陽系で一番でっかい山。未知って意味も込めて。
作っては直し、作っては直しで6回目。初めから作りなおすくらいの直しを入れて、やっとできた。
時計の針は朝の4時を指している。
(す、すこし……寝る……)
フラフラとベッドに行くと、夫はとっくに夢の中。
ん? そう言えば、いつ帰ってきたんだろう? 全然気づかなかった。いつもよりだいぶ遅かったな…
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「あ、おはよう。いまヘルパーさんから電話があってね。ちょうど話し終わったところ」
横でスマホを握っている夫が言った。
夫が電話で話している声で、目が覚めた。
あれ、もう朝か。
寝てたんだ。ベッドに突っ伏した記憶すらないぞ?あのまま倒れるように寝たんだ。
すごい。爆裂寝つきの悪い私が、秒で落ちてた。
「あー、おはおー……あへ、ヘルハーはんはら?」
「日本語崩壊してる。3歳児でももっと喋れるよ」
爆笑する夫。
うるさいな、寝起きなんだから仕方ないだろ。てか質問答えろよ。
その前に。ヘルパーさんからの第一連絡先は私なのに、何故夫が話を?
そう思いつつ、ひとまずそれは思考の外に放り投げ、寝ぼけ眼で時計を見た。
……って、11時!
マジか! ビックリだよまったく。一瞬時計逆さまかと思った。
昨夜は朝 10 時半には家を出ようと思っていた。
早く準備して実家に行かないと。説明貼りに行かないと。
……ん?11 時なのになんで夫がいるんだ?
ふと疑問に思い、半分枕に埋もれながら夫の顔を眺めていると、夫が答えた。
「俺も有給取った。『妻方の介護が必要な家族の緊急要件だ』と言ったらすんなり取れた。今日の分も仕事上げてたから、終電になっちゃったよ。帰ったら
終電だったのかよ。しかも有給取ったのかよ。
なんだよ遠慮とかいいから早く言え、このすっとこすっとこすっとこどっこい。
てか「
「琴にばかり負担かけてごめん。今日一人じゃきついだろ。何なら、俺一人で行っても大丈夫だよ。琴は休んでな。いや、命令したいくらいの気持ちで、休んで欲しい」
うわーん! スキすき大好きシーファンニー! 世界でいちばん愛してる!
夫が優しく私の頭をなでる。もうこれ、心地好すぎて眠くなる。あくび出ちゃった。ニマニマしながら、また布団をかぶ……いや駄目だから!
いけないいけない。罠だこれ。でも好き。夫のナデナデは、何よりも効く精神安定剤だ。
え? すっとこどっこいだって?
誰が言った。言ったヤツ蹴り上げるぞ。え、それ私? いやいや言ってない言ってない。言・っ・て・ま・せ・んー!!
そら見ろ。言ってないことになった。
「んー……いや、行く。お母さんの様子、直接見たいし、補聴器のこと何度か言い聞かせないといけないし」
「おーい無理すんな。俺でも……」
「どうせ明日休みだもん。電車でも寝れるし。それに、
そう。夫の名は
彼とは、私の知人の歌うたいさんのサポートメンバーとして知り合った。彼はベーシストだ。普段は
なによりエロい。すんごい色っぽい。演奏の話だよ?
同じ歌でも、ベース1本で世界観を自在に変える。彼の音使いは憧れだし、指使いも見惚れるし最高だ。演奏の話だよ?
はじめ「ノリック」と名乗っていて、何それ昭和かよ、と爆笑したけど、その愛称は彼が幼い頃憧れていた、世界的な日本人バイクレーサーの愛称と同じだと知って、心底申し訳ない気持ちになった。
「憧れの人に近づきたい。そういう風に思い焦がれ抱いた気持ちを、絶対に笑ってはいけない。私は人として最悪なことをした。ごめん。」
私が謝ったら、ひどく驚かれ、物言いや仕草が、元々は
なんだそれ。褒めてないだろ。
てか、お
お
演奏も、ギターの弦3本分の張力が1本の糸(
そして優雅さが消える最大ポイントがコレ。
箏曲業界は女ばかり。
女性 9 割。それが寄って集ってガチンコ勝負する世界。
あははおほほ、で済む訳がない。
……とまあ、そんな悪態ついてドン引かせはしたけれど、不思議なことにさらに面白がられた。
実際に、普通のお箏の
すると優雅とは程遠い、体力 & 筋力勝負なことも分かってもらえた。
それから意気投合して仲良くなり、次第に男女の距離も縮まって……と言うか次第に詰められていて、いつの間にか夫婦にまでなっていた。
彼は、大学に入りたての頃、事故で両親を亡くしたという。
まだ未成年だったから、一時的に親戚引取られ、卒業まで面倒を見てもらったという。
彼の方面への結婚のご挨拶も、彼の両親の墓前にご挨拶した日、その足で親戚の方の家に向かい、ご報告をした。
彼は、両親のことをあまり語らない。それはそうだろう。10年くらいでは、多少整理できたとしても複雑な思いがある筈だ。
愛する人の死。それもある日突然失うなど、そう簡単に受け入れられるものではないし、整理なんてつかない。
例え外から割り切れているように見えても、本人もそう思っていたとしても、どこか心の隙間に忍び込んでくるものだ。
彼だって、未だに事故が無く、それまでの日常がいまも続いている、そんな夢を見ることがある筈だ。
そんな経験をしているからだろう。ノリは、連絡なく帰りが遅い日など、異常に心配をする。鬼電が入っていてウザいと思ったこともあるくらいだ。
でも、これだけは思っても言わない。なんでも口をついて言葉に出してしまう私だけど、この鬼電をウザいと言ったことはない。
これからも絶対に言わない。言うなら「心配してくれてありがとう」、それだけだ。そう誓ったのだから。
「……わかった。でも、きつそうなら問答無用で帰すぞ?」
「うん。まあ、眠かったら実家で寝るわね。」
ノリは既に出掛ける準備が出来ている。私が作った説明書きも、しっかり彼のバッグに入っていた。
私も急いで身支度を整える。
どうせマスクするし、行くの実家だし。
髪はまとめよう。アイメイクと眉だけは整えないと。あとはどうせ隠れる。目力だけ演出しよう。
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駅までの道すがら、ノリにヘルパーさんとの電話の内容を確認した。
驚いた。ヘルパーさんが来た時には、母は自力で補聴器を着けていたらしい。
ご機嫌でチャイム1回でルンルンと出迎えたと。
そんなことは珍しい。いつも駄々をこねるのだ。ただ話し相手にいらっしゃるだけなのに。
ヘルパーさんは、日曜以外は毎日30分でも行ってもらうようお願いをしていた。
なぜなら、生存確認が目的だからだ。
母の歳だと、いつ倒れてもおかしくない。でも、毎日行っていれば……こう言っては何だけど、そんなこと起きて欲しくないけれど……もしもの時、翌日には発見できる。そうすれば、遺体が腐敗……いや、見れない状態になることはない。
考えたくないことだけど、そこまで考えなければいけないのが介護なのだ。
ヘルパーさんからヒアリングしたノリの話。それを聞いた私は、安心と驚きが同時に来て気持ちの流れが渋滞中だ。ちょっとごめん、交通整理させて。
ただヘルパー案曰く、充電器はやっぱり引き出しに仕舞ってあり、私か兄嫁の沙絵さんの忘れ物だと思っている、と。
でも、それはそれで良かった。何故なら昨日、兄嫁の
みんな母の行動を先読みして、的確に対応してる。これ、すごいチームじゃない?
駅に着き、電車に乗った。
乗る電車は、私鉄の地下鉄直通線。それで終着駅まで行き、乗り換える。
更に別路線1駅で実家最寄りの駅だ。
1時間はかかるけど1回乗り換えで行けるし、直通線なら1本でほぼ間近の駅に行ける。とても便利で且つ、
長い時間寝れる!
……というわけで、寝た。
それはもう寝た。
乗って次の駅を覚えてない。
ノリに揺り起こされたらもう終点の乗換駅だった。
化粧しなくて良かった、と思ったのはその時。
えっと、マスクの中が洪水……。
よ、よく垂れなかったねこれ……。逆に、マスクがあってよかったかも。これを垂れ流しはいろいろきつい。
トイレでマスクを替えて、使い古しのマスクはビニール袋に仕舞ってしっかり結ぶ。そのままダッシュで乗り換える。
あと一駅で、母の住む町。そして、私の育った街に着く。
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「ちょっと、遠回りだけど寄り道していいか?なんなら、先行っててもいいよ」
乗り換えて 1 駅乗って、すぐに故郷の街に着く。
改札を出ると、ノリがそわそわ。そわそわ。そわそわ。
ここに来るといつもそう。もう笑っちゃう。
分かってるよ。安心して。あそこでしょ?『マル花』さんと『
私だって寄りたいんだから、大丈夫だって。
この 2 軒は隣どおしで、お客さんの流れがいつも連動している。おかみさんもご亭主も仲良しで、町内のイベントではいつも両家が一緒にいる。
マル花さんはパン屋さん。ここのシナモンロールは平たい。東欧のどこかの地域がこの形だと聞いたことがある。縁はサクサク。中しっとり。最高。
あとお店オリジナルのピーナッツバター。クランチ状のピーナッツがこれでもか、というほど詰まっていて、香ばしさハンパない。なんでも地元産ピーナッツらしい。さすがピーナッツ県。美味すぎる!
でも、お肉そのものもいいけど、トンカツが最高だ。小芋を四つ切りにしたポテトフライは、グラムじゃなくて個数売りなんだけど、塩気とちょっとコンソメっぽい風味、サクサク、ホクホク具合がもうが絶品。こんな様子だから、もちろんコロッケも絶品。というか、ザ・下町の味。
これ、地元自慢のお店。遊びに来た友人には必ず案内する。
ノリも案内したその日、歩きながら頬張ったらハマってしまい、追加を買いに引き返したほどだ。
二件とも、小さい頃から私の舌に染みついた味だ。母のポテトフライも大好きだったけど、あれはご飯のお供。上総屋さんのフライはおやつにちょうどいい。10個120円という値付けも絶妙だ。
中学になると、この二つのお店は一人でも行くようになった。
太るよ!って、散々お店のおかみさんたちに笑われた。でも、ポテトフライはいつも2個多く入れてくれたり、パンは食パンの耳を揚げたやつをおまけで入れてくれたり。寄って
実際太った。あの頃の写真は、顔がもうハムスターか?っていうくらい丸々してた。健康的なふっくら……だったか?
健康的かは知らないけど、笑顔は無邪気だったな。
だって……まあ、これはいいか。
ていうかおかみさんたち、太るよ、食べすぎ注意!とか言っといて太らせやがった。許せん。
でもヤミツキレベルの絶品だし、おかみさんは二人とも、私が落ち込んでヤケ食いに走っている時には察してくれて、温かい。
仕方ない。許す。
大学入学前、明日地元離れる、しばらくここに来られなくて寂しい、と泣いた時は、一緒に泣いてくれた。母が一人で心配だと言ったら、母が一週間お店に姿現さない時にはいつも連絡をくれた。何も伝えてないのに、みんな見守ってくれた。
おかみさんたちは、まだ私を子供扱いする。
それに対し、ノリに猫なで声で接客するのだけは、ちょっと腹立つ。ノリは私のなんだから!でもおかみさんたちは、どっか乙女で可愛いんだ。
仕方ない、許す。
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買い物をして母に電話をした。
「あらまぁ
「うん、元気だよ、お母さんその様子だと、補聴器してるんだね」
「え……あ、うん? そうね、なんか耳に入ってて……あー補聴器! そうよ! これ入ってるとよく聞こえるのよぉ。嬉しいわ」
「そっか! よかった!」
自分で補聴器を入れたことも、いま着けてることも忘れてる。でもそれでいい。聞こえるという事実があれば、それでいい。
「うん。でね。いま古川通りにいるから、そっち行くね。
「あら! ノリさんも一緒なのね。あそこのポテト、いいわね、まる花さんも、シナモンロール? 最近食べてないわ。家にはなんにもないけどぉ……じゃあ待ってるわ」
「うん!あと 5 分くらいで着くから。待っててね」
母の声が弾んでいる。
主食かおかずかはたまたおやつか。一体どういう組み合わせだ、と我ながら苦笑するけど、そんなことよりみんなの好きなものを並べる方がいい。
「
「うん。あれ、今日私が行くってことは忘れてるけど、ウキウキした気持ちは覚えてたんだと思うよ」
「そうだな。気持ちだけは覚えている。…それ、いいな。俺たちも同じだな。細かい出来事の前に、気持ちがここにある。親の面倒を見られるって、こういうことなんだな」
- 俺にそんな機会が来るなんてな。学生の頃にもう諦めてた。諦めるしかなかったんだよな。でも、いまこんなに…。琴、ありがとう。 -
ノリは、呟くようにそう続けて、私の肩を抱いて引き寄せた。
その手は、少し震えている。
ノリは、親を世話することも、親の最期を看取ることさえもできなかった。
そっか。今日来たのは、少しでも多くの時間を、記憶に焼き付けたいんだね。世話する幸せを、少しでも味わいたかったんだね。
すごいよお母さん、ノリの想いも拾い上げてるよ。
こんなことってある? ほんとに、敵わないや。お母さん。
真横にあるノリの顔を覗こうと、そっと視線を遣ると、彼はプイと横を向く。
なんだよ、照れなくていいから。泣きたきゃ思いっきり泣けよ。いいんだよ。ノリにはその権利があるんだから。
彼が私よりも、母に心を砕く理由。
それが少し、分かった気がした。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
※ 次話、11/21(日)23:00頃UP予定です。場面は遡り、001~003の2カ月前のお話です。
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