004 運動しよう!…で喉突き!オエェェ…

※ 001~003の約2カ月前、介護プログラムが始まるあたりのお話です

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「そんなの聞いてないわよっ! もう! 放っておいてっ!」



 ほらほら来た来た。


 午後の 1 時だというのに、寝間着姿。

 そんな姿で居間の座卓に突っ伏し、外に出ない決意を猛アピール。

 おーい子供か。2 歳児か。2 歳児はむしろ「おそとーー!」だけどな。


 ……って、心の中で言い返す。これ、絶対言ってはいけない。口に出せばそれがゴングだ。言えば 二時間は「ファイッ!」だ。


 でも。言うべきことは言わなきゃ。甘えさせても好転することなど一つもない。

 それどころか、状況は刻一刻と悪化するだけなんだ。


 私は心を鬼にして、母と対峙する。


「お母さん。お母さんが週二回って言ったんだよ? 先週の見学で、トレーナーさんに週1回って勧められたのをさ、『私は週 2 くらいやらないと身体鈍っちゃう』ってがんとして譲らないから『し・か・た・な・く』週 2 にしたんだよ? 今更変更出来ないんだからね!」


 実際にそうだ。確かに言った。言ってそのように手配したのだから、もう撤回できない。いや違う。撤回なんてしてやるもんか。


 認知症が進んでからの母は、他人にはとことん強がる。

 と言うか、調子こく。

 いやそれはもう「わたし出来るモン!」を並べ立てる。


 普通はそこでいさめるのだろうけど……

 私はそんな甘ったるいことは御免。


 別に「後悔させてやろう」とか「思い知れ」とかそういう気持ちじゃないよ?


 例えて言うなら、自分で罠の穴掘って、どういうわけか進んでハマりに行くんだよいまの母は。

 穴を掘ったこと忘れるんじゃなくて、穴があることを知って、なお進んでいく。面白いくらい意気揚々、威風堂々いふうどうどうハマりに行く。


 私が「こうしてくれたらいいなぁ。でも、ちょっときついかなぁ」と心配しているところに、「こうしてくれたらいいなぁ」の方に自分から進んでくれる。楽な選択肢を提示しても、断固拒否する。



 そんな石より硬い決意表明を、利用しない手はな……尊重すべきだと思いませんか?



 もちろん、後でイヤイヤするのはお見通し。

 でもいちど言質げんちを取ったんだから、もう引き返せない。それを許したら、この先が全部崩れる。

 だから、絶対譲らない。



「そんなこと言ってません!」

「言った! だから手配したのよ? さ、服どこ? 早く着替えて! 行くよ!」

「あたしは大丈夫ですっ! こんなに動けるのッ! だから行かないッ!」

「なら逆に行けるでしょ! 行って動けること証明しろよ!」


 母の態度に、私も冷静さを失ってしまう。

 勢いで私は母の手を取った。もちろん母も抵抗する。

 まったくなんて馬鹿力だ。こんな力あるなら動けるだろさっさと動けっ!


 ……と、心の中で毒づいた時。


 ほとんど、一瞬の出来事だった。


 こんなに俊敏に動けるのかよ、普段どんだけサボってんだ? と言いたくなる俊敏さだった。



「鬼の首取ったような態度であんたっ!」



 私の手を振り払おうとした母の腕が、私の喉を思いっきり突いた。



 思わず私は仰け反り、後ろにひっくり返った。

 本気で苦しい。かなりピンポイントで入った。

 そう言えば私が幼稚園から小学生まで、お母さん護身とか言って空手やってて、黒帯まで行ったんだっけ……。



義母かあさんっ! ダメだ! 手を引け!」



 ノリが叫び、一瞬遅れて母の手をはたく。


(え…? ノリ?)


 喉を押さえながら、ベチン! と響いた音に驚いた。


 私はうずくまってしまい顔は見えないけど、たぶん私が見たこともないような、恐ろしい顔をしているんじゃないかと思う。


 普段、ノリは母に甘い。ほんとに甘い。嫉妬するくらい甘い。

 そのノリが、母に手を上げた。信じられない一瞬だった。

 いま、ノリの剣幕に、この一瞬の出来事に、母は固まり言葉を失っている。


 なんとも言えない重い重い静寂が、リビングを覆っていた。




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 先週から、身体機能回復のためのリハビリがはじまった。



 やっと要介護の認定が下り、ケアマネージャーケアマネさんと現状再確認の面談をし、いま介護プログラムの作成をしてもらっている。


 私たちは、要介護認定が下りるまでの1カ月+2週の間、認定レベルよってどのプログラムがどこまで利用可能かを調べ、認定が下り次第、ケアプランを作成するケアマネさんに伝えられるように準備をしていた。


 大前提は、母の望みをできるだけ叶えること。

 その望みとは、「住み慣れたこの家で、出来るだけ長く暮らしたい」だ。

 基本方針はそれで決まり、必要なケアを考える。


 まず、日々の生存確認と体調確認。これはヘルパーさんに。

 そしてもう一つ。マンションの一階まで降りるのも苦労している状態だから、身体機能の回復。これはリハビリセンターに。


 認定が下り、早速ざっくりとそのことをケアマネさんに伝えると、私たちの要望に則って居宅サービス計画ケアプランを作ってくれることになった。


 ケアプランとは、要介護者のレベルや症状、家庭状況に応じて、介護サービスの種類や内容などを決める計画書だ。

 介護保険の適用範囲内でどこまで出来るかを確認し、担当のケアマネさんがケアプランを作成てくれる。


 その中に一週間の予定表もあり、日々のヘルパーさんの訪問やリハビリセンター通いも、その予定に則って実施される。


 ところが、ケアプランが出来るまで 2 週間はかかる。1 人の計画や予定表作成でなんでそこまで時間がかかる? と思われるだろう。


 理由は単純。前が詰まっているからだ。単に順番待ちなのだ。


 要介護者は 右肩上がり且つ指数関数的に増えているのに、対応人員数も事業者数も、それに全く追い付いていない。


 それが、介護業界の現実だ。



 私たちの場合は、ケアプラン作成前に合意も得ているし、方針ははっきり決まっている。

 そこでケアマネさんは「プランが完成する前に、リハビリは開始しましょう」と仰ってくださり、早めにスタートすることになったのだ。




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「オエェェェェ……」



 ひとまず、奥の部屋に退避した。静寂に耐え切れず……なんて可愛い理由じゃない。

 打たれた喉が苦しく、えずくように咳込んだためだ。

 トイレじゃわざとらしいし、母はトイレが近い。占拠はできない。

 吐くような苦しさではなかったから、ここを選んだ。


こと、大丈夫か?」


 後から追ってきた孝範ノリが、背中をなでて言う。

 て言うか背中さすると、無かった吐き気が生まれちゃうから。ちょっとやめて。むしろ水……

 と思ってたら水が出てきた。さすがノリ。


「……うん、ありがとう、大丈夫」


 ゴクゴクと一気に飲み干し、一息つく。


「……わかってるよ。ごめん。感情的になった」


 少し落ち着くと、途端に力が抜ける。



 私、何やってるんだろう。



 それは、覚悟も決めたよ。嫌われようがどうしようが、進まなければいけない道がある。母の短い未来を、少しでも母の希望どおりに描くなら、その道に乗せなきゃならない。だから、心を決めたんだ。

 でも、あんなに嫌がられて。拒否されて。手まで上げられて。ノリまでこんな風になって。



 そこに、何があるんだろう。



 ううん、覚悟はしてたよ。こういう場面くらい。

 でもさ。でも、だよ……。


 一気に、気持ちが霧がかる。

 いや、霧じゃない。

 どんより灰色の雲だ。真冬のあの、なんとも言えない重い重い雪雲だ



こと、少し強引じゃないのか?」



 意外なノリの言葉に、私の頭にドバっと血が上る。



「これって、勢いで言ったことを、都合よく利用してるだけじゃないのか? 義母さんあんなに嫌がって…」



 ちょっと待てよノリ。いまその言葉じゃないだろ。


 もちろん、そう言うノリの気持ちもわかる。外から見ればそうかも知れない。

 でも……でも、でもっ! なんだお前? ここまでひっついてきて、傍観者のつもりなのかよっ!

 ノリ、あれだけ調べて、必要な事アドバイスしたくせに、お母さんの反応見た途端怖気づいてその反応かよっ!

 


 ノリは分かってないっ!! なんにも分かってないっ!!



 再び、私の心にいがついた。我ながら復活が早いな。マッチ棒か。



「違うんだよっ! ノリは甘いんだよっ! ここでそんな優しさなんて、1mm も役に立たないんだよ!」



 ノリが身構える気配がする。

 構わず、私は横にいるノリに向き直り、正面から言う。



「なに呑気なこと言ってんの? お母さんのあの姿見て、私がなんにも思わないとでも思ってんの!? なんでここまで、嫌われてまで、やらなきゃいけないんだろうって、葛藤だってするよっ! でも……でもっ! ……ノリは数年後……ううん、半年後かも知れないよ? お母さんが施設で、焦点定まらない眼で天井ぼんやり眺めて寝そべって、私たちが声かけても、誰が誰だかわからなくて何の反応も示さない……そんなんなっていいって、そんな時間が何年も続いてもいいって! そう思ってんのかよっ! 何年も続くって、風呂敷広げすぎだとでも思ってんのかよっ!」


 嗚咽交じりの私の語気に、ノリが怯んだ。


 はっきり言って私は口が悪い。気持ちが昂ると刺すような口調になる。悪い癖だと自覚はしている。気をつけてはいるけれど……勢いに任せて悪態をつき後悔することなんて、まだまだ沢山ある。


 でも。今日は違う。

 心が叫んでる。心の縁が決壊して気持ちの洪水が起きている。


 悲しい。寂しい。辛い……。


 次から次へと際限なく溢れ、もうノリの優しさでは抑えられない。



「いま言ったこと、大げさだと思ってる? ねぇ、ここで甘えさせたらどうなると思う? お母さんは、この家にいたいんだよ? 私たちと笑い合える時間を、少しでも多く過ごしたいんだよ? その望みをできるだけ長く叶えたい。叶えるなら、母さん自分で動ける力を取り戻さなきゃいけないんだよ? でも、甘えれば、駄々をこねればきついこと避けられる、なんて覚えたら、もう、先は無いんだよ、終わりなんだよ……」


 泣いた。とうとう嗚咽になった。


 気持ちの洪水は、身体からだの中だけで収まる限界を超えた。一気に超えた。



 どれくらい泣いたかな。ふと気づくと、私はノリの胸の中にいた。



こと。わかった。琴は、覚悟を決めた。そうだな?」

「前からそう言ってる! 嫌われようが恨まれようが親子の縁を切ると言われようがっ! お母さんがこの家にいたいって望むなら、この家にいることが大事だって! そう言うのならっ! それができるように何だってするよ、何にだってなるよぅ。鬼って罵られても包丁突きつけられても……やるしかないんだよぅ」



 ノリが私の頭を優しく撫でる。

 まるで昔のお母さんだ。


 そうだよ。こんな時いつも、お母さんが心を温めてくれた。

 そのお母さんだもん。私は、最後の恩返しをしなきゃいけないんだ……。



「分かった。ごめん。俺は介護に対しての「覚悟」ってものを、甘く見てた。いま、俺も覚悟を決める。あとは任せて」



 そう言ってノリは、私の額にキスをした。

 そして、スッと部屋を出て、リビングに向かった。

 その背中は、さっきとはまるで違って、一回り広く大きく見えた。




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 リハビリをしている母は、とても楽しそうだった。



 ……さっきの騒動は何だったんだ?

 まったく、馬鹿馬鹿しくなる。現金な母だ。


 でも、いいよ。リハビリに来てくれたのなら、もう何だって過去のこと。どうせ母もすぐ忘れるし。気にかけるだけ時間と心の無駄遣いだ。


 リハビリセンターに着いてから、しばらくボーっとしてた母。

 担当のトレーナーさんの案内で色んな機器で遊ばせてもらっていた。はじめは慣れない環境で、ちょっとおっかなびっくりだった。

 だけど、持ち前の好奇心の強さはまだ健在だったようだ。

 すぐに慣れ、だんだん力強く、ニコニコしながら遊び……いや、トレーニングしていった。



 それにしても、とんだとばっちりだ。



 結局あのあと、ノリは母を説得した。そして10 分と経たず「行くよ」って。ノリも母も満面の笑みで。


 まったく「……は?」だよ。あの状況からどうやって?何者なんだノリは? ハートを射抜くマジシャンか。いやそれはなんか方向違う。私はノリに射抜かれた自信あるけど。エッヘン。


 家を出て、送迎の車に乗る前に、ノリに聞いた。

 ノリが使った手。それは彼の温かさや包容力に依るところも大きいけれど、結局はこれだ。



「手を握りながらこう言ったんだ。『お義母かあさん、大丈夫。僕も琴音ことねさんも、今日のリハビリ最後まで一緒にいるから。約束する。不安なんでしょう? 初めてのところで。安心して。二人がついてる。終わったらさ、一緒においしいものでも食べようよ』ってね」



 おい。勝手に私も付き合わすなよ。

 思わず足が出かけた。ノリを蹴り上げる寸前まで行った。


 だって。


 リハビリの間、好物の上総屋かずさやさんのポテトフライ、みんながいない時間にこっそり買って、一人占めと思ってたのに。あーもう。今日はお預けかぁ……。


 なんて、食べ物の恨み100万年の思いに駆られていたら、ノリが心のど真ん中を突いてきた。



「あそこまで覚悟を決めた琴だったら、「最後まで付き合う」程度の約束で義母かあさんを引っ張り出せるなら、絶対そうするだろ? そして難なく最後まで付き合うだろうと思ったんだ。義母さんも、それならって、イヤイヤながらでも行くだろう。なんだかんだで義母かあさん、ことが大好きだからさ」



 大好きだからさ、っておい。

 逃げ道塞ぎやがったこいつ。ズルい。



 でもね。そうだ。そうなんだ。私は覚悟を決めた。そうノリに言った。

 なら、ノリのこの判断は間違っていない。今日この場に私しかいなければ、間違いなく同じことを言っただろう。



「もう一つ。気付いたか? 着替え」

「え?」



何のことかさっぱりわからず、聞き返す私。



「あのあと戻ってから気付いたんだけど……。義母かあさん、運動用の着替えを座卓の横に用意してた。丁寧に畳んでさ。ハナから行く気満々だったんだよ。でも、いざ時間が近づいて、ふっと今日の予定も記憶から飛んで、どこか不安になったんじゃないかな。俺たちだってよくあるだろ? 楽しみにしてた予定なのに、朝着替えてると面倒になることってさ。それが、認知症で理性のタガが外れてるから、大きな反応になっただけじゃないのかなって、そう思った」



 全く気付かなかった。

 言われてみれば、私だって、いざ外に出る段になって面倒になるなんてしょっちゅうだ。



「ただ、反応が大きいだけ、か。そうね。感情ばっかり先立って、見落としてたわ。うん。不安を解消するために、はじめのうちは一緒に行こう……確かにそうね。その解決策が一番かも知れないわ」

「そう。もちろん、しばらくの間は色んなことを開始することになるだろうから、俺らもきつい時期は続くと思う。けど、義母さんを軌道に乗せる、俺らも落ち着ける状況を作る、これを一番早く形にしたいなら、これが一番の近道だと思う」



 確かに、何かを始める度に私たちが付き合わなければならない。それは大変だ。

 大変だけど、ノリが言うように、軌道に乗せるにはそれが一番近道なのだろう。 

 母は、意地張ってるのも確かだけど、色んなことを拒否する根本的な原因が「不安」なのだとしたら、その不安の根本を一つづつ解決すればいい。


「ノリ、ありがとう」


 思わず口をついてお礼の言葉が出た。ほんとうに、無意識だった。


 親子、特に母娘だと、感情ばかりが先だって大事なことを見逃す。そこを、ノリが補完してくれた。


 ありがとう。やっぱり、私にはノリしかいない。こんなに私や母のことを見て、きちんと分かって行動して解決してくれる。


 感謝しかないよ、ノリ。




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 そしていま私たちは、座ってるのもなんだからと、試しに母と同じプログラムを体験させてもらっている。

 うん、これはこれで悪くないかな。


 でもさ。

 ノリは余裕。私は……


 うっわ背筋超弱い。あ、足も弱い。え、ちょっとこれ意外にきつくない?


 舐めてた。お年寄り用の強度だって舐めてかかっていた。

 けどさ、特に天井から吊るされたロープを使ったストレッチ、これがバランスを取るのが難しい。ノリは余裕だったけど。



こともさ、毎週 2 回義母かあさんといっしょにやる?」


 ノリが笑って言う。なんだその意地の悪い笑みは。


 なんだかちょっとムカッ腹が立って、ノリのふくらはぎを蹴る。

 大げさに痛がるノリ。それを見ておかしそうに微笑む母。


 あ、いま、なんかいいなって思った。そうね。こんな機会を、少しでも多く持てますように。いつも一緒にいられるわけじゃないけど……

 


 そして、



 今日これが終わったら、上総屋さんのポテトフライ買いに行く!絶対ゼッタイぜっーーーーーたい!邪魔が入りませんように…。



 そう決意を固めながら、悲鳴を上げ軋む体を、しばらく痛めつけた。





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※ 次話は閑話として、介護に関する豆知識を挟む予定でしたが、そちらは別にエッセイとして立ち上げ、こちらはそのままストーリーを継続いたします。

※上記エッセイは来週中頃立ち上げ予定です。

※ 次話は来週中~末頃にUPします。詳細はツイッターにて告知します!

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