002 久々のでっかい一撃! 頭抱えてポッカーン…
※ 第1話の続きです。補聴器をお試しで借りた後、当日家に帰ってからのお話です
頭のてっぺんから脳ミソ吹っ飛んだ。
いやもう、頭から花火ドッカン打ち上がったよまったく。そのレベルで吹っ飛んだ。
いまそれ!? そう来るか? おい、は、母上!?!?
と思わずムンクの「叫び」みたいに、頭抱えて口開けてポッカーンとしてしまう母の一言。久々のでっかい一撃が炸裂してしまった。
「お母さん、補聴器どう?」
家に帰って一休みしたあと、母に電話をした。
借りた補聴器は IPX7 の防水。つまり1m の水深に30 分浸しても浸水しないレベルの防水で、お風呂くらいなら大丈夫だった。ただ熱の問題もあり、店員さんからは「お風呂に入る時は外しましょう」と言われていた。
認知症の母がそんな細かい話を記憶して、キッチリ実行するとは思えない。
認知症とはそういうもの。
短期記憶はまるでアテにならない。
だから、ちょうど良いタイミングで私たちが伝えないといけない。
お風呂の頃合いを見計らって、ちゃんと外すよう伝えるために電話をした。
そこまでは順調だった。だけど……。
「はぁ……? 補聴器ぃ……?」
「うん、今日お試しで借りに行ったんだよ、補聴器。いま、ちゃんと聞こえる?」
うん。そうだよね。
補聴器のことを忘れていることまでは予想済み。まぁ、誘導すれば思い出すだろう……。
あれ? でもなんで、母はいつもの大きな声で話してるんだろう? 補聴器を着けると自分の声がうるさいって言って、小さな声で喋ってたよね? パッドがずれて聞こえにくくなってるかな?
なーんて、のんびり考えていた。
しかし。
少し間を置き、唸り声がした後。
脳ミソが遥か遥か天高く、大気圏外に飛んで行く母の答えが……。
「補聴器なんか借りてませんッ!」
……えっ?
……ええっ!? えええっ!?
そ、そこっ?? ねぇそこ!? そう来たかおいっ!?
しっかもだよ。
言い切った。キッパリすっぱり言い切った!
超自信満々。超絶凛々しい。
スマホから「キリッ!」って文字が飛び出したよいま! なんだその自信は? ひえぇぇ……。
「今日あんたと
どこか怒ったような、電話口の母の声。
もう顔面ハニワ。
半開きの口が閉じられない。いま、とても人に見せられない顔していると思う。表情筋のいろんなところがヒクヒクする。
マンガによくあるヒクヒクってこれか。なんて、余計な事ばかり頭に浮かぶ。ああ、そしてこれがリアル現実逃避ってやつね……。いやだから戻って来い私。
マジか……。
そっから記憶が
もうムリ!! ムリムリムリムリ!! と心が叫んでる。いやいやムリじゃない、何とか今この瞬間を切り抜けないと、って理性が必死になっている。頑張れ私の理性くん。
今日の午前中から昼にかけて、私と兄嫁の
母はワックワク。私たちもワックワクで母の家まで戻ってきた。
母は海なし県で育った。
家の裏から10 分 も歩くと、もう海抜 1400m クラスの山々という環境だ。
母の実家は盆地の端だけれど、そこですら海抜 700m ちょっとある。
母が子供の頃は、生の海の幸なんてめずらしく、年に 一、二 回の旅行時の御馳走だっという。
そんな幼少時代を過ごしているからか、お寿司やお刺身に異常な執着を持っていた。
特にお寿司と言えばもうそれだけで、隠しても隠し切れないウキウキオーラが出まくっていた。
だから、こんな時はいつもお寿司。イクラとトロは絶対。ブリも大好き。贅沢な舌だなおい、なんてよく思ったものだ。
お寿司を頬張っていると、補聴器をしていることに気付かないくらい快適なようで、
「あれぇ、なんだか自分の声がうるさいわ。今日はどうしちゃったのかしら」
なんて言ってる。もうそれだけで嬉しい。
「
すぐ補聴器を着けてること自体忘れてしまうけれど、何か違うことは認識しているのだ。
うん。そうなると思ってた。でも着けてることを認識しないほど快適なんだろう。これを選んで正解だった。
そんな会話を楽しんで、私と義姉は、母の機嫌がいいうちに退散しましょうと示し合わせ、それぞれの家に帰った。
母は多分このあと寝るだろう。だいぶ疲れて半分目が閉じかけてたから。
夜に起きて、耳に何か入っていて、これなに?となるかも知れない。
もしかしたら、着けてることを忘れてお風呂に入ってしまうかも。それはそれでまずい。
そんな様々な可能性を考え、夜に私から電話をしてみら……。
まさかの「借りてませんっ!」と来たもんだ……。
「だから! 何言ってるか分からないのよ! 補聴器ぃ? そんな、買っても借りてもないもの、探したって無いわよ! 何度も言ってるでしょう!? もう、あんたたちなんなの!?」
ああぁぁぁ……
駄目だ。夫が捜索の誘導してくれたけど、もうイライラしている。こうなると話しにならない。
母との電話の時は、スマホはスピーカーにして、夫と二人で話す。その夫が、魂抜けて白目を剥いている私を尻目に、細かく細かくひとつずつ話して探してもらった。だけど当然見つからなかった。
「あー、うん。わかった。
そう。私の名は琴音。
古風なんだかキラキラなんだか、中途半端で昔は嫌だった。けれど染谷の姓に変わってから、途端に字面も響きも綺麗になった気がして、一気に好きになった。
こっちの方が和風キラキラ度増してる気はするけど。
それに、母の想いもこの名に詰まってる。そう思えるようになった二十代半ば、やっと世界一好きな名になった。
って、そんなことより…。
夫も切り上げ時と諦めて、そんな風に話をまとめ、捜索は一旦終了。
ていうか、やっぱり行くのかよ。
「あら、そう? 来てくれるの? まぁわざわざありがとう!」
電話を切ったら、明後日訪問の約束なんて忘れるだろう。それもいつものこと。構わず伝えたとおりに行けばいい。と言うか、行かなきゃならんぞこれは。
「困ったな。テーブルの上にも置いてない様子だったな」
電話を切った後、夫が頭を抱えて言う。
「そうね……。テーブルはもちろんだけど、洗面所、お風呂場、台所、トイレ、玄関。ここに無ければ私もお手上げだよ。でも、あれから外出してない筈だから……ならどこへ?」
「着けたまま忘れてるとか。耳触っても違和感無さ過ぎて、補聴器してることに気付かないとか?」
「それなら、電話で声が聞こえにくいってこと、起こらないでしょう? でも私の声が聞こえにくそうにしてた。声も前みたいにはじめから怒鳴るようだった」
「バッテリー切れ?」
「それは有り得るかも知れないわね。でもそれも、満充電で引取ったから22 時間は持つ筈なんだよ。まだ12 時間も経ってない」
「そうか。だとしたら着けてない説が濃厚か。見えないところに置いた。それだけなら良いけど……考えたくはないが最悪、ゴミ箱ってことも」
夫の言葉に、ゾッとした。
あれ、35 万円のモデル。
月額 1 万 4 千円のサブスク契約を済ませた後なら、失くしても補償費の2 万円の支払いで済む。しかも、それだけ支払えば交換器まで手に入る。
でも今は、本契約前のお試し期間。紛失すると、本体価格の二割払わなければならない。
てことは7 万円。決してホイッと出せる額じゃない。
しかも交換器も手に入らない。
「……ゾッとするけど、否定できないわ」
さっきまでのウキウキは、綺麗さっぱり吹き飛んだ。心にまた霧が生まれる。
こういうことは、今まで何度もある。だから、心の準備はいつもしている。でも、毎回毎回その予想を上回る。
びっくり箱系マジシャンか、あのク〇バ……いや母は。
そんなびっくり箱が炸裂する度、心がどんより霧掛かる。心の中に、全自動ドライアイス噴霧器がガッチリ設置されてる気分だ。こんなものいらない。誰だ取り付けたヤツ。私か。
でも夫、なんだか異様に冷静。
兄もそうだけど、こういう時の男性ってどこか余裕な気がする。そのメンタル、1mg でもいいから分けてほしい。
むしろ深く考えてないだけなのか。それとも私や義姉が深刻に捉え過ぎなのか……。
「とりあえず、ゴミ出しの日は来週月曜だから大丈夫。義母さん、一人なら外出もしないだろ? なら、補聴器が自分で歩いて出てかない限り大丈夫だから。落ち着け、
言われてみればそうだけど……。
というか凄いな。いつそのスケジュール確認したの?
私でさえゴミ収集の日なんて、私があの家に住んでいた時と変わってること、全然気付かなかったのに。変なところで頼りになる。落ち着かせてくれる情報を隠し持ってる。出すポイントもいつも完璧。嬉しくてなんかムカつく。ムカつくのはいま私のメンタルのせいなんだけど。
補聴器は自分で歩かなくても、母が癇癪起こして外にポイと投げる、とかはあるかもしれない。
二週間で慣れなければいけないし、万が一ということもある。うーん、やっぱり急がないとダメか。
「それはそうだけど……、でも、慣れる期間は精一杯長くとりたいし、万が一ってこともあるから。明日はもう時間的に介護休暇は取れないから、明後日必ず行くわ。それと、ヘルパーさんにも朝連絡しないと」
「介護休暇、大丈夫か?何なら土曜でもいいと思うけど」
「ううん。介護休暇は前日申請でも取れるから、うちの会社。緊急って伝えれば大丈夫。いまは急を要する仕事もないし」
私の勤める会社は、有給以外に介護休暇制度がある。介護休暇は、身内が要介護認定を受けていることを証明出来ていれば、急な申請でも通るようになっている。
いま、この福利厚生には本当に助けられている。
とは言え、夜じゃなくて、夕方電話すればよかった。そうすれば、ヘルパーさんにも相談の連絡ができたし、様々な手配が明日には間に合った。
一日遅れが命取りになることもある介護。今回は完全にミスだ。
安心し切って気持ちが緩んだ。こんなこと毎度のことで、学習している筈なのに。何やってるの私!
もう何も考えたくない。
布団に潜り込んで、スマホのカレンダーに『介護休暇申請、ヘルパーさんへ補聴器の連絡』とだけ入れ、一旦寝ることにした。
********************************
朝になると、兄家との介護情報共有用に作ったグループチャットに、メッセージがある。
「昨夜そちらに電話ありましたね? こちらにも電話きました。補聴器のことすっかり忘れている様子。機器も充電器も認識してない様子。今日私は動けます。お義母さんの家に確認しに行った方がいいですよね?」
うわー。そっちにも行ったか。
夫もメッセージを見たようで、私に言う。
「これさ、捨てられてる可能性も伝えた方がいいよね? 俺伝えようか」
「大丈夫。私が伝える。お義姉さんと話したいし。駅行く
身支度を整え、出勤。歩き出してから電話をする。
話してみると、やはり捨てられている可能性までは頭に無かったようだ。
私がそのことを伝えると、焦ったように「すぐ行きます!」と言ってくれ、本当に秒を待たずに電話が切れた。
ありがたい。みんなホントに、心から母のこと考えてくれている。しかも、私が動こうとしていたこともお見通しで、そのうえで助け船を出してくれる。
ふと思う。
夫にしろ義姉にしろ、自分の親でもないのに、なんでこんなに親身になってくれるのだろう?
それはさ、お金は掛かってるよ。35万円の2割。7万円。これはデカい。
でも、他にも体の調子を心配してくれたり、やろうと思ってたこと分担してくれたり。お金以外の部分でも手を差し伸べてくれる。
二人は母と血の繋がりも無いし、こんな状況は迷惑でしかない筈だ。でも私や兄より親身になってくれる時が沢山ある。ありがたいし感謝しかないのだけれど、それにしたって家族って、いったい何なのだろう……。
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昼休み、義姉からメッセージが入っていた。
「ありました。テレビ横の鍵や貴重品など、大切なものが入ってる小物入れの中。充電器は引き出しにしまってありました。一応全部出して充電しておきます。ヘルパーさんも丁度いらしたので、
わお。さっすが
既に介護休暇は取った。が、これなら明日私が行く必要は…
「でも、充電の仕方はすぐ忘れると思うし、充電器の存在の意味が分かってないようです。使い方を書いたものを貼っておく必要があると思います」
……無い、なんてことにはならなかった。
なんてこった。一瞬、一日ゆっくり休める!寝れる!と思ったのに。
これ、私が作るべきだよね…。分かりやすく写真付きで、図解で。とすると、パソコンでソフト使っての製作になるだろう。
お義姉さんそんなソフト扱えないし。兄は技術者あるあるの、プログラムなら余裕で組むけど事務系ツールまるでダメな人だし。むしろ作成ツールを作っちゃう派ではあるけれど。
いやー、一晩で作るのか。今晩は寝れない!
ただ、こうも思った。
母は、大切なものを入れるケースの中に入れてたんだ。
つまり。
母はそれを、補聴器と認識していなくても、無意識に「大切なもの」として扱っていた。じゃなきゃ、あそこには仕舞わない。
認知症独特の強いこだわりと長年の習慣で、他の物は置き場がいつも変わるのに、あの小物入れだけはいつ行っても同じ場所にある。そして同じものが入っている。
異物があれば、母はすぐ排除するし、いつ行っても小物入れを気にしている。
なのに、新たに手に入れた「見慣れないもの」を、そこに入れていた。
最近手に入れたものは、かなり高い割合で異物と処理している母。なのに……。
すぐ忘れるけど、目に映ればたとえ何か分からなくても、心のどこかで「大切な物」と認識しているんだ。
どんなに瞬間の記憶が消えても、どんなにイライラしても、母自身の長く心に抱いていた願い、私たちの想い、過ごした楽しいひと時、その出来事一つ一つは消えても、抱いた想いは消えてないんだ。
多分……、
出来事は忘れるけど、ウキウキした想いは残っていて、その噛み合わない記憶と想いとの溝を埋めるために、全く違う記憶を作り出すのかな、と思った。
それならそれでいいじゃないか。幸せな時間自体を忘れるより、幸せな想いに合わせて記憶をすり替える方が、余程マシだ。
そう思うと、少し嬉しくなる。
みんな消える。
大切な母という人の記憶から、兄が消える。私が消える。その日は絶対にやってくる。
その恐怖に怯えた時もあったけど、いまはまだ、想いがある。
いいんだ。それだけでも。いいんだ。それは大事な大事な、母と私たちの宝物なんだ。
そう思ったら少し、元気が戻ってきた。
よし! そうと分かれば善は急げ。仕事終わって帰ったら、『母でも分かる壁張り補聴器マニュアル』作ろうか!
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