Cc.(ノベルバー2021)

伴美砂都

Cc.

〈11月4日(木)提出期限の標記の書類につきまして、未提出は杉田さんのみとなっています。早めに提出ください。よろしくお願いします。〉


 たった一日有休を取っただけで、火曜の朝の社内メールはうんざりするほど未読ばかりだ。まあ、有休消化を促してくれるだけ、このご時世まだましなのだろうけれど。

 総務の栂野つがのさんからのそのメールを開いたとき、一瞬間違いなのかと思った。タイトルにあった書類はもう出したはずだよなとよくよく見たら、げ、とギャグマンガみたいな声が出た。宛先は、同じ部署の杉田くん。「Cc」の欄には、部長課長係長はじめ、わたしたち下っ端まで部署の全員が入っている。


「あ、しーちゃん見た?隊長からのメール」


 後ろを通りかかった先輩の牧さんが足を止めて、小声で言う。

 隊長、というのは栂野さんのことだ。栂野、もえちゃん。とにかく曲がったことが許せないらしく、去年、入社三年目にして勤怠管理がどうとかで社長室に突然抗議に行ったときから、陰で隊長と呼ばれるようになった。特攻隊長、の意味らしい。戦争の狂気のなかで死にに行かざるをえなかったひとたちの呼び名をそこに冠するのにためらいをおぼえてしまうのは、わたしのなけなしの良心か、「いい子ぶりっ子」だろうか。あるいは、会社という集団がすでに狂気なのか、どっちか。


「言ってもさ、杉田くん火曜から金曜まで泊まり出張だったんだよ、あんまりじゃない?」

「あ、そうなんですか」

「そう、で隊長、課長に呼ばれて、大モメ」

「モメたんですか」

「そう、杉田くんが書類出さないから上司をCcに入れたんだ、本人に言っても返事がもらえないときは上司をCcに入れるといいってなにかの本に書いてあったんだ、自分が正しいのになんでだって、ずいぶん暴れてたらしいけど」

「……、杉田くんは?」

「ちょっと引いてたけど、べつに」

「そうですか」

「今日は直行なだけだし、……もう、だれも気にしてないんじゃない、彼女のこと」

「……、そう、ですか」


 萌ちゃんは一年目のとき、ここの部署に配属された。わたしが教育係だった。噛み合わなくて、持て余して、病みそうになって、結果、一年で異動になったのは彼女のほうだった。そのあとも部署を転々として、去年の半ばから、総務部に落ち着いたのだったか。そして、あの「隊長」事件だ。だから彼女の噂、というのはほとんど悪口だけど、そういう話を聞くたび、ほんの少し、少しだけ責任を感じないといったら、嘘になる。それこそいい子ぶりっ子みたいで、口には出さないけど。



 三階より上の階段の踊り場のところは窓が大きく取られていて、水族館のまあまあ大きな水槽ぐらいの距離感で空が見える。三時五分を少し回ったところで三階と四階の間のそこへ行くと、思ったとおりの後ろ姿があった。


「萌ちゃん」

「あ、静香さん」


 いろいろあって部署が変わってからもどうしてか、萌ちゃんはわたしのことを下の名前でずっと呼ぶ。それは、こっちも同じか。親しくなったとか、そういうわけじゃない。むしろ反対の気持ちが、ずっとあるはずなのに。彼女がわたしのことをどう思っているかは、当時も今もわからないままだけれど。

 会社では、三時から三時十五分が午後の休憩時間だ。でも、それはそれぞれの業務の都合で、忙しければ取れない日もあるし、前にずらしたり後ろにずらしたりしても大丈夫なことになっている。なっている、というのは規則に書いてあるわけじゃなくて、暗黙の了解のうちに、そうしても大丈夫、そうしたほうがいい日もある、ということで。でも、なのか、だから、なのか、萌ちゃんは何があっても必ず、三時ちょうどから三時十五分まで休憩を取る。そのことも、この場所に来るのが好きだということも、知っていた。


「……」

「……」


 手すりに軽く寄りかかる格好で隣に並んで、少しの間、黙っていた。なにか言ったほうがいいのか、わたしがなにを言っても、彼女には伝わらないような気がした。でも、伝えるほどのなにかを、わたしは本当はもっていないだけなんじゃないかとも、思う。彼女の「正しさ」に立ち向かえるだけのなにかを、もっていなかっただけなんじゃないかと、いまでも思う。

 わたしのことを「いい子ぶりっ子」と言ったのは小学校のころのクラスメイトだ。もう名前は忘れてしまった。少しだけ萌ちゃんに似ていたかもしれない。思ったことをなんでも言うので、皆に嫌われていた。嫌われている子の言うことだから、そんなに気にしなかった。だから、たしかにわたしは「いい子ぶりっ子」で、そして、二十年近く経ってもおぼえているということは、そう言われたことを、本当はずっと、気にしているのだろうと思う。


「あの雲、CCですよね」

「え」


 萌ちゃんが突然、ガラス越しの空を指さした。晴れた秋の空には、向こうのほうまで薄いうろこ雲がきれいに広がっている。


「うろこ雲のことCCっていうんですよ」

「え……そうなの」

「シーロキュムラスです、C、I、R、R、O、C、U、M、U、L、ゆーえすで」

「……、」


 そういえば、萌ちゃんはこういう雑学みたいなことをすごくよく知っているんだった。仕事を教えている途中にもなにかがきっかけで思いつくと突然言い出す感じだったから、ずいぶん戸惑ったし、ずいぶん、冷たくあしらってきたように思うのだけれど。休憩時間なら大丈夫だと、そういえばわたしは彼女に言ってあげたのだろうか。


「私、うろこ雲、きらいなんですよね」

「え」

「白か青かどっちかにしてほしいって思うんです」

「……、」


 彼女のしている腕時計が、ピピッと鳴った。三時十五分。休憩時間の終わりに、アラームをかけているのだ。もう一度、空を見る。うすい白の向こうにまだらに見える青は、今はまだ澄んでいるように見えるけれど、うろこ雲が出たあとは、そういえば天気が崩れやすいのだっただろうか。

 去って行く背中に、萌ちゃん、と呼んだ声は、たぶん届かなかった。振り返ったとして、伝える言葉ももたなかった。でも、呼んでしまった。しかし彼女は振り向くことなく、三階の総務部の部屋へ足早に階段を降りて行く背中を、わたしはただ見送った。


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