第5話
朝食に鐘はなく各自一階へ降りて来て食事を摂る形式になっている。横長のテーブルには切り分けられたパンや数種類の手作りジャムに柔らかに保温されたスープが並べられている。部屋には焼きたてのパンとスープに匂いが立ち込めている。
夜明けからの手伝いを終えたフレアの前には頭と内臓が外されたウサギの肉が置かれていた。通常はこれからスパイスやソースを付けて焼くなりシチューに入れて煮込むなりするのだろう。しかし、今朝はフレアのために生で出されている。
「これは……」
「さっきフレアさんが森から取って来てくださったものです。どうぞお召し上がりください」給仕に付いていたメイドのマーブルが笑顔で告げる。
「ありがとうございます」
フレアはよく太った後ろ足を引きちぎりかぶりついた。さすがこれには少しひいた様子だった。
「あぁ、すごくおいしいですよ」
「ありがとうございます」
少し気まず空気が流れる中で救世主が現れた。ポンタスが慌ただしく食堂に現れた。開け放たれた扉の外から中をそっと覗き、中の様子を確認をする。
「おはよう、マーブル。おはよう、フレア」
ポンタスは二人にどこかぎこちない声を掛けてから、テーブルを回りフレアの対面の席にすわった。
「ポンタス様は今朝はお早いんですね。旦那様でさえまだ……」マーブルはフレアに目をやった。「そういうことですか」 軽く頷く。
「ち、違うよ」図星らしく顔を赤く染める。「いつもより早く目が覚めただけだよ。マーブル、スープおくれ」
「はい、お待ちを」
ポンタスは重ねられた皿の一枚を取り、まだ温かいパンを二枚乗せた。パンを手で半分に割き口に入れる。目の前に置かれたカップからスープをすすり飲み込もうとするがむせて吐き出しそうになる。顔を真っ赤にして堪えるポンタスをフレアはウサギの肋骨をくわえたまま見守った。マーブルが慌ててポンタスの傍に駆け寄る。
何とか危機を乗り切ったポンタスにマーブルが水を渡す。
「ありがとう、もう大丈夫だよ」
目に涙をため息を整える。
「フレア、この後よければ屋敷の敷地の中を案内するよ。ついて来るかい?」
「いいですけど、何があるんですか?」
「菜園と少し離れたところに兄さんの工房があるよ。ヨーハンの小屋にも寄ろう」
「庭番の方」
「そう、変わった物を色々持ってるよ」
「面白そうですね」
「食べたらすぐ着替えて来るから部屋で待ってて」
ポンタスは大急ぎで食事を済ませ食堂から出て行った。
「お客様なのにすみません」とマーブル。
「いいんですよ。こんなに普通の女の子扱いされるなんて何十年もなかったことですから」
フレアが食事を済ませ自室で待っているとほどなくポンタスがやって来た。服装は着慣れず少し窮屈そうにが見える。仕立ての良い乗馬服といった雰囲気で一張羅なのかもしれない。茶色い髪に油のつやが加わり後ろへ撫でつけられている。
「おまたせ」
軽く扉を叩く音の後にポンタスが顔を出した。
フレアは椅子から立ち上がり廊下へと出た。階段を降り左へ食堂の向こうにある部屋の前でポンタスが軽く解説を加える。フレアの予想通り暖炉やストーブで使う薪や木炭の備蓄部屋らしい。
「ここは兄さんが猟銃や狩りの道具が収めている部屋だよ。鍵は兄さんとヨーハンしか持ってないから中は見られないけどね」
ポンタスが端の部屋に掛けられた南京錠を指差す。
「ここからも出られて便利なんだけど」ポンタスは突き当りの扉を指差した。「出たら必ず閉めなきゃだめって言われてる。つまり、鍵を持ってないと出られないんだ」
「誰か入ってきたことでもあるんですか」とフレア。
「他の家でね。鍵の掛ってない扉から侵入した泥棒に荒らされたことがあるんだ。泥棒はすぐに捕まったけど、それからはうちでもだめってことになったんだ」
対面の部屋の扉を指差す。
「ここはショーンの部屋、彼も割を食って部屋を移動してきた。ここに誰かいればわかるだろうって、とんだとばっちりだよね」
フレアは昨夜の行動を思い出した。締め出されることはなかっただろうが見つかれば面倒なことになっていただろう。
ポンタスは踵を返し玄関口へと向かった。前庭はすっかり明るく暖かくなっていた。屋敷の左手へと回り込む。
「この先がヨーハンの小屋だよ」ポンタスは森への小道を入っていった。
森の木々は簡単な目隠しになっているだけでほどなく小屋に到着した。フレアもよく目にした類の森の狩猟小屋だ。頑丈な丸太で大胆に組み上げてある。少しぐらい放置したところで痛むことはない。彼女も何度か利用したことはあるが、この小屋は大きな部類に入るだろう。
ポンタスは戸口の屋根からぶら下がっている鐘を鳴らした。
「開いてるよ。入ってくれ」しわがれた男の声が聞こえた。
ポンタスが丸太作り重厚な扉を開け二人で一緒に屋内へ入ると、そこはフレアの予想していたものに満ち溢れていた。薪ストーブと煤けたかまど、重厚で無骨な家具に獣と火薬と鉄の匂い、暖かな部屋の湯沸かしの傍には大柄の男が立っていた。
「おはようございます。ポンタスさん。……そちらはあぁ、例のお客さんですね」
「そう、フレアだよヨーハン。今屋敷の中を案内してるんだ」
「なるほど」
ヨーハンは白い髪に白い髭で熊が人に化けたような体格の男だ。
「そいつに興味があるようだね、お嬢さん」ヨーハンはフレアの視線の先にある物に気が付いた。
それは壁に貼り付けられた信じられないほどに巨大な猪の毛皮だった。頭を外しているにもかかわらずその体長は天井から床に及んでいる。
「そいつにはフォグジラって名前が付いていた大猪だよ。ただでさえ狭い農地を荒らしまわって悪さがすぎるもんで村の衆で協力し合って仕留めたんだ」
ヨーハンは簡単にいうが並大抵ことではない。フレアもそれらの危険な獣との戦いは長い間避けていた。手を出したのは十分な力が付いたと感じた百年ほど経ってからのことだ。ただ人数を集めて襲えばよいという話ではない。各個人が十分な力を持ち適切に動かなければ犠牲者が出るだけだ。
「いい加減で湯も沸いてるお茶でも飲んでいくかね」
ポンタスは少し退屈そうにしていたが、フレアはヨーハンの狩りの話に聞き入っていた。ヨーハンの生活こそフレアが望んでいた生活だった。このような場所でなら人を狩らず人と関わり生きていける。フレアの場合は自らの容姿がそれを許さなかった。
「フレアも狩りに詳しいんだね」
ヨーハンとフレアが話している間ポンタスは黙っていた。
「わたしは帝都の来るまでは狩りをして暮らしていたから……ヨーハンさん、彼と同じように肉は自分で食べて残りは革細工にして売ってお金にしてた」
「また、戻りたい?」
屋敷の前まで戻り、丘に貼りついた階段を上る。港で船に横付けされる昇降階段と似ている。木製だがしっかりと崖に固定されていて揺れることはなく不安はない。
「今のところはこの生活が気に入ってるわ。他に移るとまた人に化けないといけないし」
丘の上に上り、振り向くと屋敷の全景が見えた。ここからだと両翼に広がる屋敷が左右に対象ではないことが見て取れる。左隣の使用人棟も僅かに奥にずれて並んでいることにも気が付いた。
「帝都は変な街だけど気楽でいいわ」
「それはよく聞くね。僕はわからないな。向こうじゃ寮で暮らしてるし、規則が多くて息苦しいよ」
森は丘のすぐ左手まで迫っている。丘の上から土地はなだらかな下りとなっている。その先は開けた農地となっている。小さな小屋があり何種類かの作物が植えられているのが見て取れる。きれいな長方形の農地はここにやって来た者たちが少しずつ土地を開いていった証拠なのだろう。
「不思議に思ってたけど、階段を作ったのはここまで来るのに丘の周囲を抜けるより、丘を登るために櫓を立てた方が楽だからね」フレアは後ろに目をやった。
「うん、森の中に入ると少しのことで方向を見失うことがあるからね。あれも前に住んでた人が作ったのを今はうちが維持してる。最初はうちも木こり小屋が始まりじゃなかったかって聞いてるよ」
「そんな人たちが入ってきたことが村の起こりね」
「たぶんね。入ってきた人が適当に空いた土地を見つけて狩りや木こり仕事の小屋を建てた。それが少しづつ増えていった。そんなところだと思うよ」
二人が小屋の傍まで行くと野良着姿の男が中から出てきた。白髪交じりの黒い短髪で背の高い男でよく陽に焼けた顔にしわがよく目立つ。
「ポンタスさん、何の御用で」
男の方が先にこちらに声を掛けてきた。
「やぁグレン、特に用はないんだ。このフレアに敷地内を案内してるところさ」
「なるほど、誰を連れているかと思えば……それなら二年早く来て欲しかったですね。丹精込めた花畑が見せられたのに」グレンは残念そうにフレアを眺めた。「今じゃ食い物ばかり」
突然、二人に背を向けグレンは胸の前で両手を組んだ。右手の人差し指と中指を前に突き出し銃のように構える。そして、菜園の中で両手に鐘を下げて立つ案山子に向けて見えない弾丸を発砲した。指の銃身が反動で上がると、案山子が身をよじるように揺れ鐘がけたたましく鳴り、多数の鳥がののしるような鳴き声を上げ飛び去った。
「目障りな連中だ」
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