二
篤志は、眉間に軽くシワを寄せる。
稲葉玄という男と、彼が稔と呼ぶ風変わりな少年の視線を受けて、何を話していいか分からずにただ困惑した。
玄の言う通り、篤志は生まれてこの方鬼石島で生活してきた。それは自転車のカゴに載せている荷物からして簡単に推理できることだろうが、篤志が気になったのはその後の発言だった。
「あの、アンタら一体何者なんですか」
その問いに、少年はチラリと玄を見る。玄は、ぼくが答えるの? という顔をして、苦笑いを浮かべた。
「まー、そうだよね。変だよね。突然見ず知らずの人間に、人魚見た? って聞かれたらそりゃあ、気味悪いよね。そりゃそうだ」
あはは、とため息混じりの笑いを漏らしながらそう言うと、彼は何と答えようか考えているのか目を泳がせていた。もしかして、こういう問いを返されることを想定していなかったのだろうか。
「ごめんねー、今のは忘れて」
「忘れられるか!」
思わずツッコミを入れてしまった。
日が傾くにつれて風が強くなってきて、寒い。
こんなところで無駄話をしている暇があれば、さっさと帰って暖かい部屋で
「とにかく、よくわからないけどオレは人魚なんて見たことがないし聞いたこともないので!」
言って、篤志は自転車に
さっきまでも強いと思っていた風が、さらに強度を増して襲いかかってきた。
ブワッと立ってられないほど吹いたそれに煽られ、篤志はバランスを崩し、自転車ごと倒れてしまった。ガシャ、と自転車は右半身を上にして倒れ、タイヤが空回りする。
強風がおさまるまで、篤志は顔を上げられない。こんなにも強い潮風は今まで体験したことがない。
ジリッと手のひらに痛みを感じる。粗いアスファルトで擦りむいたらしい。
ようやく風が落ち着きを見せたところで、篤志は顔を上げた。するとそこには、今まで正面にいたはずの玄が覆い被さっていた。まるで、何かから篤志を守るように。
「大丈夫!?」
玄の声に、篤志は戸惑いながら頷く。たかが風に吹かれてバランスを崩して転んだだけなのに、やけに大袈裟に聞いてくる玄に篤志は首を捻った。
「ものすごく悪いタイミングだ……」
彼の一言に、さらに篤志は首を捻る。
「なにが、悪いタイミン――」
問い返したところで玄は篤志の頭をガッと押さえつける。突然のことで、うおっ!? と声を出してしまう。
「なにすんっ……!」
「いいかい、花本くん。顔を上げてはダメだ。今顔を上げたら、将来的にとてつもなく後悔することになる」
「は?」
言っている意味が分からない。顔を上げたら後悔する? しかも将来的に? そんなことを言われたら、無性に顔を上げたくなるではないか。
だが、玄の力は思ったよりも強くて、頭を押さえつけられている手を振りほどくことができない。
「申し訳ないけど、自転車はこのまま乗り捨ててくれないかな……。無事なら責任持って君の元へと送り届ける。だから、今は顔を上げず、まっすぐ家に帰りなさい」
先ほどまでの明るい口調は消え、玄は真剣な声音で静かに言うと篤志の家の方角に向かって指をさした。
顔を上げるなの次は自転車を捨てていけだなんて、当然納得できるわけもなく、篤志は睨むことで説明を求めた。が、次の瞬間、妙な生臭さが鼻を突いた。
生魚を常温で一週間放置したような、猛烈な生臭さに篤志は思わず怯み、咄嗟に臭いの原因を探ろうと顔を上げてしまった。
「花本くん!」
玄の制止はもはや聞こえていない。擦りむいていない方の手で口と鼻を押さえながら面を上げた時、それはいた。
目と鼻の間のように距離が近いことを目と鼻の先と言うが、それは正真正銘、目と鼻の先にいた。
深緑色の肌。長い髪は海藻のように湿りうねり、肌の所々に鱗のような鈍い輝きがある。そして、至近距離が故に感じる生臭さに篤志は悲鳴よりも先に吐き気を催し、嘔吐した。
今視界に入ったものへの、篤志の理解が追いつかない。
あまりの一瞬のことだったのに、まるでスローモーションで再生されたかのように目の前の光景が脳裏に焼き付いている。
(な、なんだったんだ、今のは……)
昼に食べたものを全部吐き出し、吐き気が落ち着いたところで恐る恐る目線を上げてみる。今になってようやく玄の「後悔する」という一言の意味が分かった。
しかし、顔を上げきるとそこには何もいない。
「――――あれ?」
声を出して、周囲を見渡したがやはり何もいない。
心臓がバクバクと打ち付け、呼吸が荒くなる。さらに、脂汗が風によって冷えて、とても寒い。
篤志は辺りを見渡そうと、少しづつ視野を広げていく。風が吹きつける海、カラカラと空回りし続ける自転車。先ほどまで傍にいた稲葉玄という男……あれ? 彼の姿が、見当たらない。
それに、彼と一緒にいたはずの少年もまた、姿が見えない。
篤志は二人を探そうと振り向いたその時、どこからともなく液体が全身に飛んできた。
バシャッ、粘り気のある液体は少なくとも水ではないことは確かだ。それ以外は何なのかも分からず、身体が湿っていく感覚とその衝撃をおぼえながら、篤志はその場で気を失ってしまった。
遠くの方で、花本くん! と、玄の声が聞こえた気がした。
◇
――――
一つは、鬼伝説。
いつの時代からか、この島には鬼が
ある時、どこからか人間が流れ着く。
砂浜で気を失っていた彼を見つけたのは、島で暮らす鬼の娘。
彼女は他の鬼に見つからないよう、人間の男を介抱し、次第に恋に落ちた。
そして、二人の間に子が産まれる。
鬼と人間、交わることのない両種の血を宿した子はひっそりと、けれど
しかしそれも長くは続かない。
ある時、三人が生活していた洞窟が他の鬼に見つかり、人間の父は呆気なく殺されてしまう。
女鬼の母は裏切り者として引き摺り出され、地下牢に幽閉されてしまった。
それに激怒した異端の子は、島の鬼たちに戦いを挑む。
異端の子には人間の父親と、鬼の母親から貰った不思議な力が備わっていた。それを駆使して片っ端から鬼を駆逐し、島の中央にある山の中にあった大きな岩の下に鬼の
戦いが終わり、幽閉されている母親を迎えに地下牢に向かった異端の子であったが、牢の中で彼女も殺されていた。
両親を殺され、島の鬼も葬り去った異端の子は悲しみに暮れ、彼らを供養するためにこの地に残り、次第に島の護り神となったという。
だが、その背後にはもう一つの伝説があるという。
鬼が棲み付くよりももっと前、この海域には人魚が棲息していた。
その血肉を食べれば不老不死になれるという人魚を求め、鬼たちは離れ小島であったこの地に辿り着いた。
人魚は無惨にも乱獲され、その血肉を
異端の子が島の鬼達を駆逐する際、一人の人魚が現れて耳元で囁いた。彼らは、水が苦手だと。
我ら人魚を貪った罪として、一生この島から出さぬために泳げぬ身体にしてやったと――。
人魚の入れ知恵を鵜呑みにしたかは分からない。しかし、異端の子は不老不死になった鬼たちを倒したことは、伝説上では事実である。
鬼石島には、鬼がいた。その痕跡は島の各地に点在している。たとえそれが後付けの代物であっても。
けれど、人魚がいたという形跡はどこにも無い。
確かな存在である鬼と、不確かな存在である人魚。
二つが交差する時、そこに在るものは何なのか……。
ただ一つ、分かっているのはこの島にはもう鬼と呼ばれるものはいない。
そして、人魚がいるとしたら――まだこの海域に存在しているのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます