オニマチ

 三月一日。花本篤志はなもと あつしは高校生活の終焉を迎えていた。

 緑色のシートが床全体に敷き詰められた体育館で、規則正しく並べられたパイプ椅子に座り、校長の式辞を聞いている。

 手には渡された卒業証書。

 胸には在校生が一つずつ手作りした赤色の花紙。

 周囲からは鼻をすする音が聞こえてきてくるが、篤志の目には涙一滴浮かぶことはない。


「教育委員会式辞」


 長い校長の話を終え、今度は面識すらない教育委員会の代表からの挨拶が行われる。

 司会進行の教師がそう言うと壇上にスーツ姿の男性が登っていく。


「卒業生、起立」


 言われた瞬間、篤志を含めた卒業生がザッと音を立てて立ち上がった。「礼」と指示されると頭を軽くさげ、「着席」の言葉でパイプ椅子を軋ませながら座る。

 一回きりのリハーサルをしただけなのに、卒業生の動きに乱れはない。まあ、リハーサルで起立のタイミングや礼の角度を散々練習させられたのだが……。

 校長の話といい教育委員会代表の話といい、篤志は一度も寝なかった。睡魔すら襲ってこない。

 小学校、中学校と卒業式は経験しているし式の流れも大体は同じなのだから大人の話が長くてつまらない内容というのは知っている。でも、過去に出席した式もそうだが、不思議と眠くならない。

 思ったよりも緊張しているのか、それとも今日が終わればからなのか、瞼はまったく重くならない。

 教育委員会代表の式辞が終わると、再び号令がかかる。

 篤志は立ち上がり、頭を下げ、着席すると、


「来賓祝辞」


 という司会の声を聞きながら、数日前に遭遇した出来事を思い返すことにした。




 ――卒業式から四日前。

 今年の二月は閏月だったので、二月二十六日のことだ。

 七月には大学の合格通知を受けていた篤志は、卒業式を目前に本土へ買い物に出かけていた。

 本土、というのはもちろん日本列島のことだ。

 花本篤志が生まれ育ったのは、鬼石島おにしじまという兵庫県神戸市に属する離島だ。

 小さな島ではあるが昔から鬼が暮らしていたという伝説から観光客がよく訪れる。

 もしかしたら島民よりも島の外から来る人間の方が多いのでは、と思うくらいだ。

 鬼石島の港に帰ってきたのは昼過ぎ。

 日は傾いてはいるが、まだ沈んでいない。

 しかし船に乗り込む人たちは多く、フェリー乗り場は混雑していた。

 篤志は人混みを縫ってターミナルから外に出ると、近くの駐輪場に留めてあったタウンバイクの鍵を差し込んだ。

 小さな前カゴに荷物を入れると、スタンドを上げて走り始める。

 島内は坂道は多いが、篤志の脚力で十分に漕げる斜度だ。

 観光客のために整えられた商店街を抜け、整備されていない住宅地に続く道に突入する。

 アスファルトは粗く、ガタガタとカゴの荷物が揺れる。タイヤからハンドルを握る手に伝わる振動も大きく、ものすごく走りにくい。

 島の中心にそびえる山を囲むように延びる緩やかな坂道を下ると海沿いに出る。

 潮風がブワッと顔面にあたり、髪が一気になびく。

 ブルゾンジャケットの下まで冷たい空気が入り込んできて体温が一瞬で奪われるが、太陽の光できらめく水面はとても綺麗で、絶景のオーシャンビューが広がる。

 海に浮かぶ島ならではの景色は鬼石島の魅力の一つで、観光地を一頻ひとしきり巡った後の若者が海の写真を撮る姿をよく目撃する。そこに広がるのはただの海であり、珍しいものなんてないのに。

 でも、篤志にとってこの景色だけは鬼石島の好きなところだった。

 坂を下りきると住宅地が広がる。

 島の住宅地というと狭い土地に瓦屋根の日本家屋がギュッ並んでいる光景を思い浮かべるだろうが、鬼石島の住宅地は違う。

 確かに、古い家屋はあるのだが、それよりも新しく建てられた洋風の家が多い。といっても、人が住んでいるかと言われたら否なのだが。


「なんだあれ?」


 気持ち良く自転車を漕いでいたところで、篤志はブレーキを掛けた。

 海岸沿いのガードレールの上で、誰かが佇んでいる。

 道の上ではない、不安定な錆びの目立つガードレールの上なのだ。普通はそんなところに上らないし、佇まない。

 篤志は自転車から降りると、不思議に思いながらそうっと近づいていく。

 黒い艶のある髪に色白の肌。

 大正時代の学生が身にまとうような黒いマントを風になびかせているが、身長は多分篤志よりは低い。

 海をまっすぐに見つめるその姿はとても浮世離れしていて、格好も相まってか御伽噺おとぎばなしの世界から飛び出してきたようで、思わず見とれてしまう。

 自転車のタイヤの音か、それとも篤志の気配に気づいたのか、相手はこちらに顔を向けた。瞬間、目が合う。

 目にかかるほど伸びた長い前髪の隙間から覗く、赤色の瞳。一瞬、カラーコンタクトかと思ったか人工的な色ではない。赤ワインを垂らしたような深く澄んだ赤がじっとこちらを見つめている。


「なに喧嘩売ってんですかッ」


 しかし、放たれた言葉はその場に流れる空気を簡単にぶち壊した。


「は?」

「なにを喧嘩売ってるんですかと聞いてるんですッ」


 シュタッとガードレールから下りると、ズカズカとガニ股でこちらに近づいてくる。その姿に先ほどまでの神秘さはない。


「喧嘩なんて売ってないけど……」

「売ってましたッ。喧嘩、売ってましたよッ。僕のことじーーーーーーっと見てッ、喧嘩しか売ってなかったですッ」


 自分のことを「僕」と言うあたり、赤い瞳の彼は男のようだ。見た目だけでは中性的すぎてどちらか判別がつかなかったが、口調といいガニ股といい、これは男で間違いない。

 大きな声で一方的に因縁をつけてくる少年に、篤志は困惑する。

 だがそれよりも気になるのは、少年の口調だ。

 驚くほど抑揚がない。機械的とまではいかないし大きな声も出しているのだが、発する言葉に感情を感じられない。の、だが妙に幼くて気持ちが悪い。


「一体全体僕に何の用だったっていうでしたかッ。僕に何か文句があるからガン飛ばしてたでしたよッ」


 あと、日本語の使い方がめちゃくちゃで、敬語なのに全然丁寧でなければ言葉遣いも汚い。


「別になんの用もないしガンも飛ばしてないし、喧嘩なんて一切売ってないから! そっちが自意識過剰なだけだろ!」

「はーーーーーっ。僕が、自意識過剰でしたかッ。そんなわけねェですよッ。僕は自意識過剰なんかじゃねえですッ。一体僕のどこが自意識過剰だって言うでしたかッ。証明するですッ。証明するですよッ」


 ――なんなんだ、コイツは。

 初対面の少年とこんなにも口論することなんて過去に一度も経験はないが、こんなにも初対面の相手に腹が立つこともない。

 マントの裾をバサバサとはためかせながら腕をブンブンと振り、頭一つ分離れた篤志の顔をにらみつけてくる少年の相手をするのがだんだん馬鹿馬鹿しくなってくる。

 多分、この少年は喋ったらダメなやつなんだろうな。そう思って自転車のサドルをまたごうとした時だ。


「誰が喋ったらダメな野郎でしたかッ」


 心の内で呟いたはずの言葉が、何故か少年の耳に届いていた。

 早口だが、けれど正確に篤志の内心の声が復唱されることに、えっ。と声を漏らしてしまう。


「誰が喋ったらダメな野郎でしたかと聞いてるですッ。僕の一体どこが喋ったらダメな野郎でしたかッ。説明するですッ」

「い、いや……。まったくもってその通りだけど……」

「その通りってどういう意味ですッ。どういう意味でしたかッ」


 少年は自転車の正面からがっついてくる。ハンドルを前から握られてしまい、篤志は発進するにもできなくなってしまった。

 ンガーッ、自転車を揺らしてくる彼をどうすることもできず、気が済むのを待とうとしたところで、


「おーい! 稔くーん!」


 と、遠くから呼び声が聞こえた。

 視線を上げると恰幅のいい男性が息を荒らげながら、こちらに向かって走ってくる。

 黒のダウンジャケットにチェック柄のマフラーをぐるぐる巻きにして篤志と少年の元に到達すると、ふぅー。と長く息を吐いた。


「もう、みのるくん……! 勝手に先々行かないでよ! 捜したじゃんかー!」

「はー、げんさん。こんな狭い島で迷子になるなんて、みっともねぇですよ」

「稔くんから離れたんだよ!」


 玄と呼ばれた男性は息を切らしながらも声を張ると、まったく。と両腰に手を当てた。そして篤志を見て首を傾げた。

「あれ、君は?」

「コイツ、僕に喧嘩売ってきたですよッ」

 少年の話を無視しながら、彼は篤志の顔をじっと見る。

 丸っこくふっくらとした頬が柔和な表情をより際立たせているが、その目は篤志のことを不審に感じている。


「オレはただ家に帰ろうとしてただけで……」

「うん、そのようだね」

「ここ一本道だし、そしたら急にこのチビに因縁つけられて……」

「誰がチビですかッ」


 篤志は正直に話す。少年が再び噛み付こうとするのを阻止しながら、


「ごめんね。この子はいつもこんな感じだから、気にしないで。ぼくは稲葉玄いなば げんって言うんだけど、君はこの辺に住んでいるのかな?」


 と、彼――玄はにこやかに問うてきた。


「はい。家はすぐそこなんですけど」

「ふむふむ、なるほどね。本土に買い物に行くくらいだし、生まれも育ちも鬼石島って感じだねぇ。いやー、邪魔しちゃってごめんね」


 玄は篤志の話を納得すると、笑って謝った。一番謝ってもらいたいのはそこにいるチビ助なんだが、と少年をチラリと見る。


「誰が謝るですかッ。僕は何にも悪くないんですよッ」

「はいはいはい、稔くん。君が一方的に因縁をつけたのは一目瞭然だから、すぐに謝ろうねー!」

「嫌ですッ。謝ったら負けですッ。謝ったら負けを認めることになるですッ。お前が謝れですッ」

「何で初めて会ったこの子が謝らなきゃいけないのかな? ほーら、ごめんなさいしなさい!」


 暴れる少年を押さえつけ、玄は篤志に向かって強引に少年の頭を下げようとする。その姿は、悪いことをしたのに絶対に認めない子供を叱る親のようだ。


「あー、もう良いんで。ソイツ、謝る気ないというか、多分無理に謝ってもらってもスッキリしないんで大丈夫です」

 篤志は苦笑いしながらそう言うと、自転車のペダルに足を乗せた。が、今度は玄が足止めをしてきた。


「それはそうと君、名前はなんて言うんだい?」 


 彼の問いに篤志は、


「花本篤志……です」


 と、困惑しながら答える。


「花本くんって言うんだね。君は昔からここに住んでいるみたいだけど、ここらの海岸で人魚って見たことないかなぁ?」


 突然の突拍子もない質問に思わず、はぁ? と声が出てしまった。人魚? なんだそれは。


「やー、変なこと聞いてるのは重々承知なんだけどさぁ、ぼくもこの子も島の人間になかなか話が聞けない立場でね。どうやら君は珍しくに染まってなさそうだなって思ったんだけど――ねえ、どうかな。人魚って見たことある?」


 あははは、と陽気に笑いながらもその目と言葉はとても真剣で、篤志のことを逃がさないように見据えている。

 気づけば、玄の腕の中で暴れていた少年は大人しくなっている。そして彼もまた篤志のことをじっと見つめている。赤い瞳が、玄よりもプレッシャーを放っている。

 篤志は首の後ろに手を当てると、本当に困りながら自転車から下りた。

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