第4話
ミアは、長袖の白いブラウスに、膝丈のデニムスカートで現われた。少し大人っぽく見える。美術館に行くときの服装だと言っていた。正直、美術館行きは、両親を説得するための口実で、僕は作品に詳しいわけではなかった。でも、エル・グレコやゴーギャン、モネの有名な作品はもちろん、僕一人ならきっと素通りする作品も、ミアが説明してくれると、たちまち魅力的な作品に変わった。
ホドラーの『木を伐る人』は、その構図と肉体的バランスもいいけど、一瞬世界から切り離されたような、迷いの一切ないこの表情がなによりも好き、という具合だ。でも僕には熱を込めて説明するミアが、作品以上に魅力的だった。将来は美大に行きたいと言っていた。どおりでスケッチが異常にうまかったはずだ。
レストランで食事をし、有名な町並みを一緒に歩いた。帰りの時間が迫ったとき、昼食をご馳走になったお礼だと言って、お土産を買ってくれた。「他にも美味しいものはあるけれど、やっぱり知名度ではこれ」といってくれたのはかわいい鬼の絵のきび団子だった。僕には、新幹線の中で食べて、とワッフルをくれた。新倉敷駅で僕たちは別れた。僕はここから上りの新幹線に乗り、ミアは在来線の福山行きに乗る。ホームで手を振って僕を見送るミアを見ると、急に寂しい気持ちになった。だから僕は、姫路駅に着くまで、ワッフル三個を全部食べてしまった。
ミアは僕の顔を見て、「片方が一重で片方が二重、気になってる? 私は素敵だと思う。人はもともとアンシンメトリーだから。少しとがったあごと小さめの口のバランスもいいよ。頭が良さそうに見える。それがいいことかどうか分からないけれど」と美術家らしい言葉で褒めてくれた。いや褒めてくれたのか?
高校を卒業するまで、僕たちはメールを交換し合った。電話も時々した。最初は、あの海岸の調査の進展具合だったけれど、だんだん他の話題が多くなっていった。
高校卒業後、僕は東京の私立大学に進んだ。中堅の大学で、校舎は多摩に移転したばかり。文学部日本文学科という昔ながらの学科だった。ミアは山梨にある公立の教育大学に進んだ。美大は学費が高すぎるので、教育大学の美術教育系にしたのだ。
急に距離が縮んだ。中央線を使えば簡単に行き来できる。僕たちは、頻繁に会うようになった。出会ったときは、少年のような面影だったミアが、大学生になると急速に大人の女性になっていった。
僕もボート部に入り、腕や肩に筋肉が付いた。「いやー逞しくなった。男性モデルをお願いしようかな」とミアに言われた。「ヌードモデルじゃないよね」と言うと「それもいいけど、発表会に出したら、これ誰?て言われちゃう」と言って吹き出した。
僕たちは急速に親密さを増していったが、手を握るくらいしかできなかった。それはミアとそして僕の中の記憶の問題があったからだ。
この記憶のつながりは、僕にミアとの出会いをもたらした。なぜこんなことが起きたのかは分からないけれど、どうしてもそこに運命的なものを感じてしまう。
同じことがミアにも言える。ミアは記憶の人とまだ出会っていないのだ。その人と、どんな関係になるのかは分からない。もし記憶の人を恋するようにできているのなら、おかしなことになる。すべて順繰りに他に恋する人がいるから、片思いにしかならない。なにより、その人が異性とは限らないのではないか。年齢だって隔たっていても不思議はない。僕とミアの例しか知らないのだ。極端なことを考えれば、ミアの記憶の人は、今おばあさんかもしれない。でも、そんなことが問題じゃない。ミアの記憶の人が、今おばあさんであろうとなんであろうと、その出会いが運命的な何かをもたらすことは確かなのだ。僕にも誰かが、『私はあなたの記憶を持っています』、と目の前に現われる可能性があるのだ。
それらの人物が、僕とミアに幸福をもたらすとはどうしても思えなかった。むしろ二人の関係を引き裂く方に運命が動く気がした。ミアも同じ気持ちだった。いや、ミアの方がずっとそれを恐れていた。
僕たちはこの秘密がゆえに出会い、肩を寄せ合う一方で、この秘密が故に、肩を寄せ合う事しかできなかった。
「いや、何があろうと、僕たちの間を引き裂くことはさせない」そういう覚悟はお互いにあっても、二人の出会いをもたらしたのも、その力だと思うと、意気込みがしぼんでいくのだ。抗うことのできない運命に、どう対処するのか。
僕たちは対処の方法を見つけられないまま卒業を迎えた。とっくに、ミアの記憶の場所探しはやらなくなっていた。いや、むしろ避けていたのだ。
僕は東京の運送会社に就職し、ミアは岡山の中学校の美術講師になった。教員採用試験を一都二県受験したが、競争率が高く、正規採用とはならなかった。そこで故郷に帰って、講師となった。そのころ岡山市内の一軒家を借りていた両親と再び一緒に暮らすことができるからだ。
また距離が遠くなった。
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