第2話


 夏休み初日の朝に自宅を出た。東京駅で乗った岡山行きのひかりは、十六時十九分に岡山駅に着く。山陽本線に乗り換え、箕岡駅には十七時五分到着だ。一泊四千五百円の駅裏のビジネスホテルを予約していた。その人に会うことができなかったときは、街を一通り歩いて回り、倉敷に向かう予定だった。両親には、大原美術館を訪ねたいと、もっともらしい理由をつけて岡山行きを納得させた。

 東京より西に行くのは初めてだ。僕は背もたれに寄りかかり、目を閉じて考えていた。

 もう誰も住んでいないときはどうする。誰かに引っ越し先を聞くべきだろうか。いや、それはだめだ。もう十年たっている。引っ越していった人が、僕の探している人とは限らない。次の入居者かもしれない。名前を知らないので確かめようがない。それに、十年たてば、かなりの人は入れ替わっているのではないか。

せっかく行くのに、なんだか考えが後ろ向きになっていく。

 目を覚ますと、列車は岡山駅到着直前だった。疲れが出ていつの間にか眠ってしまっていたらしい。残っていたペットボトルの水を飲み干し、ホームに出た。かなりの暑さだった。

 箕岡駅は小さな駅だった。駅前ロータリーに屋根のかかったバス停がある。マリーナ行きのバス時刻はもうすぐだった。そのバスが市営住宅前を通るのだ。冷房の効くバスの窓から丘の上の宮沢小学校が見えた。

 バス停で降りたのは、僕とおばさん、同じ制服の高校生の女の子二人だ。

仮想街歩きで何度も通った道を確認しながら進む。木崎商店と中華小島軒はやはりシャッターが下りたままだ。ファミレスがちゃんと営業しているのが不思議な気がした。

 蝉の声が聞こえてくると大きなケヤキの木が見えた。あそこが住宅入り口だ。ケヤキの木陰が涼しい。実際に見る建物はひどく傷んでいた。コンクリートはところどころはげ落ち、自転車置き場の屋根は大きく割れていた。そこに場違いなように新しい自転車が一台置かれていた。

 西階段の前に着いた。八世帯分の郵便受けが階段入り口にあったけれど、どれも部屋番号だけで名前はなかった。

 僕は自分の服装を確かめた。髪はツーブロックで短め、白いTシャツにアンクル丈の黒スキニーパンツ、濃紺のデイパックを背負っている。できるだけ清潔そうで、目立たない格好を選んだつもりだ。

 ドアが閉まる音がして、足音が聞こえた。小学校高学年くらいの男の子が、階段から飛び出してきた。僕の方をちらっと見ると、自転車置き場に走って行く。

 僕は、大きく息を吸うと、階段を上り始めた。思いの外暗く感じる。三階の踊り場に着いた。左右にドアが向かい合っている。ここにも表札はない。僕はブザーのボタンを押した。

「はい」と女性の声。ドアが開いた。僕の母親くらいの年齢の人だった。

「あの、宮沢小学校で同級だった、志摩しま由比人ゆいとと言います」

 僕は頭を下げた。

「あっ、ミアの?」

「そうです」

うまくいった。ミアというのか。女性なんだ。意外だった。

「ちょっとまってね」

 ドアが閉まった。第一関門突破だ。次に言うべき言葉は決めてあった。まもなくドアが開いた。

 ショートカットの小さな顔がのぞいた。大きな目は僕が誰か確かめているようだ。僕のクラスで一番かわいい子を男の子にしたような顔立ちだった。ショートパンツから白い足が伸びている。すぐに小さな口が開いた。

「誰?」

「あなたの小学生の時の記憶がある者です」

 もし、この人なら、絶対にこの言葉で分かってくれるはずだ。そうでなければ、すぐに不審者を見る目になるだろう。答えははっきりする。

「えっ」

 ひどく驚いた顔をしたように見えた。

「僕にはあなたの記憶があります。宮沢小学校の入学式の時の記憶です」

 もう一度言った。目の前の女性は、今度は僕の全身をチェックするように見ている。

「分かった。そこで待ってて」

 ドアが閉じた。今の声を頭の中で繰り返した。やはりこの人だ。

 ドアが開き、その人は小さなバックを持って出てきた。つばの広い帽子がよく似合う。

「近くのファミレスに行くから」

 そう言って階段を下り始めた。あわててその後を追う。無言で先を行くミアが振り返ったのは、さっき下りたバス停が見えてくるころだった。ファミレスはすぐそこだ。

「ごめんね。家では話せないから」

 僕が追いつくのを待って、ファミレスに入った。客は二、三人しかいなかった。入り口から一番遠い席についた。

「何にする」

 メニューを見ずに、ミアが聞いてきた。どこにでもあるはずのアイスコーヒーにした。ミアはミルクティーをホットで注文した。

 急に涼しくなって、かなり汗をかいていたことに気づいた。

「どこから来たの」

「山形」

「うわー、遠い。どこに泊るの」

 僕はホテルの名を言った。

「えーと、志摩君だったよね。私は鳴瀬(なるせ)ミア、高校一年生。志摩君も?」

「うん」

「じゃあ、さっそく。私のことを教えて」

 僕は、入学式の時の様子やアパートへの帰り道、部屋からの眺めについて話した。学校名があったので、早くからこの街だと分かり、来る準備をしていたことも伝えた。ミアはうなずきながら聞いていた。

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