僕の中の君の瞳
嘉太神 ウイ
第1話
自分の記憶は何歳から始まっているだろう。誰かと話していて、そんな話になることがある。
僕の最初の記憶は、五歳のころだ。幼稚園の制服を着ているので確かだ。それはかなり遅いと、みんなに馬鹿にされる。ほとんどの人は三歳ころかららしい。まあ、僕の記憶力は確かにあまりよろしくない。成績がそれを証明している。
そんな話題になったとき、口から出そうになる言葉を何度か飲み込んだことがある。だから誰もそのことを知らない。両親さえも。
僕が入学した学校は、銀杏が丘小学校という住宅地にある学校だ。かつて六〇〇人を越えた児童も、僕が入学したときは、四〇〇人ほどになっていた。この団地の中学校を卒業し、今はバスで隣町の高校に通っている。
小学校の記憶は入学式のときから始まる。例年より早く咲いた桜が、ちょうど入学式のときと重なった。母親に手を引かれて、校門をくぐったとき、薄桃色のソメイヨシノの花が校庭を囲んでいたのを覚えている。
僕は自分の入学時のことをときどきこうやって確かめるように思い返す。なぜかというと、僕にはもう一つ、別な入学式の記憶があるからだ。
その小学校は坂道を登った高台にあった。校門からは海が見える。崖の下から海までは、瓦屋根の家々が続いていた。その先の港には、コンクリートのビルが幾つか並び、クレーンのようなものも見えた。学校の建物は古く、校舎は二階建てで、かまぼこ形の青い屋根の体育館があった。そこが入学式の会場だった。僕は、教室から渡り廊下を進んで体育館に入った。先生の顔や周りにいた仲間のことは何も覚えていない。何もかもが、僕が通った小学校と違っていた。その記憶は他にも、家に帰る道すがらの風景や部屋の様子、窓から見える景色といくつか断片的にあった。両親の記憶はないし、兄弟がいるのかも分からない。声の記憶もない。その記憶には音がないのだ。自分の視点なので、そこでの自分の顔も分からない。
この記憶に気づいたのは、五年生ころだったと思う。ふと目覚めたとき、まるで夢を見たような感じで思いだしたのだ。だから最初は夢だと思った。でも、その小学校は実在していた。
入学式の看板に宮沢小学校と書かれていた記憶から、ネットで調べると二校が検索できた。地図と衛星写真で、すぐにその小学校が特定できた。海沿いの丘にある青い屋根の体育館がある学校が岡山県の箕岡(みおか)市にあった。あの海は瀬戸内海だった。
これで夢なんかではないと分かった。同時に、誰にも言わない方がいいと思った。
衛星写真で住居も特定できた。四階建ての市営住宅だ。その部屋から見えた建物は、南棟だったから、記憶の人物が住んでいるのは北棟だ。前に見える建物の窓と階段の位置で、おそらく西側の階段の三階の部屋だろうと思った。間違いなく、この記憶はその街に住んでいる誰かのものだ。それがどういうわけか僕の記憶に紛れ込んだのだ。
地図の街歩き機能で学校からそのアパートまでをたどると、記憶と一致する通りがあった。ついでに、画像で街のあちこちを歩いて見たが、他はどこも見覚えがなかった。
中学生になっても、あちこち画面散策を続けていたので、すっかりその街の様子が分かった。でも、これは危険だった。学校の近くの駄菓子屋を見ると、この店で帰りに買い食いをしたかもしれない、と思い、小さな公園を見ると、ここで遊んだかもしれないと思う。港の堤防からは、きっと釣りをしただろう。そんな想像が、過去の記憶のように思えてくるのだ。
しばらく仮想の街歩きをやめた。
この不思議な記憶がなぜあるのかは、まったく分からなかった。だから、それよりも、この記憶は誰のものかを考えた。その中で、その人が、代りに僕の記憶を持っているはずだと思うようになった。
僕に挿入された記憶には、学校名という、場所を特定できる手がかりがあった。その人の中の僕の記憶は、どんな場面なんだろう。学校の建物の一部や家の周辺の場面だけだったら、場所を探すことは難しい。もしそうだとすると、その人に会いに行けるのは、僕の方だけと言うことになる。でも、岡山は遠い。僕のいる山形からは何時間もかかる。その交通費だって、僕にはない。高校生になったら、バイトでお金を貯められるし、夏休みに一人で旅行することもできるだろう。もしかしたら、先に向こうから僕を訪ねてくる可能性もある。そう思っていた。
高校に入学すると、すぐにバイトを始めた。ときどき箕岡市の街をネットでチェックしていたところ、市のホームページに『市営住宅取り壊しのお知らせ』を見つけた。夏休み直前のことだった。その建物は、もう五十二年が経過していた。新年度が始まると同時に解体工事が開始される。入居者が少ないことと、別の市営住宅があるので、立て替えはせず、取り壊すだけだという。
うっかりしていた。もう入居者の引っ越しは始まっているかもしれない。
まだ交通費も工面できていなかった。両親にこの夏、一人旅がしたいといい、バイトで返す約束でお金を借りた。
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