第2-11話 既成事実

 食事ついでに風呂も世話をやこうとするルナちゃんから逃げるように俺は一人で風呂を済ませると、甘い匂いを漂わせてお風呂からでた。事前に「ハルさんはこれを使ってください」と言われて差し出された石鹸とシャンプーを使ったのだが、お金持ちの使う石鹸がそうなのか、女の子が使う石鹸がそうなのかは分からないが全体的に匂いが甘い。


 甘ったるい匂いしかしないのだ。


「どうですか? ハルさん。ウチのお風呂は」

「ありがとう。大きくて、ゆっくり入れたよ」

「それなら何よりです。本当だったら私がお風呂に入れてあげたかったんですけどね」

「…………」

「それは次回のお楽しみにしておきます。では、次は私が入りますね」


 ルナちゃんはそう言って浴室に消えていった。

 心臓が休まる暇がありゃしない。


「それにしても……」


 俺は完全に暇になってしまったので、リビングの窓から街を見下ろした。

 駅前という最もアクセスの良い位置に建てられたその場所から見た街はどこまでも綺麗で、光の渦が漂っているようだった。


 それはまるで、弥月みつきと一緒にみた公園での光景を思い出すものの、それと違うのは今の光景が完全に足元に広がっていることだろう。


「金持ちは毎日こんな風景を見てんのかな……」


 俺はそんなことを口に出すと、大きく息を吐き出してソファーに深く腰を降ろした。


「ルナちゃんは……いつも、ここに一人なのか」


 18時まではお手伝いさんがいるので1人ではないそうだが、ルナちゃんの両親は家に帰ってくるのが遅いので夜はほとんど1人で過ごしているのだという。


「……一人暮らしなら、遊びに来てくれても良かったのにな」


 そんなことをぽつりと言って、すぐに首を横に振った。

 いやいや、出来るわけがない。どの立場で物を言っているんだ俺は。


「小学生のころとは違うんだから……」


 きっと、あの頃だったら今のようにドロドロとしたものを抜きにして一緒に遊んだりできたのだろう、とそんな柄にもない感傷を抱くとルナちゃんにいつでも飲んで良いと言われたウォーターサーバーの水を一口だけ飲んだ。


 火照った身体に冷たい水が流れ込んで、少しだけ心が落ち着く。


「俺は……どうするべきだったんだろうな」


 一人になると、いつもそんなことを考える。

 考えてしまう。


 記憶喪失だと嘘を付かなかったら、あのときコーヒーを飲んでいなかったら、俺はどうなっていたんだろうとそんなことを考えるのだ。考えたって意味のないことだと思う。でも、そう思わずにはいられない。


 きっと俺は3人のうちに最初に告白された子と付き合っていたんだと思う。

 そして、心苦しくなりながらも他の2人はちゃんと断ったいただろうと。


「……いや、そうか?」


 自信が無くなってきたので俺は首を振った。

 これ以上はなんだか良くない考えのような気がしてきた。やめとこう。


 俺はため息を深くつくと、スマホを取り出した。

 そして、飽きるほどに繰り返したネットの巡回を始めた。


 ルナちゃんが風呂に消えてから一時間ぴったりで彼女はお風呂から上がってきて、


「ちょ、ちょっと!? なにその服!」

「どうかしたんですか?」

「どうかした……じゃなくてさ。いや、それ……」

「これですか? ネグリジェですけど」

「な、なにそのアイスの亜種みたいなやつは……!」

「多分ハルさんが言いたいのはジェラートですね。全然別ものです」


 ルナちゃんが来ていたのは紫色のネグリジェ。

 だが、生地が薄いのなんのって中の下着が見えているのだ。いや、見せているのか? さっぱり仕様が分からんが、それは何のために着てるんだッ!


「どうです? 可愛いですよね」

「いや、可愛いけど……。その……」

「えぇ? どうしたんですか?」


 ルナちゃんはにこやかにこっちに近づいてくると、俺の前であざとくポージング。

 わ、分かったぞ……ッ! ルナちゃんのこの感じ……完全に見せに来ているッ! 俺のリアクションを楽しんでいる……ッ!!


 だあああ!!

 金髪碧眼なのに服が紫色だから色彩が豊かなんだよ!!!


 と、誰にキレているのかさっぱり分からない怒りを胸に、俺がルナちゃんを見ていると彼女は俺の手を掴んだ。


「そういえば、まだハルさんが寝る場所を案内していなかったですね。こっちです」

「ん? あ、ああ。ありがとう」


 一応マンションの一室であるはずなのだが、やけに長い廊下を通って案内されたのはやけにファンシーな部屋。一人で寝るにはちょっと……いや、かなり大きめのベッドと、シンプルな机。多分あれ、無印とかIKEAで買ってんだろなぁ……と庶民の俺は邪推。


「……可愛い部屋だね」


 ここが客間?


「本当ですか? 昨日、ハルさんが来ると思って慌てて片付けたんです。いつもは私がここで寝てるんですよ」


 いや、うん。だよね。だと思ったよ。

 ここが客間なわけがないよな。


「うん? じゃあ俺はどこで寝るの?」

「このベッドですよ?」

「じゃあルナちゃんは?」

「このベッドですよ」


 一応逃げれねぇかなぁと思ってそう聞いたのだが、逃げ場は無かった。終わってんなァ、おい。どうすんだよこれ。


「ああ、なるほど。俺はルナちゃんと一緒に寝ると」

「はい! 楽しみですね!」

「楽しみって……寝るだけだろ?」

「だってお泊りですよ。楽しいに決まってるじゃないですか!」


 そう言ってルナちゃんは小学生みたいに微笑む。可愛い。


 でも、この子は自分の言っていることが分かってるんだろうか。

 だってルナちゃんは日本人離れしたスタイルを持っていて、今はそれを隠そうともしないほどに透けてるネグリジェを着てて、さらには男と一緒のベッドで寝ると言っているのだ。


 これが、どういう意味を指すのか分からないルナちゃんではない。


 だが、俺は知っている。この世には既成事実という言葉がある。

 つまり、俺がここでルナちゃんにほだされてやることやってしまえば全てが終わり。コーヒーなんぞで済まない結果が待っているのだ。


 つまり俺は、手を出したら死ぬのである。地獄かな?


「そういえばハルさん。スマホを充電したいなら悪いんですけど、リビングでお願いします。私、寝るときに部屋にスマホは持ち込まないんです」

「へぇ……そうなんだ……」


 それ、この間俺とルナちゃんがいい感じに

 なったときにルナちゃんのスマホが鳴ったとの何も関係はないよね?


 なんて聞けるはずもなく、俺は渋々スマホを持ってリビングに向かった。

 ちらりと後ろを振り向くと、テンションゲージがぶっ壊れたのかびっくりするくらい笑顔のルナちゃんがいて、怖かった。

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