第93話 対戸田高校

 戸田戦。

 S1試合を6-3に抑えて勝利した雅久のつぎ、蓮と乙幡が出場するD1試合で事故は起こった。相手前衛のハイボレーが、ガットが切れたために予想外の方向へ飛んだ。飛んだ先、前衛で構える乙幡がとっさのことに避けきれず、コートに転がってしまったのである。

 乙幡ッ、という蓮の声がコートに響く。

 フェンスの外はざわついた。

 主審もあわてて審判台をおりて、コートにころがる乙幡のもとへ駆け寄る。彼はよほど痛いのか、いつものポーカーフェイスは歪み、左頬骨あたりを抑えて奥歯をかみ殺している。主審は戸田校の一年生らしく、おろおろと周囲を見まわした。

 すかさずコートに入ってきたのはコーチの伊織だった。

「瑛、顔見せや」

「…………」

「血が出とるわ。これは摩擦で皮膚擦っただけやからすぐ止まるけど、打撲の痛みはどう。ゲーム続行できる?」

「します」

「まだ序盤やで」

「だからなんすか、やれますよ」

「乙幡──」

 蓮は眉を下げる。

 しかし乙幡も「やめとけ」と言って素直に「ハイ」と聞くような後輩でもない。どうする、と蓮は逡巡した。ふたたび乙幡の顔を見る。顔の傷はすでに赤く腫れてきている。いま冷やさなければあとあとひどく痛みを引きずる可能性もあるだろう。

 蓮は乙幡の横にしゃがみこんだ。

「やっぱりダメだ、棄権しよう」

「は?」

「戸田戦はあと秀真が確実にとってくれる。あとの試合でおまえが抜ける方が、チームとしちゃ痛手だ」

「いや抜けねえし」

「コーチ」

「うーん。せやな、まだ二ゲーム目やもんな」

「関係ない。だったらあと四ゲーム、ストレートで取ればいいだけの話。十五分もかかんねー」

 といって、乙幡はいきおいよく立ち上がった。

 ちょうどそのとき、コートの外から大会運営スタッフが駆けてくる。続行するか否かの判断を確認しに来たらしい。伊織が口をひらく。

 が、乙幡はそれを押しのけるように前に出て、

「問題ないっす。続行します」

 と言いはなった。

 まったく頑固な男である。伊織は乙幡へ非難の目を向けたが、それをかばうように蓮がずいと身を乗り出した。

「じゃああとのゲーム、ストレートで終わらせてきます」

「蓮──」

「乙幡の胸を借りるつもりで試合に入ったけど、やっぱりそれがよくなかったんすね。おれ、やってみます」

「…………」

 けっきょく、伊織は「無理と思たらすぐ引きや」とだけ伝えて、コートの外にはけた。乙幡にボールをぶつけた選手はガットの切れたラケットを交換してからしきりに頭を下げ、対する乙幡はいっさい気にするそぶりもなくポジションへもどった。

 フェンスの外では、琴子と蘭花が張りつめた空気でそれを見守る。いつもは乙幡に突っかかる赤月でさえ、無駄口ひとつこぼさずに、じっとコートを見つめた。

「いいの、コーチ」

 凛久がそばに来た。

 いいもなにも、と伊織は苦笑する。

「頑としてコートから出て来おへんのやからしゃーない」

「…………」

「ピンチは何事もチャンスに変わるぜ、凛久」

 と、言ったのは大神だった。

 彼はわずかに笑みすら浮かべて、D1試合を観戦する。

 見ろ、と指さす先には乙幡がこぼした球をすべてカバーする蓮のすがた。さっきまで乙幡に合わせて動くことに徹底していたのとは別人のような動きである。

「乙幡と蓮のペアも──ようやく噛み合ってきたみてえだぞ」

「スポーツのこわいところはコレやな」

「ま、とりあえずマネージャーは氷嚢の準備しとけ」

「あっ、は、ハイ!」

 琴子は背筋をピッと伸ばして、駆け出した。


 ────。

 試合はあれから、ストレートとはいかないまでも、いつもはマイペースな蓮の獅子奮迅のはたらきによって6-2での勝利となった。これまでの練習ではおよそ見たことのない好プレーを連発。もともと広い視野をもつプレーヤーだったことも相まって、中盤から後半にかけてのゲームは完全に蓮の掌中であった。

 試合後、乙幡はめずらしくしおらしく蓮に話しかけたものの、即刻診てもらいましょう、とあわてる遥香によって早々に救護室へと連れていかれた。おそらくこのまま予選の試合は不出場となるだろう。

 蓮、と凛久は声をはずませた。

「おまえかっこよかったぞ! なんだよあのプレー、練習じゃあんなに足動いてねーくせに!」

「その言い方だといつもおれが手ェ抜いてるみたいじゃねーか」

「でもぜんぜん違ったぜ。いつもあんくらい頑張れよ」

 と、新名もわらう。

 とはいえ試合を終えた蓮は予想以上に体力を消耗していた。中盤から頬の腫れがひどくなり左目がほとんど見えなかった乙幡をカバーするため、蓮はこのダブルスひと試合をシングルス並みにひとり駆けまわっていたのだ。

 大会初参加のうえ、自分が動かねばというプレッシャーもあっただろう彼はいま、なんとか役目を終えて抜け殻になったである。

 コーチ、と目元にタオルをかぶせた蓮は消え入りそうな声でつぶやいた。

「おれ、つぎ出ろって言われてもむりかもしんない」

「まあ大会本チャンは初やしな。ようがんばったで、蓮。だいじょうぶ、もうあとは第四ラウンドで今日ラストの試合やから。ほんならつぎは凛久にがんばってもらおか」

「ウッ」

 と、凛久がうめいた。

 たしかつぎは、と琴子がノートをめくる。

「シード校の華京学院──この会場校の方たちです」

「むこうにとっちゃふだんから使い慣れたコートなわけか。チッ、テニスの試合でもアウェーとかあんのかよ」

 赤月がムッとくちびるを尖らせた。

 おまけに、と蘭花もつづける。

「華京学院はダブルスがはちゃめちゃに強ェらしーよ。こっちのオーダー、どうすんの? 乙幡も蓮サンも抜けちまったし、ニーナっちと凛久サンでいく感じ?」

「いやでも、ダブルスがはちゃめちゃに強いなら、こっちは秀真とニーナで対抗したほうが一勝は確実なんじゃ……でもオレ、シングルスはあんまり自信ないけど」

「ダイジョーブダイジョーブ」

 と。

 伊織は呑気な声を出して、つぎの対戦オーダーを書き上げた。そしてチームメイトをぐるりと見わたし、そのままオーダーを読み上げる。

「S1、秀真」

「よーし」

「S2、新名」

「おっ。マジ?」

「ほんでD1──高宮双子」

「え」

「マジか。そうくるか」

 雅久がにやりとわらう。

 対する凛久はサッと顔面を蒼くさせた。

「コーチ、本気で言ってる……?」

「本気も本気やで。うちははなから一試合も相手にゆずる気ないもん。すべての試合に、すべて勝てる布陣で臨むつもりや」

「…………」

「そのラケット、どうせなら自分で勝ってモノにしたいやろ」

「え。あ、……」

「したるがな。雅久とダブルスで、華々しく勝ってきい」

 凛久はきょろりと一同を見まわした。

 みなが温かい目で凛久を見ている。伊織はもちろん、才徳OBの面々やチームメイト、マネージャーのふたりも。なにより、雅久も。

「やってやろうぜ凛久。いっしょに都大会優勝すんだろ、こんなところでビビってんじゃねーよ」

「やってみりゃわかるがたいしたことねえ。これまでの学校も、しょせんはベスト16圏内レベルだった」

 と、秀真もツンと言い放つ。

 目元にかぶせていたタオルから、すこし目を覗かせて蓮もほほえむ。

「たのむ、凛久。がんばってくれ」

「──わ、わかってる。やるよ。オレ部長だぜ。ダブルスならなおさら、得意分野だし。雅久もいっしょだし。な!」

「ああ。途中で腹くだしたっつっても交代きかねーからな、しっかりしろよ」

「う、うるせーっ」

 ふたりは乱暴に拳をかち合わせた。


 一方。

 まもなく時刻は十三時をまわろうとしている。桜爛対華京学院はあっという間の、Eグループラストゲームとなる。すでに負けた学校の選手たちは帰り支度を済ませて会場をあとにしたり、あるいは予選最終ゲームとなる桜爛対華京学院の試合を見ようと残ったり。

 朝とくらべるとずいぶん閑散とした華京学院の駐車場で、黒いセダンに寄りかかり一服する橋倉──。その横に滑り込むようにして、一台のフォルクスワーゲンが入ってきた。胸元の携帯式タバコケースに電子タバコの吸殻をしまい、ぺこりと一礼。

 前のドアが同時に開いて、運転席からは女、助手席からは男がひとりずつ降り立った。

 おやぁ、と橋倉は懐中時計に視線を落とす。

「ずいぶんお早いご到着でしたね、お二方。県大会本選はもう終わられましたか」

 と聞くや女はパッと橋倉にハグをした。

 そう、この午前中に神奈川県大会本選にて、それぞれのチームを引率してきた、エレノア・ベネットと倉持慎也のふたりである。倉持はぐっと伸びをした。

「本選なんで、午前中で終わったんすよ」

「ケンゴがアメリカ飛び立つ、お見送りしなくちゃとおもって飛ばしてキタヨ~! Mr.ハシクラ、お久しぶりデスね」

「左様でございますな、エリーさま。お元気そうで何より。どれ、謙吾さまはまだコートにいらっしゃいます。そちらまで橋倉めもお供いたしましょう──ここのコートはいささか分かりにくいようですから」

「助かります。ありがとう」

 倉持はにっこりわらった。

 それからまもなく、ふたりは橋倉に連れられてテニスコートへと向かうのであった。

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