第92話 企業秘密

 ヤバァ、と。

 夢咲蘭花はわらった。女子高生は箸が転げてもわらうというが、蓮は彼女を見ているとつくづくそのとおりだと感じることがある。とくにギャルという生き物はなにかと「ウケる」「ワラう」「ヤバい」という単語で感情を表現するらしい。

 いまも彼女がなにに対してウケているのか確認すべく、視線をさまよわせる。しかしこれといっておもしろい光景はない。

 なにが、と彼女に目を向けると、彼女はにやにやと一点を見つめていた。そこにはフェンス越しにテニスコートを見守る婦人と、リードにつながれた一匹の犬。どうやら視線は犬に注がれているらしい。

「犬好きなのか」

「めっっっちゃ好き。犬ってか動物全般マジで好き」

「へえ。なにか飼ってんの」

「いやそれがァ、うちの両親がどっちも動物アレルギーなんでなんも飼えねーんスよ。毛がダメみたいで。ふたりとも動物自体は好きなんだけど」

「それはツラいな。おれなら寿命が半分削れるって言われても犬飼いたいもん」

「えっ」蘭花がパッと顔をあげる。「そんな好きなん」

「柴犬。溺愛。……」

「ハハッ。柴犬っぽ! 蓮サンまじうけんね、ツボだわー」

「え……?」

 分からない。

 分からないので蓮は偵察に集中することにした。

 目の前の二番コートではじまった団体戦、武蔵野南高校と戸田高校のS1試合。伊織の見立てどおり一ゲーム目から戸田高校の猛攻がはじまった。シードの武蔵野南S1選手は、相手の深いショットに対応しきれずアウトボールを連発。対する戸田の選手は縦横無尽にコート内を駆けまわり、最終的には前に詰めてハイボレーによってポイントを獲った。

 すげー、と蘭花はすっかり一観客気分である。

「けっこう強くね? あのヒト。ボールもめっちゃ速いし」

「ああ。フィジカルができあがってるみたいだな」

「ふぃじかる」

「身体的なことをフィジカルっていう。精神的な方はメンタルっていうだろ。対のことばみてーなもんだ」

「あーッ。ね!」

 バチン、と拳でてのひらを打つ蘭花。

 彼女にかまわず、蓮はさらさらとノートになにかを書き留めた。蘭花が背後から覗き込むと、選手の名前とそのプレースタイル、特徴などがみるみるうちに追記されていく。いまの一ゲームを見ただけでそこまで分かるんか──と蘭花はうなった。

「ねねね。蓮サン的に、つぎも桜爛勝てるとおもう?」

「うん」

「根拠は?」

「このゲームを見ればわかる」

 と、蓮がわずかに口角をあげる。

「戸田高校のS1、たしかにショットは深くて速いしスタミナも申し分ない。とはいえショットの速さはこれまでおれたちが相対してきたコーチ陣とくらべたらたいしたことないし、あのS1選手はラリーがそこまで得意じゃないと見た。こっちのシングルスプレイヤーはどいつもこいつも、嫌味なくらいにラリーがうまいからな。結局シングルスはラリーで決まるよ。どれだけサービスダッシュを徹底してもな」

「フーン? でも、S1はいいとしてもあと一勝しなきゃっしょ。ほかはまだ分かんねーじゃん」

「あのレベルがS1張ってるチームなら、うちは負けない。秀真、乙幡、おそらく新名もあのS1には勝てるよ」

「ほぉ~……蓮サンは?」

「ん」

「蓮サン勝てる?」

「さあ──どうかな。そればっかりはコートに立ってみんことには、なんとも」

「そーゆーもん?」

「ああ。そーゆーもん」


 その後、つづいておこなわれたD1、S2試合。なんとかダブルスで巻き返した武蔵野南だが、結局S2試合におけるゲームカウントにて大差をつけられ敗北。コーチ陣の読みどおり、みごと戸田高校がシード校を破るかたちで第三ラウンドへの進出を果たした。

 さてもどるか、と蘭花を見るが、いつの間にか彼女のすがたが見当たらない。

 あれほど目立つ容姿で見失うこともそうそうあるまい──と蓮が周囲を見まわすと、まもなく観客席の一角でケラケラわらう蘭花を見つけた。

「夢咲」

 声をかける。

 彼女はアッと顔をあげて、角に隠れてよく見えない話し相手へあいさつを交わすと、こちらへ駆け戻ってきた。その右手には一束の紙が握られている。

「知り合い?」

「や、ぜんぜん。でもめっちゃいい情報くれた。あのイケメンマジ有能だったぜ」

「なんの情報」

「なんと、都大会ベスト16以上と予想される全学校の選手表なのだぁパラリラパラリラ」

「え──イケメンかどわかすなんて、なに言ったんだ夢咲」

「かどわかすって人聞きわりーな蓮サン。ちょっと蜂谷さんの名前出しただけだよ」

「蜂谷さんの? …………まさか、企業秘密って」

 蓮がちらと観客席に目を向ける。

 しかし先ほど蘭花とたのしげに話していた人影は、すでにそこにはいなかった。おそらく蘭花は出立前に蜂谷から「あの人物と接触するといい」的なことを言い渡されたのだろう。謎が謎を呼ぶテニス大会の偵察事情であるが、ともあれこれは大きな一歩でもある。

 選手の基本情報さえ分かれば、あとはそこに肉付けするだけで済むからだ。

 紙には、選手の名前のほかに出場予想のオーダーまで丁寧に書き込まれていた。しかしそのなかに戸田の情報はない。

「ベスト16予想には入ってないのか──」

「そりゃそーだ。だってトーナメント表見た限りじゃ、そこに行くまでにうちが倒す予定なんでしょ?」

「え。ああ、そうか」

 紙の束をめくる。

 最後の最後、十六校目として挙げられた校名を見て、蓮の頬がかすかにゆるんだ。

「夢咲。その人、名乗ったか?」

「いんや。そもそも聞いてねーし──ゲッ、聞いた方がよかった?」

「いやいい。どうせ教えてくれないか。聞くだけ野暮な気もする」

 どうせ身内のだれかだ、と。

 蓮はあらためて桜爛テニス部の存在価値を実感しつつ、蘭花とともに桜爛陣営へともどった。


 こうして他校の試合を見ていると分かる。

(桜爛テニス部は案外、かなり強いレベルに成長しているらしい──)

 ということが。

 もどった蓮の表情を見た蜂谷と伊織が、にやりとわらう。

「どうだった」

「はあ。なんというか……負ける気がしませんね」

「蓮! おまえなんという大胆な発言」

 と、凛久があわてて口を挟む。

 しかし蓮はクスッとわらって「だってさ」と肩をすくめた。

「ボールがみんな遅ェんだもん。おれたちちょっと、速いボールに目が慣れすぎたみてーだな」

「そ、そうなの?」

「ああ。凛久もおまえ、見ればわかるよ」

 といって偵察ノートを凛久に渡す。

 ついでに蘭花から手渡された紙束は、蜂谷のもとへ持っていった。蓮の手もとにあるものを見るや蜂谷はめずらしく無邪気な笑みを浮かべる。

「お。もらえたか」

「まさかコーチ陣に、まだお仲間がいたとはおもわなかったすよ」

「なに、明前の同級だよ。合宿には来なかったけどな」

「じゃあやっぱり、才徳OBか──」

「ああ。本選は堂々と応援にくるって言ってたから、そのときにあらためて紹介するよ」

 といって、蜂谷はにっこりわらった。

 さあ、第三ラウンド。

 対戸田高校戦のオーダーが、伊織から発表される。

 S1、高宮雅久。

 D1、乙幡瑛・相田蓮。

 S2、橋本秀真。


 伊織はわらった。

「蓮いわく、相手にもならんそうやで。みんな瞬殺でいったれや!」

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