第88話 逃がさねえからな
「都立金城高校か、桐崎第二高校──」
トーナメント表を見た蜂谷がつぶやく。
ここは大神のマンションバーラウンジ。仕事終わりの蜂谷のもとに伊織から連絡が入り、六本木から赤坂まで足を運んできたのである。
言っておくが、べつにトーナメント表が出たから呼んだわけではない。明日からゴールデンウィークに入るだろうから、ゆっくり飲み明かせるとおもってのことだ。つまりは蜂谷に会いたかった伊織なりの配慮である。
どちらにせよ、と蜂谷はソファに背をあずけた。
「いまの桜爛なら敵じゃないだろ」
「そうおもう?」
「都立高校についてなら、天城たちのがくわしいだろうけどな。でも昨年の秋季大会じゃどっちも二ラウンド目で敗退してる。そのあとに続くEブロックの学校もそんなに脅威じゃなさそうだ」
「なんでわかるん」
「PDFで載ってるよ、試合結果」蜂谷がスマホ画面を伊織に見せる。
あら~ホンマや、と伊織は画面を凝視した。
「ああでも金城高校はシード校に負けてんのか。星ヶ丘高校──ベスト8までいってるな」
「ま、とりあえずベスト8には及ばん実力っちゅうことやろ。そこまで分かればじゅうぶんや」
「安心できた?」
「うん。……なんや、その笑みは」
「いや」
と、蜂谷はほくそ笑む口元を隠すように手を当てて咳払いをひとつ。それから「だからさ」とつぶやいて、ちらりと伊織を見た。
「俺になんか話があって呼んだんだろ?」
「…………や、べつに、そんな、ただ、ハチに会いたかった────だけやし」
「ここに大神がいない時点であれっておもうだろ。いいよいいよ、なんでも聞くよ。どうした」
「…………」
「大神からなんか言われたの。復帰する、とか」
「!」
ガツン、と。
伊織が狼狽してローテーブルに膝をぶつける。声も出さずに痛がる彼女を見て、蜂谷は申し訳なさそうにクスクスわらう。
彼の観察眼は健在らしい。どうやら今日、このバーラウンジで伊織の顔を見たときから、彼女が胸になにかしらを抱えているらしいことは見抜いていたとか。蜂谷はロックグラスの氷を指でカラリとまわす。
「図星か」
「んな、」
「良かったじゃん。怪我、試合が出来るくらいには治ったってことだろ」
「────うん。全仏から出るって」
「さみしいのか」
「…………」
伊織はうつむく。
図星である。大神とは、あれからなんだかんだで誤魔化して、その日を迎えるまで淡々と過ごすことに徹底しているものの、伊織のなかにくすぶる妙なさみしさは消えるわけもなく。
だからって、と蜂谷は苦笑した。
「なんで俺?」
「こういうときに甘やかしてくれるん、ハチくらいやんか」
「そんなこともないとおもうけど……」
「どないしよう。うち、自分で思てる以上に大神のこと大好きみたいや。大神と離ればなれになんのイヤすぎて吐きそう」
「吐くな吐くな」
蜂谷はすこし投げやりにつぶやいて、おもむろにカバンからメガネ拭きを取り出した。ホコリひとつついていない眼鏡を外し、念入りに拭いてゆく。
グス、と鼻をすすり沈黙する伊織。
それを横目に蜂谷は眼鏡をかけ直した。
「婚約したんだろ?」
「…………ン」
「じゃあいいじゃないか」
「でも大神は、あんまりさみしそうやないねん。またオフシーズンなったら帰ってくるよってに言うて、ケロッとしてはんの。それ見たらなんやムカつくしさぁ!」
「なにいってんだ」
と、蜂谷は眉をしかめてたしなめる。
「大神はこれまで、勇気をふりしぼってキスした相手から音沙汰ないまま十年間、ひたすら待ち続けたんだよ。それをおもえばここからのシーズン、残り数ヶ月離れるくらいワケないんだよ。だって身体は離れてたって、もう会おうとおもえば七浦さんといつでも会えるんだから」
「…………」
「今回の怪我だって、あの慎重な大神がどうしてポカしたのか知らないだろ」
「エ?」
「──七浦さんが婚約したって話を聞いたからだよ。もういい加減諦めようって、がむしゃらにテニスに取り組んで、挙げ句自分のペースを見誤ってこのザマだ」
「そ、……それホンマ?」
「怪我から失意のうちに帰国したら、根本原因の七浦さんと再会。それからトントン拍子に付き合って婚約。シーズン復帰でアメリカに行っても、七浦さんはいつもそばに在る──いまの大神はさみしいどころか、羽が生えたような気分だろうぜ」
だからさ、と蜂谷はやさしく微笑んだ。
「さみしがる前にせめて、この十年間の大神を称えてやってよ。それからさみしいならさみしいってコトを俺じゃなくて本人に伝える。そういう気持ちはことばにして相手に伝えた方が、自分のなかでもきちんと昇華されるから」
「…………」
「それにアイツのことだから、このまま簡単に飛び立つわけもないだろうし──」
と、さいごは独り言のようにぼやいて、蜂谷は口をつぐむ。
バーラウンジにほかの客はおらず、蜂谷が氷を指ではじく音だけがラウンジ内に響きわたる。もはや伊織も、口はひらけど言葉が出なかった。蜂谷の言い分があまりに非の打ち所がなさすぎて、ただただ納得するばかり。
しばらくウンウンとうなずいてから、伊織はゆっくりと顔を上げた。
「わかった。そうする」
「よしよし。じゃ、俺もう帰ってい?」
「なんでや! まだ一時間も経ってへんやんけ。もっといっぱい話そうやぁ!」
「だってさっきからさ……」
蜂谷がにがにがしい顔でスマホ画面を見せてくる。
そこに映し出されたのは見慣れた電話番号の羅列──。下階にある自室にいるであろう大神からの電話らしい。
「鬼のような着信が」
「無視しいやそんなん」
「イヤだぜ俺、ふたりの当て馬みたいになるの」
「ならへんがな。なにを心配しとんねん」
「とにかく」蜂谷がかばんを手に腰を浮かせた。
「俺はそろそろおいとまするよ。あしたから連休だし、今日はうちのベッドで泥のように寝ると朝から決めてたんだ」
「も~……付き合いわるいなぁ」
と、伊織がなんの気なしにラウンジの入口へ目を向ける。
おもわず喉がヒュッと鳴った。
いつからいたのか。入口から半分ほど顔を出して、キュッとくちびるを結んだ表情でこちらをジッと見つめる大神がいる。
蜂谷も一瞬動きを止めて、おもわず笑みをこぼした。
「な?」
「──恐れ入りました」
「はい大神」蜂谷はにがわらいを浮かべた。「七浦さん返すよ」
「ん」
「ついでに聞くと、俺のことベネットさんになんて言ったんだ。あの人の俺に対しての期待値が尋常じゃないんだけど」
「べつにたいしたこと言ってねえよ。アイツはただ、奥手で思慮深く、無駄口のすくねえ男が好きなだけだ」
「……なんとかしてくれ」
「コレと決めたら止まらねえ暴走列車のような女だぞ。俺ごときがなんとかできるか」
とりあえず、と大神は右手で伊織の肩を抱く。
「一回飯にでも行ってやれよ。ホントのテメーを見せてやりゃあなにか変わるんじゃねえのか。ま、さらに気に入られて食われねえようにだけ気をつけな」
「…………に、」
肉食女子、怖ェ~。
とぼやいた蜂谷は逃げるようにエレベーターへ駆け込んでいった。
それを見送ってから、伊織はふてぶてしく大神をねめあげる。
「大神が大人げないから帰ってもうた」
「残りすくねえふたりの時間を費やしてまで、必要な時間だったとはおもえねえな」
「……残りすくないとか言うな」
「蜂谷も言ってたが、そういう気持ちはほかの男じゃなく俺に直接言ってこい。バカ」
「は。ど、どこから聞いててん!」
「たいしたことは聞いてねー」
「そ、そう──」
「テメーでおもってる以上に俺が好きってのは、知らなかったがな」
クク、と大神は肩を揺らす。
たちまち伊織は目を見開き、
「ほぼ聞いとるやんけ!」
とさけんだ。
つくづく馬鹿だ、と大神はおもう。
この女はいつもどこかで強がって、自分の弱い部分を見せまいとする。大神に対しては特に。しかも隠すのがうまくないからすぐに分かるというのに、だ。
(さすがの蜂谷だな)
と、大神は後ろ手に隠し持つものを横目に見てフッとわらった。
蜂谷の見立ては間違っていない。
ここまできて、この大神謙吾がただ別れを惜しむ口付けのみを残してアメリカに飛び立つわけはないのである。
この数ヵ月でようやくわが手中に落としたのだ。もはやこれから先になにがあろうとも、自分のもとから立ち去ることはゆるさない。
「伊織」
呼び掛ける。
髪をゆらして、すこしむくれた顔をこちらに向けるのがまた愛おしい。きゅっと結ばれたくちびるは、彼女の意思の強さをあらわすかのよう。吸い付きたくなるのをぐっとこらえて、大神は一枚の紙をテーブルに置いた。
ハッ、と彼女から息を呑む音が聞こえる。
こわばるその肩をやさしく撫でて、大神は射貫くような視線を向けた。
「今度はぜったい、逃がさねえからな」
法の名のもとに。
かつて口付けでは縛れなかった、この女の隣に居る権利を。
「役所」
いつ行く、と問いかける声色がやさしくなる。
彼女はよろこびから狼狽し、大神の首もとにかじりつく。それを大神はゆったりと抱き留める。しかしその顔は、余裕ある動作とは対照的に、狂気にも似た薄ら笑いが浮かんでいた。
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