第89話 仲間

 五月十三日、朝。

 大神家はいつもよりすこしあわただしい。桜爛の都大会予選、かつ大神渡米の日でもあるが、飛行機は夕方の便。「時間がゆるす限り試合を見ていく」と大神がいうので、忘れ物がないように伊織が荷物の最終チェックをおこなっているのである。

 大神は優雅に珈琲を飲んで、めずらしくスーツに身を包んでいる。スリーピースがこれほど似合う男もそうはおるまい。伊織はあらためて、とんでもない男といっしょになったようだと気付かされた。

 七時半。大荷物を手にエントランスを出る。マンション正面には黒塗りの車が一台停車していた。

 車の前で待機するは大神謙吾の専属執事、橋倉。今日は彼が運転手なのだ。

「朝早くからわりいな、橋倉」

「とんでもない。お荷物を積みましょう。こちらへ」

「重いから気をつけて! おおきに」

「なにをおっしゃいます、若奥様」

「だっ──そ、それやめて言うたやんかっ。フツーにいつもどおり伊織って呼んでや!」

「いやはや、どうしても謙吾坊っちゃまの奥様のこと、一回はそうお呼びしたくてねえ」

「もう!」

「さあうしろにどうぞ」

 橋倉がにこにこわらって後部座席の扉を開ける。さっさと乗る大神と、遅れてしずしず乗り込む伊織を見届けてから扉を閉め、橋倉は運転席に腰かけた。

 後部座席でシートベルトをしめながら、伊織がバックミラー越しに橋倉を見る。

「橋倉さんはいつアメリカへ?」

「私めは明日でございますよ。謙吾さまが発ったあと、所用を済まして本家からプライベートジェットで向かいます」

「大神もそれに乗せてもろたらええのに」

「いいんだよ俺は」

「謙吾さまはむかしから、空港がお好きでいらっしゃいますからねえ」

「へえ?」

「余計なこと言わなくていい、はやく出発してくれ」

「はいはい。会場は、華京学院高校でよろしいですかな」

「うん!」

「では参りますぞ」

 橋倉がハンドルを握る。瞬間から、彼の目付きはするどく尖り、車はゆっくりと発進したのだった。


 ※

 いってきます、という元気な声が住宅街に響きわたる。やさしい祖父母に玄関先まで見送られ、高宮双子は家を出た。古家の門前では蓮が携帯を見ながら双子の登場を待っている。

 いくぞ、と雅久に肩を叩かれてようやく、蓮は双子の登場に気が付いた。ラケットバッグを肩にかけ、三人は駅までの道のりをゆく。

 いやー、と蓮が空を見上げる。

「とうとう本番だなぁ。都大会団体戦予選」

「オレどうしよう──きのうの夜から緊張しちゃって、腹がゆるいんだけど」

「いまからそんなんでどうすんだよ。今日の予選、大山とはいえ三戦はやるんだぜ。ったく、わが弟ながら情けねえな」

「だ、だってさぁ~」

「まあな。凛久に関していうと、この都大会の結果如何でラケットの行く末も決まるもんな。この予選──ベスト8には最低でものしあがらないと」

 と、茶化すようにいう蓮。

(そうなのだ)

 凛久は歩くたび背中でガチャガチャ鳴るラケットに思いを馳せる。近ごろはすっかり手にも馴染んだイエローラケットだが、この子はあくまでコーチからの借り物であり、今大会でベスト8以上に入れなければラケットは返却──という約束があるのだ。

 なおさら気持ちが凹む。ドロー抽選会で見かけた選手たちの、なんたる強者感。果たしていまの自分がどれだけ通用するのか──という不安は、いくら練習を積み重ねれど今日まで抜けることはなかった。

 しかし雅久と蓮は、凛久に反してずいぶん余裕の表情を浮かべている。それもまた凛久にとっては不服だった。

「お、おい。雅久はいいとして、なんで蓮までそんな余裕そうなわけ? 強がってんの?」

「え。なんだよ強がってるって──だって団体戦だぜ。たとえ自分が一敗しても、チームが二勝すりゃ勝ちじゃん。春季はフルオーダーの秋季とちがってシングルス二本、ダブルス一本だろ。おれが出るとしたらダブルスだろうし、その場合シングルスは雅久と秀真、……控えを見ても乙幡だ」

「あ、──」

「わりと都大会優勝は余裕と見てるけどな、おれは。まあ凛久に関してはラケット問題もあるし、一勝くらいはしろって言われるかもしらんけど」

「…………」

「でもさ、そのくらい余裕のあるチームだってことだよな。お前とおれのふたりだけのときに比べたら──桜爛テニス部、ずいぶん成長したとおもわねえ?」

 蓮はカラッとわらった。

 それを受けて雅久も「俺が入ったんだから当然だろ!」と胸を張る。


(そうか)


 ふいに、凛久の胸がフッとかるくなった。

 いまのいままで、自分の実力だけで他校とのレベルを測っていたけれど、これは団体戦なのである。自分が万が一ポカしても、それをカバーするだけのメンバーが背後にいる。

 ずっと見放さずに手を引いてくれた雅久。

 いつもそばで見守ってくれる蓮。

 口はわるいが前を向かせてくれる秀真。

 自由なプレーで試合を楽しませてくれる新名。

 寡黙だがテニスへの情熱を魅せる乙幡。

 根拠なき自信の大切さを教えてくれる赤月。

 きめ細やかなサポートを欠かさない琴子。

 力のこもった応援をくれる蘭花。

 いつでも部員を第一に考える遥香。

 ──そしてコーチ、七浦伊織。


 たったひとりで桜爛テニス部を背負った気になっていたけれど、振り返ればこんなにも心強い仲間がいるのだ、と。

 凛久はふとおもい至って、ポロリと涙をこぼした。それにいち早く気付いた蓮が「おいおい」とあわてた声を出す。

 雅久なんか「そんな腹いてえのかよ」と見当違いの批難を向けてきたが、いまの凛久は込み上げる涙をぬぐうのに必死で、なにも返すことができなかった。

 わずかにあがった凛久の口角を見て、蓮はその涙の意味を知る。フッとちいさくため息をつき、彼は力強く肩を組んできた。

「泣くのははやいぜ、部長」

「メソメソすんなよ辛気くせーな。そいつは来週、優勝したときまで堪えとけ」

 という雅久の顔は、強気にわらっている。


 都大会会場の最寄り駅につく。

 そこにはすでに、コーチを除く桜爛テニス部全員がそろっていた。遥香が点呼を済まして「行きましょう」と気合いをいれる。

 っか~、と赤月と蘭花は武者震いまでしている。

「今日の試合でオレさまを全国に知らしめることができんのか。腕が鳴るぜ……!」

「おまえは控えだろ」

「テメー乙幡コラ!」

「ねねね、今日のためにめっちゃ気合い入れてデコってきたんすよ、橋もっつぁん! 見て見て」

「やめろ。俺にそのゴツゴツした爪を近づけるなッ」

「ウケる。デコ爪アレルギーじゃん」

「って、だれが橋もっつぁんだッ。なめてんじゃねーぞテメエ!」

「ねえねえ谷セン。今日の予選勝ち上がったら飯行こうよ~。もうジョジョ苑とか言わんからさ」

「そうねえ、モチベーション維持のためにも必要かもね。もうちょっとリーズナブルなところで、懇親会しましょうか。伊織さんにも聞いとかなくッちゃ!」

「あっじゃあ私、お店リサーチしておきますっ」

「えっ琴ちゃんパイセン、それあたしもやりてえっ。いっしょにテンアゲな店さがそ☆」

「う、うん……!」


 騒がしい道中。

 さあ、都大会予選が始まる!

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