第86話 今日の予定は?
近ごろの朝は、キスからはじまる。
キスといってもくちびるを合わせるものではなく、頭や頬にかるく口づけする程度のものである。婚約後の大神家におけるルーティンになっている。
桜爛テニス部の活動がめずらしくお休みの四月末日。
今日も今日とて、キッチンで朝食をつくる伊織のもとへ大神がやってきた。
いつもならば「おはよう」というあいさつとともに、大神からの口づけが落とされる。しかし今日はどうも様子がちがう。トボトボとおぼつかない足取りで伊織に近付くや、あいさつもなしに伊織を背後から抱きしめたのである。
ちょうど卵焼きを皿に盛るところだった伊織は、
「あぶないって!」
と注意するも彼はどかない。
どころか、反抗するようにぐりぐりと頭を押しつけてくる始末。いったいどうしたのかとフライパンをガス台に置いて伊織は振り返った。
「おはよう。どしたん?」
「…………おはよう」
「風邪ひいたん。ネギスープつくろか、めっちゃ効くで」
「五月二十日」
「え?」
「全仏オープンから復帰することにした」
「…………」
それは、唐突な大神の復帰宣言だった。
おめでたいことである。
プロテニス選手は、戦線離脱するとプロランクががくっと落ちる。世界ランク十二位の大神は『プロテクト・ランキング』という制度によって一定期間ランキングは守られるものの、九月から五月という八か月間の穴は大きい。
怪我がなければ、昨シーズンで彼のトップ10入りはおろかグランドスラムも可能だとおもわれていただけに、今回の膝の怪我は大神にとってはかなりの痛手だった。すぐにでもシーズン復帰をすることが、プロテニス選手として望まれた道なのである。
──と、そんなことは父兄にプロテニス選手をもつ伊織ならば人より知っている。
ゆえに大神の復帰宣言はもろ手をあげてよろこぶところだ。の、はずだった。
「全仏オープン……」
「二月くらいから主治医と復帰時期を調整してた。きのうのトレーニングのあと、許可が下りたんだ」
「そっか。よかった」
伊織はくるりと視線をもどして、皿の盛り付けに集中する。
「選手生命が脅かされるような怪我やのうてよかったわ。なんかさ、大神からテニス取ってもいろんな才能あるから心配はないけど、でも──テニスせえへん大神とかなんかちゃうもんな。うちもはよ全力でテニスする大神見たいし」
「伊織」
「それでなんやったけ、五月二十日からの全仏か。でも時差に慣れる期間も必要やろ。ってことは──」
「一週間前にはむこうに行く。だから出立は十三日の飛行機だ」
「十三日いうたらアンタ、都大会の」
「ああ予選だな。飛行機は夕方の便をとった」
大神はふたたび伊織をバックハグして引き寄せた。
こんどは振り払うこともせず、伊織は落ち込んだ声で「なんや」とつぶやく。
「ベスト8まで勝ち上がったら、時間的にお見送り行かれへんかもなあ」
「そんなものはべつにいい。だが、全仏はじまったらいちいち日本になんか帰ってられねえ。移動と大会以外の拠点は、むこうの──アメリカの家に置くつもりだ」
「そら、そうやろ。……」
うつむいた。
復帰をすなおによろこぶには、日本とアメリカではあまりに遠すぎる。とはいえプロは大会がはじまれば各地へ飛びまわる生活になるため、アメリカまでついていったところでいっしょにいる時間はそうそう取れまいが。
それでも、メンタルスポーツと言われるテニスと真っ向からたち向かう彼を、家でやさしく迎えてやりたいとおもうのも愛心。伊織の揺れうごく心の声を聴きとったか、大神が耳元でささやいた。
「来るか?」
と。
伊織はふたたびくるりと大神へからだを向ける。
それからキッとにらみつけて、ドン、と大神の胸を拳で叩いた。
「……ああそうだよな」
わるかった、と大神はほほ笑んだ。
拳に込められた想いすらも汲んだようだ。伊織はぐっとうつむき、たまらず大神の背に腕をまわす。
(来るかって、なんやねん)
内心で毒づいた。
その選択ができるならば──はなからこんなに苦しんじゃいない。そんな彼女の葛藤も大神はすべてわかっている。腕のなかでふるえる伊織の肩をやさしく撫でおろし、頭頂部にキスをひとつ。
「桜爛テニス部を立て直すのはおまえの役目だ。ここで投げ出すおまえじゃねえもんな」
「わかってんなら聞くなッ」
「わるかったって」
「……でもイヤ。離れとうない」
「なんだオイ、唐突にかわいいこと言いやがって。腰にクるじゃねーの」
「いまからそんなんでどうすんねん。浮気は許さへんで」
「頼まれたってしてやるか、そんなもん。いいよ。おまえの下着数枚持っていくから」
「…………」
「…………」
「…………」
「……冗談だって。その顔やめろ」
といって大神はゆっくりと伊織から身を離す。
それから盛り付け途中だった朝食のサラダに、リーフとミニトマトをさいごに添えてサラダボウルを食卓へ運ぶ。しばらくじっと立ちすくんでいた伊織も、ようやくのろのろと動き出した。食パンをトースターへ突っ込み、バターを冷蔵庫から出して、食卓へ──。
窓から射し込む朝日がダイニングを照らす。
大神は眩しそうに目を細めて、ゆっくりと窓に寄った。
「ふしぎなもんだ」
と微笑みながら。
ん、と伊織が聞き返すと、彼は窓をからりと開ける。外はすっかり新緑の季節。吹く風も、肌を撫ぜる空気もだいぶぬるくなった。
「この部屋を借りてからついこのあいだまでは、この東京砂漠がうっとうしくてしょうがなかったってのによ」
「…………」
「いまじゃ、まだアメリカに発ってもねえのにもうここに戻りたくなってる」
と。
言いながら朝日をバックに風をうける大神の横顔が、息を呑むほどきれいで、伊織の瞳にはおもわず涙が込みあがる。きっとこの情景は生涯わすれることはないだろう、とおもった。
大神がゆっくり窓を閉め、食卓にもどってくる。
「おまえのおかげか」
「え?」
「俺の東京砂漠に、花が咲いた」
「……また気取って!」
「気取っちゃねえよ。俺の心の声が、案外ロマンチストなだけだ」
チン、とトースターが鳴ったことで話は途切れた。
それからは、大神の今後のスケジュールについてはもちろん、桜爛テニス部の新入生についてなど他愛もない話をした。お互いに、ひとつひとつの話題を噛みしめながら話していたためか、いつもより朝食時間が三十分も伸びた。
時計の針が九時を指す。
「今日の予定は?」伊織が問うた。
「伊織の気分次第」大神はこたえた。
気分次第とは、と訝しげに眉をひそめた伊織に対して、大神はいつもの余裕ある笑みを浮かべて伊織の頬へ手をすべらせる。
「W
「────」
伊織はいっしゅん呆れた顔をしたが、おもむろに大神の首っ玉にかじりついた。太い動脈をくちびるでなぞり、耳たぶを甘噛みする。そのままぼそりとささやいた。
「...|Holding me all day long.《一日中抱きしめて》」
「フ、...
ふたりはクスクスと笑い合った。
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