第85話 アンタのもとで

「練習しないんすか」

 自身がこの騒動の中心にいることなど気にもせず、カゴに入ったボールをひとつとり、ラケットであそぶ。マスクを外した彼の頬は、冷やしたとはいえ赤く腫れて痛々しい。先ほど保健室から湿布を持ってきた遥香が甲斐甲斐しくその頬へ貼りつけた。

 まったく、と雅久が頭を掻く。

「それじゃあこっちも話をつけさせてもらおうか」

「話?」

「とぼけんな。お前な──いくら個人で強くなりてえとはいえ、部活でやる以上はチームメイトのことも気にかけろよ」

「気にかけるって、どういう意味すか。俺、初心者あがりの先輩と組んでも文句言ったおぼえないすけど」

「態度に出てんだ、態度に。しょーもねえとこでミスってんじゃねえってよ」

 などと具体的な例をあげる雅久に、

(それは雅久がおもってることなのでは)

 と内心で傷つく蓮。

 そうとは知らず雅久はつづけた。

「そりゃお前に実力があるのは分かる。でもだからこそチームの底上げにも貢献できる力があるだろ。チーム全体が強くなれば、練習のレベルもあがる。結果的にお前のためになるんだぜ」

「…………」

「お前が期待してるコーチ陣だって、あくまで桜爛全体を強くするために参加してんだ。個人のためにばっかり時間割いてくれるわけじゃねえ。もし、そのやり方が気に入らねえなら──うちの部には向いてねえよ」

 といって、雅久はコート入口の階段に腰かけた。

 伊織と遥香はなにも言わない。初心者あがりの蓮には口をはさむ余地はない。個人的には「そこまで言わなくても」という気分だが、とはいえ雅久の言い分が正しいのも事実なのである。

 乙幡が桜爛のやり方と合わないならば、いまのうちに見切りをつけるのも一手なのかもしれない。さて乙幡はどう出るか、と蓮が彼の顔を見た。

 開口一番に彼から漏れ出たのは、

「ハァ……」

 という面倒くさそうなため息だった。

 ふだんのポーカーフェイスはそのままに、ボールをあやつる手を止める。

「言い分はわかりました。ただ──俺も生半可な気持ちで桜爛に来たわけじゃないんで」

「どういう意味だよ?」

「…………」

 乙幡が口をつぐむ。

 それから視線が伊織に向けられた。予想外に受けた視線の意味がわからず、伊織はキョトンと目を見ひらく。なに、と聞く前にふたたび乙幡の口がひらいた。

「七浦コーチ、乙幡って苗字に覚えは?」

 と。

 一同の視線が伊織に向けられる。

 しかし当の本人はまったく心当たりがない。『乙幡』という苗字はそうそういないだろうから、知り合いになっていれば分かるはずである。伊織はふるりと首を横に振った。

 じゃあ、と乙幡が目を細める。


「──は?」


 はるこ。

 いやそれも、と言いかけて伊織は動きを止めた。はるこ。ハルコ。春子──。いや知っている。この名は、十年前のあの日、に。でも、だからって。

「はるこ、」

「乙幡春子。十年前、帝都中央病院に入院していた小児患者だった」

「…………」

 ふたりが見つめ合う。

 一気に緊迫した空気を感じとった蓮と雅久。遥香もまた、そんなふたりを息を詰めて見守っている。


 ──十年前。帝都中央病院。春子。


 伊織の脳裏でパズルのピースがかちりとはまる。「ああ」とかすれた声を漏らして、伊織は複雑に表情を歪めた。


 ※

 ──事故だった。

 ──熊のぬいぐるみをとろうとして足を。

 ──あのベランダ、お気に入りだって。

 ──ほんとうに……言葉がない。


 十年前、伊織の携帯にかかってきた姉の主治医のことばである。彼のふるえる涙声が耳を上滑り、ろくに理解もできなかった。

 ゆえに顛末はあとから、父に聞いた。


 ──友だちになった小児科のおんなの子。

 ──ベランダから人形を落としたんだと。

 ──代わりに取ろうと身を乗り出して。

 ──脳挫傷だって。


 誰もわるくない。

 誰にも非はない事故だった。

 それはいまでも心からそう思っている。けれど、……。


「!」

 伊織はパッと口許に手を当てた。

 自分のなかに生まれた一抹の黒い感情が、口から漏れ出てやしないかと焦った。ちらりと乙幡を見る。彼はなにも言わず、ただまっすぐに伊織を見つめていた。

 彼の瞳があんまりまっすぐなので、伊織はふとうつむき視線から逃げた。このまま見つめつづけていたら心の内にある感情が伝わってしまいそうで。

 あの日。

 亡き骸と化した姉に問いかけたことばがある。


 ──あの子が愛織に近づかへんやったら、

 ──生きてた?


 すこしでも姉の死を、幼き女児のせいにしたかった。恨みの対象をつくりたかった。伊織のなかにはかつてそんな思いがあった。そしてそれはおそらく、いまも──どこかに。


 妹、と。

 乙幡は言った。

「乙幡春子は俺の年子の妹で、いまは中三」

「────」

「俺だって去年の九月まで、自分は才徳に行くもんだとおもってた。でもアンタが。アンタが……桜爛テニス部コーチに就任したって雑誌に載ってて」

「う、うちが? それでどうして」

「俺がテニスをはじめたきっかけだったから」

 といって手中のラケットを握りしめる。

 周囲はのちに続くことばを待つ。あの日、と乙幡はつづけて口をひらいた。

「あのお姉さんが死んだときから、うちの親は──贖罪のつもりか、いつも俺たちにテニス雑誌を見せてきた。アンタが大会で優勝したって記事も読んだ。毎月毎月、テニスがどうたらって話を聞かされるうちに、俺はふつうにテニスにハマって……」

「うちに会うために桜爛入ったていうんか。なんで、うちに会うてなにがしたかってん。いまさら謝るとか言わんやろな。もしそのつもりならうちは聞かへんよ。あれは事故や。だれも、わるない事故やった」

「…………」

 一拍置いてから、べつに、と乙幡がつぶやく。

「会ってなにがしたかったわけじゃない。俺は正直、当時の事故に思い入れもないし。ただ──俺とテニスを引き会わせてくれたアンタから、直接教わりたかっただけっす」

 視線が、すこし寂しそうに落ちた。

 ハッと伊織が息を呑む。聞いてみればなんてことはない。彼の人生において大きなきっかけとなった人物に会いたかったという、ただのテニス馬鹿なだけだった。

 あの日の事故も、それ以来十年前に囚われた伊織や自身の親兄妹の思いだって、乙幡瑛にはなんら関係ない。彼はただ、いまこの時を生きているというだけのことなのである。

 伊織の眉が下がる。

「春子ちゃんは──元気にしとるんか。当時は入院してたやろ」

「あれは、盲腸だったから。いまは健康優良児っす」

「そう。…………そっか」

 とうとう伊織はうつむいた。

 まったく、空元気が得意だったむかしの自分はどこへやら。歳とともにもろくなる涙腺を呪いながら、伊織は目頭を抑えてため息をつく。

 コーチが泣くすがたが見慣れぬ雅久と蓮は、見てはいけないものを見たかのようにあわてて目をそらす。遥香だけは、伊織の肩をやさしく撫でる。

 しかし乙幡はそれすらも気にならない。

 あ、とマイペースに声をあげた。

「部室にあった写真。都優勝のときのっすか」

「ああ──せやな」

「あのあとの関東大会から、王者桜爛が陥落したんすよね。マネージャーの訃報をうけてぼろ負けだったって」

「そんなことない。訃報をうけても、当時のエースはきちんと才徳から勝ちをとったし、三試合の選手たちにはそもそも訃報も届いてへん。ただ才徳が強かっただけや」

「でも──その後十年間くすぶって、このザマだ」

「おいてめえッ」

 雅久が声を荒げる。

 しかし握った拳は伊織に掴まれたため動かなかった。そのとおり、と伊織がつぶやく。

「なさけないやろ」

「アンタがここを建て直そうとしてるのは、なんのため。あの写真にいたアンタの姉のため?」

「…………」

「まさか桜爛への同情なんてことはないだろ」

「……同情、ね」

 それもおもろいな、と自嘲した伊織。それからゆっくりと立ち上がり、校舎うしろに立ちそびえる学生寮を見た。

「強いていうならプライドかな」

「プライド?」

 遥香が目を丸くする。

 うむ、と伊織は首をかしげた。

「前にも言うたかもしれんけど、才徳と桜爛は永遠のライバル──うちのなかにはそういう縮図があんねん。現実がどうであろうと、それは一生変わらへん。いま才徳が王者の地位にふんぞり返っとるなら、桜爛もそこに戻らなアカン。だれもやらへんのやったら、うちがやるしかないやろ」

 姉のためかとおもった、と乙幡がつぶやく。

 そのためではないけど、と伊織は視線を乙幡へもどし、

「──愛織が生きてはったら、そうするやろなとはおもう」

 とやさしく笑んだ。

「瑛、春子ちゃんに言うといてや。最期、愛織と仲良うしてくれておおきにって。嫌みやないで。ホンマに」

「…………っす」

「さて。ほんでどうするん、瑛。これからうちが強くしていくこの桜爛テニス部で、アンタもその一端を担ってくれるんか──あるいはここで見限って、あとあと雑誌で桜爛活躍の報を聞くか」

「…………」

 ずいぶん挑発的な選択肢である。

 乙幡はちらりと雅久、蓮、遥香を順番に見てから、ふたたび伊織に視線をもどした。


「俺の選択肢はもともとひとつっすよ。俺はアンタのもとで、テニスができればそれでいい」


 結局ふりだしじゃねコレ、と蓮は内心でつっこむ。しかしつづく彼のことばはちがった。

「ついでに俺が強くなる土台として、チーム全体の底上げすりゃいいんでしょう。やりますよ」

 と。

 それを聞いた遥香はワッと花が咲くような笑みを浮かべ、伊織はすこし切なそうに微笑んだ。

 ただひとり雅久は、

「ついででえらそうなこと言ってんじゃねー。いちばん底上げに貢献すんのは俺だ。まちがえんなよッ」

 とわめき散らしていた。

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