第8話 婚約したって?
谷遥香は興奮していた。
先ほどバーを出る間際にすれ違った人物に覚えがあったからだ。昨今の日本において第三次テニスブームを巻き起こした、プロテニス選手の大神謙吾にほかなるまい。テニスにくわしくない遥香でさえ彼の顔は知っていた。まさか、と遥香が倉持に詰め寄る。
「倉持先輩が紹介しようとしてた方って──まさかまさかの、大神プロですか?!」
「まあな。一応俺だって、大神がつくりあげた才徳テニス部伝説の黄金世代って言われた代だぜ。もともと桜爛テニス部の現状については、俺もアイツとよく話してたんだ。谷から相談うけたあとも何度か電話で話してたけど、如何せんプロってのはいそがしいからあんまり時間とれなくてさ。それがこのあいだ怪我したって言うじゃねえか。だから、暇だろうとおもって連絡してみたんだよ。暇じゃねえって怒られたけどな」
「当たり前じゃないですかッ。さすがにわたしも恐れ多すぎますよ、大神プロに桜爛テニス部のことなんとかしてもらおうなんて──ほ、ホントに七浦さんが来てくれてよかった……」
と、遥香はホッと胸に手を当てる。
時刻は現在二十時過ぎ。どうやら倉持は地下鉄赤坂駅へ向かっているらしく、携帯を取り出して電車の時間を調べはじめた。つられて遥香も調べようとしてはたと動きを止める。
「あれ。待ってください、先輩」
「んー」
「な、七浦さんって今日うちに泊まるという話でしたよね、置いてきちゃったんですけど」
「ほっとけ。どうせ大神が帰さねえ」
「え──あのふたりって付き合ってるんですか!」
と遥香がさけぶ。
「付き合っては、ねえよ」
「……なにかある」
「いや、」
「なにかある!」
「…………」
倉持はいっしゅん逡巡したが、道中に通りかかった氷川公園を指さした。どうやらここですこし話そうと言いたいらしい。園内の自販機に立ち寄って缶コーヒーとレモンティーを買う。レモンティーを遥香に手渡した倉持は近くのベンチに腰かけ、プルタブを開けた。
となりに腰かけた遥香の鼻孔を、珈琲の薫りがくすぐる。
谷、と倉持は手中の缶コーヒーを見つめながらつぶやいた。
「それ伊織に言うなよ」
「え?」
「だから、大神と付き合ってるのかとかそういうこと。アイツたぶんそれ地雷だから」
「えェ……?」
「あいつら高校のときからそうなんだ。周りから見たら付き合ってるような感じだったけど、たぶん本人たちは気付いちゃいなかった。自分の気持ちも、相手のもな。とくに伊織はとことん色恋には疎かったから──いや、それでも気付かないフリをしてただけかもしれねーけど。……」
といって倉持はコーヒーをひと口飲んだ。
遥香はおどろいた。話の内容もそうだが、ふだん誰よりも色恋に関して距離を置きたがる倉持が滔々と他人の色恋について語っていることに、である。おどろきの目を向けられていることに気づいたか、倉持は「俺だって言いたかねーやこんなことッ」と、すこし恥ずかしそうにベンチの背もたれに寄りかかる。
「でも──やっぱりあのとき泣いたのは、好きだったからじゃねえのかな」
「あのときって」
「いやなんでもない。とにかく、あれからもう十年経ったんだ。あいつらだってガキじゃあるめーし、心のしこりなんざ水に流してよ。そのうえできっぱり昔に戻るのか、あるいはここから先に進むのか──決めるべき時が来たんだと俺はおもうよ」
もうそんな歳になったってことだな、と倉持は苦笑してふたたび珈琲をあおった。
へえェ、と遥香はさらにおどろきの声をあげる。
「倉持先輩って、意外とちゃんとしたこと考えてらっしゃるんですねえ」
「どういう意味だよそれ!」
「いやだって……先輩ってなんだか恋愛のことになるとけっこうポンコツっていうか、あっすみません。その、無頓着というか──いやその」
口をひらけばひらくだけ墓穴を掘ってゆく。
倉持はじろりと遥香を睨みつけていたが、次第にくすくすと眉をしかめてわらいだした。えへへと遥香が照れたようにわらうと「なにがおかしいんだよ」とデコピンをひとつ。アッという間に飲みきったらしい珈琲の缶を手元で遊ばせてからまもなく、彼はすっくと立ちあがった。
「帰るぞ」
「あ。……はいッ」
と、遥香はレモンティーを飲み干してあとにつづく。
都心の夜はあかるい。きらきら輝く景色を前に、倉持は眩しそうな顔をした。
「そういや谷。桜爛テニス部の問題はこれで全部解決か?」
「あっいえ、あとは部員をひとり確保する必要がありまして──でもそれは、おそらく明日には解決するのではないかと!」
「そうか。おまえ良かったなァ、なんだかんだ桜爛に赴任して、テニス部顧問になってからずっと気ィ張ってたもんなあ」
「ううっ……ホントですよ。あの老害のせいで!」
「ははははッ」
「でも、だからこそ今日はほんとうに最高の気分でした。もし明日以降、校長からなにかを言われたってわたしもう負ける気がしませんよ。だって──わたしがおもっていたよりずっと、桜爛テニス部っていろんな方に愛されているみたいですから」
「そりゃあそうだ。黄金世代と言われた俺たちが、かつて目指したところなんだからな」
倉持はそう言ってぐっと伸びをした。
改札前で別れるとき、彼は遥香に対して
「桜爛テニス部を頼むぜ」
と言った。
そうだ、まだ問題が解決したわけではない。明日が勝負どころだと遥香はじぶんの両頬を叩き、気合をいれた。
※
一方、こちらもまた気合を入れている。
伊織はサテン生地のシャツを腕まくりして、キッチンシンクに重なりあった食器の山をにらみつけた。その正面では、松葉杖をソファに放って左足を引きずりながらリビングダイニングを歩きまわる大神のすがた。
アメリカ帰りのため、詰め込んできたスーツケースの荷物を整理したいらしい。たまに膝が崩れるのもかまわずにキッチンへ来たりパウダールームへ行ったり──。気が散るやら心配やらで、伊織はそんな大神を怒鳴りつけてソファに座らせた。
「安静って意味知ってる!? ええからおとなしくして!」
「あとこれだけだって」
「わかったから。洗濯物くらいうちが洗濯機突っ込んどいたるから。ええからトイレ以外でソファから立たんで。ウロチョロされると気が散ってしゃあない」
といって伊織は皿やグラスを手あたり次第に食器洗い機へつっこんだ。
そもそも──この部屋の惨状は妙だった。
およそ十ヶ月ぶりの今日、部屋の主が帰宅したにも関わらず、なぜかキッチンには山盛りの使用済み食器が水に突っ込まれたまま放置され、リビングダイニングにはトロフィーやら大量の空き缶などが散らかっているである。高校時代には部室掃除をまめに指揮したほどの綺麗好きな彼が住む部屋とはおもえない。
大神はごろりとソファに寝転がった。
「今日の昼に帰ってきたらこうなってた。なぜだとおもう?」
「知らんがな」
「俺にもさっぱり分からねえ」
「…………」
なにが。
なにが「ゆっくり話そう」だ、と。伊織はスポンジでシンクを磨きあげながら心中でぼやく。あのとき不覚にもドキッとしてしまった自分が恥ずかしいやら憎らしいやら、磨く腕に力がこもった。
十年逃げてきた。
いい加減、彼のことばを聞くときが来たのかもしれない──と心も覚悟を決めたというのにこのザマだ。まったくムードもなにもあったものではない。そう考えるうちにだんだん、話などは口実で実は掃除をさせるために招き入れたのでは、とおもえてきた。
「家を出る前のこと思い出したら?」
「十ヵ月も前だぞ、無茶いうな。それより」
大神が、ソファから立ち上がる。
対面キッチン前のカウンターテーブルに寄りかかって、伊織の顔をじっと覗き込んだ。もうこの端正な顔にはだまされまい、と伊織はぎろりと睨み返した。
「コラ。ソファに座っとけって言うたや──」
「おまえ、婚約したって?」
「…………」
え?
ということばすら出なかった。
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