第9話 やります!

 大神はさらにつづける。

「高校卒業後まもなく携帯ぶっ壊して連絡手段が消滅。大阪で知り合いのテニススクールコーチを続けていたところ、広島尾道のスクールから引き抜かれて移住。それからまもなく、尾道向島にいる男と出会って足掛け四年の交際、のち婚約。なかなかおもしれー人生じゃねーの。合ってるか?」

「な、な…………」

「あ。民宿の息子だってな」

「ホンマに待って、ちょっと!」

 と、伊織は手中に握るスポンジを放り出して、対面キッチン越しに泡だらけの手で大神の腕をつかんだ。彼はそその状態でわずかな笑みすら浮かべて伊織を見下ろす。

 うつむく伊織の耳が真っ赤に染まった。熱を払うかのように思いきり顔をあげて、腕を掴む手に力を込めた。

「だれに聞いたん」

「テメーの父兄だよ。去年こっちで日本人プロのエキシビジョンマッチが開催されたとき、大阪で会った。兄貴の方は現役だからとうぜんとして、親父さんの方は引退してずいぶん経つのに相変わらずすごかったぜ」

「…………」

 伊織は天井を仰いだ。

 人はだれしも生きてゆくなかで、できる限り話題に触れたくない人物というのがいるものである。──伊織にとってはそれが、実父と異母兄だった。

 なにを隠そう父は、世界ランク十三位まで昇りつめた元プロテニス選手如月蓮十郎であり、その息子である如月千秋もまた、現在飛ぶ鳥を落とす勢いでランクをあげる現役プロなのである。それを知れば、周囲は十人が十人こう言うのだ。

「自慢の家族ね」

 と。

 とんでもないことである。彼らを自慢におもったことは一度もない。名声があるゆえ、名前を出せばなにかと周囲に顔が利くのは便利だが、家族としての思い入れはそれほどない。

 悲しんでた、と大神はからかうようにわらった。

「親父さんなんか周りから話は入ってくるのに、肝心の本人がまったく家族に無関心だっつってよ。挙句『音信不通だった娘から急に連絡が来たとおもったら、『婚約した』って報告でビビった』って」

「…………」

 たしかに。

 厳密にいうと、伊織はすべての連絡手段をうしなったわけではなかった。そもそもがテニスコーチとして雇ってくれたオーナーだって父の友人であり、スクールへ引き抜いたのも父の知り合いだったのである。彼らに聞けば容易に父の電話番号を聞くことはできた。

 それでもしばらく音信不通のままでいたのは、必要性を感じなかったからで、またこのように、父づてで才徳学園の旧友たち──とくに大神──と繋がりを持ってしまうことを恐れたからでもある。

 伊織は力なく手を離す。

 それで、と大神がちらりと伊織のスーツケースへ目を向ける。

「どうしたんだよ。マリッジブルーで帰ってきたか?」

「…………」

「さすがのおまえでも、結婚となると里帰りしたくなったか。わざわざ大阪じゃなく東京まで──」

「…………れた」

「あ?」

「断られた。一週間前」

「…………」

 大神が固まる。

 反対に伊織の顔はどんどん冷静になっていった。

「一言一句おぼえとるがな」

「あン?」

「『好きな奴がおる。君も知っとる、おれの幼馴染みで、いま思えば昔からどんなときもそばにいてくれたやつやった。伊織との結婚が近づくにつれてホンマの気持ちに気付いたんや。アイツ以外との結婚が考えられへんくなった』」

「──そ、そうか」

「『ごめん、勝手なこと言うてるのは分かっとる。君とおってホンマに楽しかった。でもやっぱりこの気持ちのまま伊織と』」

「わ、分かった。もう分かった」

「『結婚なんかできんッ、心ばかりやけどこれは君を傷付けた詫びや。受け取ってくれ!』」

 と。

 伊織は泡だらけのスポンジを大神の眼前に突きつける。ポタ、ポタとシンクに落ちる水滴がむなしく響くほどの静寂。大神は気まずそうに目を閉じた。

「……わるかったよ」

「なにが?」

「いや、」

「別にええよ。マリッジブルーとか結婚とか行き遅れとかええ歳して出戻りとか惨めとか言うたことくらい気にせんでよ」

「そこまで言ってねーだろ!」

 伊織も、ひととおり吐き出してスッキリしたらしい。憑き物が落ちたような顔でスポンジの水を切った。

「そういうわけで、家も職も恋も失うてまざまざと東京砂漠に戻ってきたの。ま、職に関しては桜爛のコーチにありつけたわけやけど──それでも収入安定させたいし、またどっかスクール見つけてコーチの仕事でもとおもって」

「家も職もって……如月さんのところには帰らねえのか。あの人なら快く受け入れるだろ」

「うちがイヤや。いまさら、分かっとるやろ」

「じゃあどうする」

「もろた慰謝料でホテル暮らしでもしつつ、部屋探すつもりで──あっ。今日は谷ちゃんちに泊まらせてもらうつもりやったのに、置いてかれた!」

 と、伊織の顔がひきつった。

 おもえば連絡先すら交換していない。遥香だけではない、倉持もだ。大神ならば倉持の連絡先はとうぜん知っているだろうが、そこから遥香へ繋げてもらうのも面倒くさい──と伊織が逡巡する。それを見た大神はポケットから携帯を取り出してなにかを操作したのち、カウンターに伏せる。それから対面キッチン上部の壁に手をかけてグッと伊織に顔を近づけた。

 伊織、と言ったその顔はたのしそうに歪んでいる。

「なに」

「家と金がいっぺんに手に入る仕事、紹介してやろうか」

「エッ。ホンマに?」

「ああ」

「怪しい仕事ちゃうやろな。タコ部屋とかイヤやで」

「怪しくねえよ。住み込み三食飯つきのうえリラクゼーションサービスもついてる。仕事は住み込み先の世話役で、日当は──」

 大神は左手で人差し指を一本立てた。つまり一ということだが。伊織は目を剥いた。

「一万ッ?」

「家賃も光熱費もかからねえでその額だ。わるくねえだろ」

「えーするする。なんでもするっ。世話役って家政婦みたいな感じやろ。大丈夫、料理は中華が多めになってまうけど……民宿の手伝いもしてたし、掃除洗濯はバッチリやで!」

「そりゃたのもしいな。ついでに言うと、雇い主は怪我をしているんだ。リハビリやらなんやらで同行業務も必要になる。もちろん、桜爛のコーチ優先でかまわねえが」

「ええがなええがな! そんなんはどうとでも──怪我?」

「たまには晩酌に付き合ってもらうこともあるだろうな」

「まって」

「雇い主が退屈しねえよう、おもしれえ話は欠かすなよ。あと」

「それ、それは。雇い主って、」

「──その雇い主ってのは三人兄弟の末っ子でな。じつはけっこう打たれ弱いところがある。リハビリで挫けそうな心のケアも、ぜひともお願いしてえもんだぜ。なあ?」

 にっこりわらった大神に、伊織の眉がぴくりと動いた。まさか。いや、間違いない。この男、自分の身の回りの世話役として雇う気だ──。

 いくら好条件とはいえ同級生(しかもすこし気まずい相手)と雇用関係を結ぶのは、のちのちややこしいことになりかねない。伊織はやっぱりことわろうとあわてて口を開いた。

 が、そのくちびるに大神の指が二本、押し当てられる。二──?

「日当二万で考えてやってもいい」

「やります! ……」

 あ。

 と口を開けどもう遅い。大神はにっこりと携帯をヒラヒラと振った。画面にはボイスレコーダー機能が作動している。


 ──日当二万で考えてやってもいい。

 ──やります!


 やります──という元気のよい返事に、伊織の脳裏でエコーがかかる。

(こ、このやろ~~~ッ)

 伊織はじとりと大神をにらみつけた。

「部屋はリビングのとなり、空いてるベッドルームがあるからそこ使え。ここからなら桜爛だってそう遠かねえだろ」

「…………」

「とりあえず明日朝一で、雇い主を病院へ車で乗っけてくれ。たのむぜ」

 再会してから今まででいちばん無邪気な笑顔を向けられる。

(勝てない)

 ──この男には。

 高校時代に幾度となく感じた思いを、伊織は十年越しにふたたび感じ入った。

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