第7話 特別な男

 よくも悪くも、この男は伊織の『特別』だった。

 かつて才徳学園創設以来の逸材と称され、同学園のテニス部を全国大会初優勝にまで導き、いまや十連覇の王者として君臨するまでの土台をつくりあげた才色兼備な彼──大神謙吾おおがけんごは、テニス一辺倒であった伊織の青春時代を語るには欠かせない人間である。

 いまおもえば──恋をしていた。

 伊織だけではない。きっと彼に関わったすべての人間が彼に恋をしたはずだ。それほど彼の魅力は底知れないものだったのだから。けれど当時の伊織は『好き』という気持ちがわからなくて、安心感とわずかな胸の高鳴りを抱きながらマネージャーとしていつも彼のとなりを歩いた。

 それでよかった。そのままでよかった。

 高校三年の夏、部活を引退する際にプロになる宣言をした彼を、友人として支えてやろうとさえおもっていた。だから卒業式のあの日、謝恩会を終えた足でアメリカに発つという彼を笑顔で送り出すため、倉持含むテニス部の同級生とともに空港まで見送りに行ったのだった。

 彼は律儀に、ひとりひとりと別れの言葉を交わした。

 それが自分の番になったとき、伊織はようやく知ることになる。心臓を絞られているのではないかというくらいに、あんまり胸がくるしくて、痛くて──とてもじゃないが笑顔を浮かべることはできなくて。

 だまってうつむく伊織を前に、彼はなにも言わなかった。


 言わぬまま──伊織のくちびるに口づけを落とした。


 おどろき見ひらいた双眸からこぼれる涙。

 歪む景色のなか、搭乗口へ消えゆく彼の背中と、唖然と固まる仲間たちの顔だけがなぜか鮮明に見えたのを、いまでもおぼえている。

 あれから十年。

 あのキスの意味を伊織はまだ知らない。

 知っているのは、あのとき感じた胸のいたみが『せつない』という名前だったことだけ。恋に初心者だった伊織にとって、その感情は重すぎた。だから逃げ出した。キスの意味など知らなくて良かった。会いたくなかった。──会いたく、なかったのに。


「──…………」

 言葉が出ない。

 からだも動かない。蛇ににらまれた蛙のような伊織を前に、大神はふたたびシルバーに乗ったカクテルグラスを顎でしゃくった。どうでもいいから早く取れと言いたいらしい。伊織はあわてて彼の手からシルバーごと受け取った。

 アプリコットフィズとキャロル──伊織はカクテルに明るくない。シルバーに乗ったふたつのグラスをじっくり見つめる。ひとつは炭酸仕立てで、もうひとつにはチェリーが沈んでいる。決めかねてちらりと大神を見ると、彼は左足を庇いながら革のソファへ深く腰掛けるところだった。

 察したか、大神はグラスを指さした。

「アプリコットフィズはベースにアプリコットブランデー、そこにレモンジュースとソーダ水、シュガーを入れてる。キャロルはブランデーとスイートベルモットだ。くわえてここのはマラスキーノチェリーが沈んでる」

「……呪文や」

 と不可解な表情を浮かべた伊織に、大神は「どこがだよ」とちいさく吹き出した。

「飲みやすいのはアプリコットフィズかな。……キャロルは強いが味はいい」

「うち洋酒分からん、半分こせえへん?」

「ああ。かまわねえよ」

 といって大神は微笑した。

 その返しを聞いて伊織の胸がドキンと跳ねる。彼の口癖だった。というのも彼はなにかと『してやりたがり』な性格で、伊織にかぎらず部員の頼みを聞くと、たいていその言葉を言っていたのである。

 伊織は諦めたように対面へ腰かけた。

 あらためて正面から大神を見る。齢二十八にして、プロテニス世界ランク十二位という快挙を成し遂げた彼は、高校時代に比べると胸板が広くなり体格もしっかりしたようだ。当時から大人びた顔つきだとはおもっていたが、さらに男らしい凛々しさも加わった。

 憎らしいほど、誰もが見惚れる色男に成長している。

 伊織はちいさく舌打ちをしてアプリコットフィズに口をつけた。

「あっ。ジュースやこれ」

「ブランデーの味するだろ」

「うーん?」

「……味音痴」

「うるさい」

 つぶやいて、伊織はほうと深く息を吐いた。

 不思議なもので、ひと言交わせば十年の空白などなかったかのようにすっかり気分はあの頃にもどっていた。大神もおなじことを考えていたらしい。キャロルをちびりと呑みながら、その瞳は楽しそうに弧を描く。

 ふつうに考えれば、と伊織は居心地わるそうに腕組みをした。

「倉持クンが、待ち合わせ場所にココを指定してきた時点で気付くべきやった」

「あン?」

「おかしいやろ。地方公務員が赤坂の高級タワマン併設のバーラウンジに顔パス利くって──倉持クンの友人でこんなどえらい場所に住めるような奴なんて、アンタのほかにいてへんもん。家賃いくら?」

「家賃は知らねー」

「え。ま、まさか買うたん」

「ああ、オフシーズンだけの帰省場所だ。将来、プロ引退したら売るつもりだけどな」

「なんで!」

「オフシーズンのみとはいえ、この東京砂漠がどうも肌に合わねーんだよ。利便性かんがえて都心に買ってみたが──しくじったかな」

 と大神はつまらなそうに夜景を見下げる。

 彼の実家はかなりの資産家である。大神謙吾は三人兄弟の末っ子としてアメリカで生まれたが、彼が中学三年生の秋ごろに神奈川へと越してきて才徳へ入学。三年間の高校生活ののち、大学へ通いながらプロの道を目指すためにふたたびアメリカへ戻ってスタンフォード大学へ入学した。

 そこから先は伊織もよく知らないが、最近の彼については、プロテニス界の話題が出るたびに嫌でも耳に入ってくる。

 今朝の新幹線でもそうだった。

 そのときの会話を思い出し、伊織は身を乗り出した。

「怪我、……」

「ああ、膝の靭帯が切れた。向こうで手術は済ませたからあとはリハビリするだけだ」

「痛い?」

「いや。ただ」

 大神は苦笑してアプリコットフィズに手を伸ばす。

「リハビリが地獄なんだとよ。やんなるぜ」

「とかいって、大神に乗り越えられへん壁なんかないやろ」

 と、伊織はキャロルに手を伸ばす。

 すると大神にその手を掴まれた。ドキリとした。おそるおそる顔をあげると目が合った。こころの奥底まで見透かされそうなほど、強い瞳。しかしまもなくふっと視線を落とす。その一連の表情があまりに端正で、伊織は不覚にもみとれた。

「場所を変えるぞ」

「え?」

「家に来い、ここの下だ」

 大神はゆっくりと掴んだ手を離す。

 とまどった顔の伊織にすこし寂しそうな笑みを浮かべて、


「十年ぶりなんだ。ゆっくり話そうぜ」


 といった。

 その提案に対して、間をおかずにこくりとうなずいた自身に伊織はおどろいた。

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