第6話 バーでの再会
東京赤坂の高級タワーマンション最上階に、都心の夜景を一望できるバーラウンジがある。基本的にはマンション住民のみの特権だが、住人から前もって『友人の使用がある』と声をかければ問題ない。
バーの一角。
この高級感にまるで似合わぬ三人の男女が合流した。ほかに客のすがたはない。バーのマスターは暇なのか、すでに磨かれたグラスをさらに磨き上げている。
入口を背に座った伊織と谷遥香の正面には、短髪にくたびれたスーツを着た
「俺、もう顔パスなんだ。さんざん来てるから」
と、嬉しそうに笑みを浮かべて。
──先ほど、マンション前で倉持と合流した伊織は、顔を見るなり彼を熱く抱きしめた。
そのスキンシップを見た遥香はおどろいた。倉持慎也という男は、大学時代からベタベタと女に触れられるのを嫌っていた。しかし突進に近いいきおいで抱きつかれた倉持はキレるどころか、あやすように伊織の背を叩くと目頭を抑えたのである。
(なになになにっ。どういう関係!)
遥香は目を剥いた。
恋人という色っぽい間柄には見えないが、聞いていたようなただのクラスメイトとも思えない。
バーのソファ席に落ち着くや、あらためて互いに微笑み合うふたりのようすに、遥香はわけもなくドギマギした。
一瞬の沈黙。のち、
「俺は怒ってるぞ、バカ伊織」
と口火を切ったのは倉持だった。
言葉のとおり怒気を含んだその声に、伊織は身体をちいさくしてうつむく。なにがあったのかと遥香が尋ねる前に倉持はつづけて言った。
「十年だ。高校卒業してから、俺たちにはともかく家族にまで音信不通だったって聞いたぞ。──生きてるか死んでるかの連絡も寄越さねえで、どれだけ俺たちが心配したか分かってんのか」
「…………」
「どうしてそんな、逃げるみたいな真似したんだ。そんなに俺たちと縁を切りたかったのか?」
「ちっ、ちゃう。それはちがう!」
伊織があわてて顔をあげた。
「ごめん──たしかに、こっちに帰らんようにしてたのはわざとやけど、でも連絡先消えたんはホンマにわざとやないねん。携帯ぶっ壊れたらデータ全部飛んで、親の電番すら分からへんかってん。それで携帯新しくしたら番号変わってもて」
もう詰みや詰み、と泣きそうな顔で弁明する伊織を前に、釈然としない顔で倉持はソファの背もたれに寄りかかる。
「んなこったろーと思ったけどよ、ったく」
「ごめんね。でも、ホンマはずっとみんなに会いたかったんよ。ホンマに」
「ああ。ま、──過去のアレコレは俺からわざわざお前に問いつめる理由もねえしな。元気そうな顔、いま見られたから。もういいよ」
「……うん」
伊織がホッとしたようにわらった。
すこしピリついた空気を変えるように、倉持がパンッと手をたたく。
「それよりっ、おもしれーことになってるじゃねえか。あの落ちぶれた桜爛テニス部コーチをお前がつとめるって?」
「いやもう──成り行きの成り行きが重なって、なぜかそんなことに」
「いやはや早合点してしまってお恥ずかしいです──」
遥香は苦笑した。
それをフォローするかのように、伊織が微笑み首を振る。
「ま、先日までやってた仕事もテニスコーチやったし抵抗はないけどサ」
「あっ。そういえばさっき高宮雅久くんのお友だちが入部云々って話になったときも、そういう子のコーチは慣れてるって言ってましたね!」
「うん、ふだんは普通にスクールのコーチやってんけど。……月一でな、少年院の矯正教育プログラムのスポーツ科目に呼ばれてん。ふつうは、種目なんてだいたいサッカーとかラグビーとか、団体競技が多いんよ。それで協調性とか磨くって意図があんねやろね。せやけど、まあ最近世の中がテニスブームやからって種目にテニスを追加したんやて。すると外部講師が必要となるねんやんか」
「それで、おまえが?」
「そーゆーこと。月一やったけど楽しかったで。少年院にいてる子ォいうても、テニスしとったらそこらの学校でテニスしよる子となんも変わらへん。みんなキラキラ楽しそうでこっちまで嬉しくなってもた」
伊織はクスッとわらう。
そんな月一の楽しみも、先日の婚約破棄にともなうスクールコーチの離職によって過去の話となったわけだが。──と、ここ数時間のバタバタによってすっかり忘れていた現状がふたたび脳裏を掠め、伊織はムッと眉をしかめる。
しかし倉持はおかまいなしにスゲエ、と瞳を輝かせた。
「少年たちの更正に一役買ったのか。たしかにおまえ、昔から物怖じするようなタイプじゃなかったけど──それでも誇らしい仕事じゃねーか」
「そんな月一で大げさな」
「大げさなもんか。でもそれだと、今後は桜爛のコーチとそれと二足の草鞋でやってくってことか」
「いやそれは……いろいろあって、うちいま家も職もないねん」
「え」
と、倉持と遥香が同時に発した。
さらに遥香はどうしよう、と眉を下げる。
「うちのコーチはあくまでも副職的な報酬しか出ないんです。あの野呂コーチだって、専業はほかにあったんですから」
「それは当然やろ、テニスコーチって職業の相場はどこ行っても安いんよ。慰謝料尽きる前に早いとここっちで仕事探さへんとな──ああ、あと当分の住処もか。はー」
という伊織のつぶやきに倉持が「慰謝料?」と眉をしかめた。
いやなんでもない、と食い気味で否定してから、伊織は遥香にむかって合掌した。
「せや谷ちゃん、とりあえず今日のとこ泊めてくれへん? 明日になったら宿探すから!」
「そ、それは構いませんけど──なんてったって桜爛の救世主ですからね」
「うわーおおきにッ。それより、谷ちゃんと倉持クンの話も聞かせてえな。ふたり付き合うてんの?」
「は!?」
「だッ──つ、つきあってませんよッ。フツーに大学の先輩後輩ですッ」
言いながら遥香の頬が真っ赤に染まった。
怪しいな、と伊織の口角があがる。それを否定する遥香の声にさらに力が込もった。
「教職課程でいっしょになってから教育実習のレポートとかもずいぶんお世話になって、それだけです! それに卒業してからはそんなに接点なかったんですよ。けど今回、テニスが絡んでいることもあって……先輩が大学のテニス部でもエースだったの思いだして、コーチを引き受けてくれそうなご友人とか知ってるかもって泣きついちゃったんです」
あらためてお世話になりました、と遥香は深々とお辞儀をした。たしかに、倉持の面倒見の良さは高校時代から顕在していたっけ──と伊織も納得した顔でうなずく。
とはいえ遥香からすればふたりの関係性の方が気になった。
ほんとうにただのクラスメイトだったのか、と問うと倉持はニカッとわらった。
「コイツ二年の後期からうちのクラスに転入してきたんだ。それからすぐに男テニのマネージャーになって、三年でもおなじクラスになったから──ほかの奴らよりはよく話したな。まあとにかく濃い部活だったからよ、部員はみんな仲良かったんだよ。……」
といって倉持はソルティドッグに口をつける。
つづけて神奈川県下の体育教諭になった彼が現在、当時二、三年次の担任だった教師と肩を並べて授業をしていることを告げると、伊織はたいそう嬉しそうに手をたたいた。
が、しかし。
遥香は見逃さなかった。彼がさきほど『部員』ということばを発した瞬間、伊織のからだがわずかにこわばったことを。とはいえそれを問う勇気はない。
ひとしきり思い出話に花を咲かせた倉持がちらと時計を見るや、
「まあこっちはだいたいそんな感じ。……」
とすこし緊張したような顔をした。
つられて遥香が時計を見る。当初予定していた会合の時間、午後八時の十分前にさしかかるところだった。そう。本来ならばここから桜爛テニス部のコーチをどうするかという相談をするはずだったのである。ほんとうに今日は奇跡的なめぐり合わせだったなぁ、と遥香が手元のウーロン茶をうっとりと見つめた。
──ところで気がついた。
あれっ、と遥香が顔をあげる。
「先輩」
「うん?」
「七浦さんはまったくの別件で今日たまたま桜爛に来たんですよね。ということは今日、こうして会合するはずだった本来の方は七浦さんじゃない、ってことですよね」
「え、ああ。──」
「事前に何度か倉持先輩づてでご相談してしまっていたし、一度結果もふまえてきちんとご挨拶させていただきたいんですけれど。いったいどなたですか、今日って予定通りここに来られます?」
「ああ──それは、その」
「なんや、ここでだれかと待ち合わせしてたんか。いやおかしいなー思うてん、こない高そうなバーの常連さんなるなんて倉持クンもずいぶん羽振りがええんやなあって。でもたしかここって、マンション住民がいっしょおらんと入られへんとこやんな!」
「あ、うん。それはそう──……………」
言いかけた倉持の視線が、ラウンジの入口に注がれる。
次の瞬間、彼は椅子の背もたれにかけていたスーツの上着を手にとり、すっくと立ちあがった。
「伊織」
「ん?」
「おまえ──逃げんなよ。今度こそ」
「え」
「谷、ちょっと来い」
「え?」
「いいからッ」
というや倉持は乱暴に遥香の手をとると、バーから一目散に出ていく。あまりの急な出来事にひとり置いていかれた伊織がぽかんと虚空を見つめる。すこし離れたカウンターの奥でマスターの「お早い御着きで」という渋い声とともに、カクテルグラスがカチリとぶつかる音が聞こえた。
伊織がワンテンポ遅れて「ちょっと」と立ち上がりかけたその時だった。
「おっと」
だれかのからだにぶつかった。
視界に入ったのは左手の松葉杖と、右手のシルバーに載せられたふたつのカクテルグラス。飲み物は無事だが怪我人にぶつかってしまったらしい。謝罪しようと顔をあげた伊織の動きが、止まった。
形の良いくちびるに通った鼻筋、切れ長で大きな奥二重の瞳に柔和な眉。ライトの下でキラキラと光る栗色の短髪──。
「アプリコットフィズとキャロルがある」
男は言った。
「さあ選べ」
伊織の顔から、一気に血の気が引いた。
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