第2話 七浦伊織と申します

 ────。

 事の起こりは一週間前。

 東京都高等学校新人テニス選手権大会都高校新人戦の団体戦が終わったあとすぐのことです、と高宮凛久たかみやりくは涙ながらにうったえた。三人はいま、コート内のベンチに並んで腰かけ、伊織が自販機でおごってやったジュースを片手にまったりとなごんでいるところ。

 うちのコーチ、としゃくりあげながら凛久はつぶやいた。

「野呂っていうんですけど。そいつマジでクソなんです。もうほんとひどくて、ひど──う、うぅ……うぅうああァ」

「うん、わかった。蓮くんに聞こか」

 伊織は、となりに座る相田蓮あいだれんに向き直る。

 まだ残暑の残る秋空の下、蓮はコーンポタージュの缶を逆さにして底をパコパコ叩いていた。あんぐりと開けていた口をゆっくり閉じる彼の視線は、恨めしそうに缶のなかへ注がれたまま動かない。

「うーん、おれテニス部じゃないんで詳しくないけど」

「まって」

 初手、話を止める。

「テニス部ちゃうのキミ!?」

「あ、まあそこはいろいろ事情があるんす。とにかく一週間前、その野呂っていうコーチのやり方に対して部員の不満が爆発して──キレた一年が、野呂を解任してほしいって顧問の谷先生にお願いしたらしいんですよね」

「そんなひどいん」

「はあ。コイツが言うには徹底的な年功序列型練習らしいんす。オーダーもそう、実力より年功序列。それでも一年は、それこそまだ一年目だし外周だけでも我慢してたんだけど、この間の都新人団体戦で練習優遇されてた諸先輩方が──初戦敗退したもんだから」

「いまなんつった」

「え?」

 と、蓮がおどろいたように顔をあげた。

 伊織の声がするどくなったからである。怒らせたのか、という蓮の予想をよそに、当の彼女はひどく狼狽していた。

「新人戦で初戦敗退──桜爛が?」

「ハ、ハイ」

「…………」

 十年前まで。

 桜爛大附が新人戦初戦で敗退した、などという話はエイプリルフールのネタにも使えぬほどありえない話だった。たしかに十年前の全国大会では決勝で惜敗したが、とはいえ都大会レベルならば桜爛にかなう学校はないはず──。初戦の相手がよほど強かったとでもいうのだろうか。

 という伊織の感情が顔に出ていたらしい。蓮は首を振った。

「ちなみに初戦相手はフツーに二回線で敗退したらしいすよ。まあ、だからなおさら一年が怒ったわけだけど──とにかくそれで解任要望をあげたら、その野呂が」

 蓮曰く、野呂の言い分はこうだ。

 『自分以外に指導適任者もいないテニス部が機能するわけがない。廃部が嫌ならいうことを聞け』

 と。

 三年はすでに引退、二年はもともと幽霊部員が多かったうえ、試合に負けたことでやる気を失ったかほとんどが退部した。かつての桜爛にあこがれて入部した、やる気にみなぎる一年坊主たちもテニス部に失望。野呂にコーチされるくらいなら桜爛テニス部を見限ってでも他所でテニスをやるという部員が続出し、一年生の退部が相次いだ。ただひとりの生徒を除いて──。

 コイツだけは、と蓮の視線は凛久へと向いた。

「あの王者桜爛テニス部を廃部させるわけにはいかないって、いまもテニス部に所属してる状態なんです。でも一週間前、こんだけ部員が辞めたから学校側も部活存続を検討せざるを得ないって話を谷先生にしたらしくて」

「ヤバいやん」

「ヤバいすよ。部活継続の絶対条件は今月中に『メンバー四名以上と顧問・指導者を確保する』こと。だからまあ、こうしてテニス未経験のおれがサクラで練習付き合ってるんス。それでもまだふたり足りねーんだけど」

「今月中って、今月もう明日までやけど。……顧問はどうすん」

「谷先生がひき続き引き受けるって言ってくれたんです。ただテニス未経験だから指導者にはなれないし──教員としても新人だから、これまで実権握ってた野呂に強く出られなくて」

「部員は、キミらふたりだけなんやろ。あとふたりは?」

「……とりあえず、ひとり」

 蓮が気まずそうに凛久を見た。

「宛てはあるんですけど──クセの強いヤツなんですよね。野呂がいるうちはまず入らんだろうなっていう。だからとにかくまずは新しい指導適任者を連れてきて、野呂とそいつを説得させるしかないかなって。もうひとりは影もなし」

「…………」

 かつて全国大会の王者に君臨し続けた桜欄テニス部の栄華も名誉もいまや面影なし。これまでも数々のOBが練習のために訪ねてきたそうだが、すべてを部外者とみなして野呂が追い返してしまったため、いまでは訪ねてくる卒業生もいないのだとか。

 ていうか、と伊織はとぼけた顔で拳を握った。

「その野呂とかいうヤツをボコボコにしたったらええやん」

「え、お姉さんスラム出身すか。暴力はダメでしょ」

「ちゃうわアホ。テニスでボコすに決まっとるやん。昔から浪速のストリートテニスキッズたちはな、勝負事があるとかならずテニスで勝負しとってん」

「新人戦を初戦敗退するような部に、そんな腕の立つヤツがいるわけないじゃないすか。一応野呂だってむかしはなんかの大会で好成績とってたっていうし──」

「蓮くんは初心者として、凛久くんはどないやねん。桜爛テニス部にずいぶんこだわりあるみたいやけど」

「さっきの基礎練見たでしょ。オレだって高校からの初心者っすもん──」

「初心者しかいてへんのかい!」

 と、伊織が背を仰け反らせたところで午後三時を知らせるチャイムが響く。今日は土曜日。他の運動部はほとんどが午前練のみのようで、校内に生徒のすがたはほとんど見えない。

 そういや、と伊織はハッと姿勢をもどした。

「さっき谷先生が呼んだ指導適任者とか言うてたな。谷先生、探してくれてはるん?」

「は、はい。でも──もう無理かも。リミットは明日だし」

「うーん、指導適任者なあ」

 と、伊織がふたたび背を仰け反らせる。

 そのときコートの外から「あらっ」と若い女の声がした。一同の視線がフェンスに向けられる。そこには、髪をハーフアップにまとめた女性教諭が目を丸くして伊織を見つめている。

 谷先生、と蓮が頭を下げた。

 ──彼女が桜爛テニス部の新任顧問、谷遥香だという。

 彼女はパッと笑みを浮かべ、あわてて靴を脱ぎ捨てると、ストッキングの足でコートにあがり、うれしそうに伊織のもとへ駆けてきた。

「あっ、あの!」

「あ──すみません。決して不審者というわけではなくてですね、そのう」

 あわててサングラスを押し上げた伊織の腕をガッと掴んで、遥香は泣きそうな顔でさけんだ。


「あなたが先輩の仰ってた指導適任者候補の方ですかッ」

 と。


「…………」

「やっぱり! ああもう、なんだ先輩ったら──高くつくとかいうからどんなヤクザな人かとおもったら、こんな綺麗な人だったなんて。しかも顔合わせ前にわざわざ様子まで見に来てくださるなんて嬉しい! うふふっ」

「えっ、や」

「なんだよ。やっぱりお姉さん指導適任者の人だったんじゃん」

 と、蓮が興味なさげにコーンポタージュ缶チャレンジを再開する。

「いやちょっと」

「えーっ。なんだだったら早く言ってくれないと! ねえ谷ちゃん、この人マジで教え方上手いんだよッ。マジのマジに指導最適任者だよッ」

 凛久も、さっきまでの涙はどこへやら。

「おーい」

「そうだっ、まだお名前お伺いしてませんでしたね。わたしが相談元の、谷遥香です!」

 といって、谷遥香はぴょこんとたいそう可愛らしくお辞儀をした。

 伊織の喉がグッと絞られる。

 声を出そうにも口はパクパクと開閉するのみで、声が出ない。やっとの思いで絞り出したことばは、

「な、七浦伊織と申します──」

 という一言のみだった。

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