第一章

帰ってきたアイツ

第1話 助けてください

 ──ごめん。

 ──勝手なこと言うてるのは分かっとる。

 ──君とおってホンマに楽しかった。

 ──でもやっぱり、……


 カンッ。

 蹴飛ばした小石が、路肩に停まった車のドアシルに当たる。

「…………」

 黒塗りで重厚な車体は見るからに高級車で、傷ひとつ見当たらない。ゆえに小石が当たった箇所に生じた、わずかに爪でかいたような瑕がよく目立った。幸か不幸か、車の所有者は不在らしく周囲も人っ子ひとり影はない。

 小石を蹴飛ばした張本人はいっしゅん考える。直後高らかにヒールを鳴らし、スーツケースを引きずって足早にその場をあとにした。

 コツコツコツと速いテンポを刻むハイヒール──とはいえ、急ぐ用はない。どころか行く先もない。いまはただおのれの人生をじっくり悲観する時間と場所さえあればよかった。

 彼女の名は七浦伊織。

 なんてことはない。つい先日、婚約破棄されて恋も家も職も失っただけの三十路女である。

「うるさいッ」

 さけんだ。

 脳内モノローグに茶々をいれる余裕はある。というか、そうでもしないと心が折れてしまいそうで、なんでもいいから罵倒を吐きたかったというのが本当のところ。

 ちなみに三十路と括ってはいるが、一応まだ二十八である。

「うるさいったら!」


 ──四年前。

 仕事の都合で赴いた海と山と無花果しかないちいさな島で、ひょんなことから出会ったひとりの青年。島生まれ島育ちのわんぱくなところに惹かれ、あれよという間に付き合った。

 四年という長い時間をともに過ごし、ひと月ほど前に婚約した矢先のこと。いったいどういう経緯があってか、青年は突然「忘れられないヤツがいる」といって「どんなときもずっとそばにいてくれた」らしい幼馴染みとあっさり付き合ってしまったのである。

 向こうからすれば稀代の大恋愛だったのだろうが、フラれた方からすれば迷惑もいいところだ。同棲は解消し、島にも職場にも居辛くなって仕事も辞めた。

 手元には、結婚資金にふたりで貯めた金。相手から慰謝料として強引に押し付けられたものである。

(正直、これを受け取るまではドッキリかとおもってたけど──)

 ようは手切れ金だ。

 四年分の情を金ひとつで清算され、伊織はいよいよ立つ瀬がなくなった。帰郷先にまよった挙げ句、おぼつかない頭は無意識に東京駅までの切符を求めていた。そこから地下鉄に乗って数十分──すこしばかり土地勘のあるこの地に、およそ十年ぶりとなる帰郷を果たしたのである。


 桜並木と煉瓦路。

 川のせせらぎをBGMにこの路をゆくと、ひらけた場所に出る。ここが文武両道で有名な名門桜爛大学と附属の中高校。ずらりと立ち並ぶ煉瓦造りの校舎は、周囲の喧騒がかき消えるほどうつくしい。

 蔦の伝わる柵が、校舎をぐるりと囲むようにそびえ立つ。この先を曲がれば桜爛大附名物──十面テニスコートである。数十年前に王者となってからコート周りの柵を取っ払い、通行人にもその練習風景が見える造りに変えたという。全国大会連覇を誇った当時は放課後練習の際にも一般観衆がつめかけたとか。

 とはいえ、それもいまはむかしのこと。

 今ではテニスコートを囲むフェンス正面に飾られた石造りの花壇に、ぽつんと腰かける伊織がひとり。……と、もうひとりいた。制服姿の男子生徒がすこし遠目から冷めた目でテニスコートを眺めている。

「…………?」

 気を取り直して、視線をコートへもどした伊織がなにより驚いたのはコートの使用率である。

 十面のうち、練習中のボールが転がっているのが手前の一面のみ。しかもコートに立つはたったふたりの学生だけでほかに人影はなく、ひとりはカートに乗せたボールかごから手出しをし、もうひとりがストロークでコートの向こう側へ送り込む基礎練をおこなっている。

 しかもその基礎練レベルが低い。

 テイクバックラケットを引く動作は身体ではなく手首で引き、面が開いている。それではいくら振り抜いてもボールがホームランになってしまう。しかし打つ本人も、手出しをする学生もそれに気づいているのか否か──ただひたすら、感触をたしかめるようにボールを打つばかりだ。

 伊織はたまらず立ち上がった。


「手首固定!」

 

 と。

 テイクバックした学生の手首が掴まれた。

 掴まれた学生の目が丸くなる。驚くのも無理はない。いつの間にかサングラスをかけた裸足の女がコートに入ってきているのだから。一歩間違えれば──というかもろ不審者である。しかし女──伊織はぐっと学生の肩と手首をつかみ、一連のテイクバック動作をさせてみた。

「手首だけで引いたら面が上向くから、右足を下げる。そうすると自然にからだが右に向くやろ。そこからこう、円を書くようにラケットをまわして下から振り切る」

 ブン。

 鈍い音とともに、振り抜かれたラケットは学生の左肩におさまった。

「さいごは左足に体重を乗せる。その感覚で、一球打ってみて」

 伊織の指示にうなずき、手出しの学生が一球落とす。

 ラケットを握る学生はていねいに先ほどの動作を繰り返した。するとこれまで打ったホームランボールの軌道から、低くするどい弾道のボールに変わったではないか。打った学生はワッと笑顔になる。

「すげーっ!」

「ほら良うなったやん。はい、いまのをあと十球」

「は、ハイ。レンたのむ」

「よし。いーち」

 学生の球はよく飛んだ。

 呑み込みが早いのか、その後の十球はこれまでと比較にならぬほど良いボールが飛ぶ。レンと呼ばれた学生も無邪気な顔で、

「すげえ、いまのリクそれっぽいフォームだった」

 とわらった。

 リクと呼ばれた学生も興奮したようすで伊織に目を向ける。

「あの、バックハンドもすぐにネットにかかるんですけど」

「打ってみ」

 レンの手出しでリクが打つ。

 テイクバックは先ほどのフォアハンド時の教えを応用したのか、左足を下げて身体を横に向けたが、ラケットを振り抜くときの姿勢が前のめりになった。そのままボールはパスッとネットにかかる。

「テイクバックはいまのでいいけど、ちょっと振るのが早いな。バックは左手で打つイメージやから左手で前に押し出す、このとき焦って前で捉えると姿勢が崩れるからボールがここに来るまで待つ。ヒットしたらそのままフォロースルーラケットを肩まで振り抜く動作──ここ最後の体重は右足にかける。フォアと違うてボールがヒットする瞬間は身体が横を向いとる状態や。一球打ってみ」

「はいっ」

 レンの手出しで、リクはふたたびラケットを振った。

 一連の動作がぴたりと決まってボールは綺麗にストレートコースへ。手出し役のレンもその軌道を目で追って「おお」と感嘆の声をあげる。

「いいボール」

「ば、バックハンドがこんなにスムーズに振れたの初めてだ。すげー!」

「あとはいまのフォームがラリー中にも崩れずできれば文句なしや。とにかく素振りと基礎打ちで癖付けすることやな、打点はぶれやすいから」

「はいッ。あ、あの」

「ん?」

「もしかして、谷センセが呼んだ指導適任者の方ですか……?」

 と。

 リクは呆けた顔で言った。

「し、指導適任者? なにそれ」

「あ──やっぱり違うんだ」

「ま、そんなうまい話はないよな」

 ひどく落胆するリクに対して、レンは鼻頭をポリポリと掻く。その後も、ボールアップ中ずっと親戚の葬式をハシゴしたかの如く沈んだリクの顔を見るかぎり、なにかよほどの事情があるらしいが、いまはひとの世話を見られるほど伊織自身にも余裕はない。なにせ、今夜の宿だってまだ決まっていないのだから。

 おばさんのお節介はほどほどが良いのである。

「おばさん言うなぁ」

 ごめんて。

 突然頭を掻きむしった伊織を見て、ボールをカゴいっぱいに拾ってきたレンはキョトンとした顔を向ける。

「あれ、じゃあ──誰ですか?」

「しがない西の三十路女子や。テニス、がんばるんやで」

「三十路に女子はもうキツくないすか?」

「…………」

 伊織の形相が般若になる。

 あっ、とレンはゆっくりと口元を手で隠した。

「言うやん……女の自信を失うとる人間に対してキミ、……言うやん」

「す、すみません」

「もうええよ。桜爛テニス部は練習きびしいやろうけど、がんばるんよ」

 と、多大なメンタルダメージを負った伊織が、フラフラとスーツケースを手にとったときである。


「も、……もうだめだぁ──うあぁあ……」


 急に。

 背後でリクが泣き出した。

「え!?」

「うわおいお前マジか、リク」

「だ、だっで──うっ、うぅ……だっでぇ」

「え、うち? うちのせいなんコレ、コレ泣かしたん」

「あー…………まあ、ハイ。そうっすね」

 レンは耳をほじりながら続けた。

「こんだけ分かりやすく落ち込む人間放っておいて、さっさと帰ろうとするから──」

「えーっ」

 と、サングラスの下で眉を下げた伊織の前に、リクは泣きじゃくりながら土下座をした。端から見れば事案である。

 ちょちょちょ、と伊織はあわててしゃがみ、リクの肩に手を置いた。

「なにしとんっ」

「お願いじまず──」

 リクは肩に置かれた手をギュッと握りしめて、涙ながらに言った。


「助けてくだざいッ……」


 と。

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