プロローグ②

 ────。

 

 たとえば恋愛ドラマなどで、結婚式当日に花嫁をかっさらう男がいる。

 花嫁のことは事情により諦めていたけれど、ずっと忘れられずにとうとう花嫁の式当日、抑えきれぬ気持ちを前に行動を起こす。

 蓋を開ければ、じつは奪われた花嫁もその男のことが好きで、ふたりは多くの招待客に背をむけてバージンロードを駆け抜ける。見送る友人たちは、さも訳知り顔で周囲をなだめすかし、会場から立ち去るその背中にエールを送る。

 花嫁は手中のブーケを空へ放り、男は花嫁を横抱きにする。やがて静かな公園へ行き着いたふたりは、顔を寄せて笑い合うのだ。

 まるで世界にふたりだけと言わんばかりに。


 ──否。

 そんなことはないのである。


 「恋は障害がある方が燃える」という言い訳がある。だからといって、断じて周囲の人間や物事を『障害』のひとくくりにすべきではない。

 取り残された花婿の処遇。

 仕事を台無しにされた式場への慰謝料。

 見事に潰された親の面目──。

 炎は燃えればカスが出る。恋も同じだ。一組の恋が『障害』を燃料に燃えれば燃えるほど、前述のような燃えカスがかならず出てくるのである。

「ダスティン・ホフマン主演の『卒業』みたいだね!」

 などとわらって済ませられることではない。

 わりと本気で迷惑千万な話、なのである。


 つまるところ。

 結婚が嫌ならばすべての手続きをする前に正直に白状すべきなのである。たとえそれが、

「好きな奴がいる」

「幼馴染みで、昔からどんなときもそばにいてくれて」

「君との結婚が近づくにつれて本当の気持ちに気付いてしまった」

 などという理由で、かつ四年間の交際ののち婚約して近々の結婚に期待を抱いていたアラサー女が相手でも。

 そうすれば諸々の傷は浅く済む。

 そう。まだ傷は浅い。

 傷は。……


「そんなわけねえだろう」


 と。

 怒気を帯びた声で女は我に返った。

 そんなわけねえって、と声はおなじことばを繰り返す。飛ぶように走る新幹線のなか、声の出元はそう遠くない座席に座る禿げ親爺であった。

 中年四人組のひとりで、どうやら対面に座る相手へむけたことばだったらしい。対面の男性は情けない顔で手もとを指さす。

「だったらてめえの目で見てみろよ。ネットニュース出てるから」

「なんて!」

「だから、ほら」

 対面の男がずいとスマートフォン画面を禿げ親爺に突きつける。親爺はそれをひったくって画面を覗き込んだ。

「世界ランク十二位の大神おおが選手、デビスカップ二回戦ガラル選手との戦いにて、じ、靭帯を損傷しツアー離脱!? すでに手術を済ませてリハビリ療養のため帰国──う、うそだろ」

「あー、とうとう怪我か。ここ数年本当に頑張ってたもんなぁ」

「テッチャンの推してる選手だっけ」

 禿げ親爺のとなり、恰幅のいい男がいった。

 おん、と親爺がうなずく。

「とにかくメンタルが強いんだよ、どんな格上相手でも、危機的局面でも強気に出やがる。オレァ昔から応援してたんだ、彼のことは」

「また出たぞ」

 テッチャンのにわか蘊蓄、と眼鏡をかけた四人目の男がクスクスとわらう。テッチャンと呼ばれた親爺は眉を吊り上げた。

「にわかなもんか。十年前の全国大会決勝──忘れもしねえ、当時の全国連覇校だった桜爛大附属高と才徳学園の試合だよ。この大神ってのぁ才徳学園のエースだった。対する桜爛のエースもまた強かった。こう、ビシッと球を打つんだよ!」

「あんたの説明じゃ凄さが分からんよ」

「とにかくすげかったんだよ! しかし最後、彼奴はにやりとわらった。そして相手のがパンッと入るや大神はドーンッと」

 禿げ親爺ははげしい身振りののち、動きを止めた。周囲に張りつめた空気がただよう。

「……を返したわけだ。ちゅうやつだ」

「ははあ」

「相手の懐めがけて打ったんだ。あれを避けられていたらアウトだったかもしれん。なんにせよ相手はそれをラケットで受け止めた。が、ラケットは弾かれた──」

「ええっ」

「そのときはもう、タブ、タイ、た……延長戦の点が合計200くらいだったんだぞ。それなのに彼奴は、チームのため渾身の力を振り絞った! 泣けるじゃねえか──」

「そ、それで?」

 それでって、と禿げ親爺は眉をしかめた。

「終わりだよ。試合はそこで決した。八連覇を狙う桜爛を差し置いて、当時無名だった才徳学園が初優勝したんだ!」

「おぉ~」

「その才徳学園を牽引したのがこの大神って子なんだよ。当時高校生の彼が、原石だった才徳メンバーを一から磨いて優勝へと導いた。全国だけじゃねえぜ、三年次のインターハイだって団体個人どちらも優勝! 学生テニス界じゃァもう生ける伝説さ」

 と、ひとしきり語って満足したらしい。

 親爺は腕時計を見て周囲の荷物を片づけはじめた。同時に流れた車内アナウンス。この新幹線がまもなく終点東京に到着するという内容だった。


「……────」


 女はサングラスをとる。

 黒くて長い艶髪を手櫛でとき、車窓に映る顔を見つめた。すこしやつれた目元がここ数日のドタバタをあらわすようで、眉をしかめてふたたびサングラスをかけた。サテン生地のシャツに黒のスラックス、長い脚を彩るように履かれた赤いハイヒールのそばには、縦に長いスーツケース。

 ──まもなく、東京。東京。

 無機質な声にうながされ、乗客が続々と席を立つ。女もまたスーツケースを引きずってデッキに出ると、先ほどの四人組と鉢合わせた。

 しばしの沈黙。

 こちらの無言に、眼鏡の男性が「うるさくしてすみません」と頭を下げてきた。一番声の大きかったとなりの禿げ親爺は、我関せずという顔である。

 新幹線が東京駅のホームへ入る。

 スーツケースの取っ手に手をかけた。

「テニスの延長戦はタイブレーク」

「えっ?」

「あとさっきの試合、タイブレークポイントは合計200やない」

 新幹線の扉がひらく。

 ──258や、と。

 言った女は、スーツケース片手にホームへと降り立った。


 ※

 春にはさぞ美しかろう桜並木。清流のせせらぎが心を潤し、幾人もの学生が花のような笑みを浮かべて下校するこの場所が、名門桜爛大附属高等学校。

 パコーン、と。

 耳心地のよい音が辺りに響く。

 フェンスの先、奥に見えるは十面はあろうテニスコート。高校に備えられるには贅沢な数だが、この高校に限ってはあながち無駄ではない。

 かつて。

 桜爛大附属高等学校男子テニス部は、全国王者と言われる常勝校だった。三十年ほど前より顧問や監督が変わろうと、彼らの強さは先代から次代へと引き継がれ、十年近くものあいだ高校テニス界に君臨し続けた。

 十年前のあの日、までは。


 ──第四十六回全国選抜高校テニス大会男子団体戦。

 ──準優勝、桜爛大附属高校。

 ──大会史上類を見ぬ熱い闘いでした。

 ──君たちは伝説です。

 ──感動をありがとう。


 大会運営から贈られた異例の謝辞すら、彼らの耳には届かなかった。

 桜爛大附は負けた。

 それまで全国圏内にすらいなかった、才徳学園という新星を相手に──負けたのである。

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