罪の無い悪役を生贄にしました。

みれにあむ

罪の無い悪役を生贄にしました。

 ニャルーラ=アヌ=ペリゾナ侯爵令嬢は、頬に広がる鈍い痛みと、同時に床の冷たさを感じながら、直前に見た光景に思いを馳せていた。

 一言で言えば、走馬燈。

 ――ニャルーラの婚約者に媚を売る、思い上がった成金令嬢に鉄槌を!

 その憤りのままに階段から突き落とさんとしたニャルーラは、必死の形相をした成金令嬢と揉み合いになって、縺れ合う様にして共に階段を転がり落ちた。

 その時に、走馬燈を見てしまったのだ。


 現在から過去に戻る様に逆しまに。

 赤児の時をも突き破ってその前に。


 そこでニャルーラは全てを思い出した。


(ここ……『銀聖の乙女』の世界!?)


 赤児よりも更に前の前世で、嵌まっていた乙女ゲームの世界。

 そして自分は王太子ルートで主人公のライバル役となる悪役令嬢ニャルーラ。

 その事実を思い出してしまったのだ。


(嘘……嘘、嘘! 突き落としイベントは卒業パーティの三日前! 私、断罪されちゃうの!? そのまま処刑されちゃうの!?

 キューちゃん! ピーちゃん! どうしたらいいの!?)


 体は階段の段に乗り上げて、顔は踊り場の床へ着けた無理な体勢のまま、ニャルーラは胸の中で慟哭したのである。



 ~※~※~※~



 その日、ランプリング王国の王立学園では、卒業生達を祝う盛大なパーティが開かれていた。

 学園生を主役に執り行われたパーティは、其の内に様々な思惑を秘めながらも、一見何事も無いかの様に進んで行く。

 しかし、気が付く者は気が付いている。

 学園を卒業すれば立太子する予定の第一王子が、王太子妃候補である三人の女性と未だに踊っていない事を。

 それでいながら妃候補ともなっていない女性とのダンスの相手を、側近達と何故か競い合っている様に見える事に。


 ダンスフロアを見下ろす上階からは、その様子が手に取る様に見えた。だからこそ気が付いてしまえば否応無く気になってしまう。

 祝いの場に赴いていた卒業生の親族達は、王太子妃候補の宜しくない噂を聞いていただけに、余計に聞いていた状況と違うその様子に戸惑ってもいた。


 そんな騒めきが支配する中で、第一王子による独演会が始まろうとしていたのである。


 勿論その様子も上階からは良く見えていたのだった。



 それは雛壇に第一王子とその側近達が集まる事から始まった。

 第一王子ミルヒディル、騎士団長次男バルズ、魔法庁長官三男ビブリル、財務長官長子メゾー、そして何故かそこに紛れ込んでいる女性が一人。

 朗々と告げる第一王子の声は、会場の隅々まで響き渡る。


「諸君! 今日の喜ばしい日を楽しんでいるだろうか?

 ここに居る卒業生の多くは既に進路を決め、国の為に働き始めている者も居るだろう。

 まだ進路が決まっていないという者も、きっと納得出来る道を掴み取る事が出来ると信じている」


 突然始まった演説も、堂々とした祝いの言葉に多くは感心した視線が寄せられていた。


「六年前に入学した時にはまだ未熟だった私達も、共に学び、共に競い合う中で友情を育んできた。資料室に徹夜したあの夏の日も、霜焼けに成りそうな中で共に鎧を磨いたあの冬の日も、きっと忘れる事は無いだろう。

 これから私達の道が分かれようとも、共に育んできたこの絆は掛け替えの無い財産だと思っている」


 王子ミルヒディルは、寄せられる力強い眼差しに頷いて、次の言葉を述べた。


「しかしだ! ――哀しい事に、この中に私達の仲間とは思えない者が居る! 共に切磋琢磨するのでは無く、足を引っ張り、暴力で以て従えようとする者が!

 ……ここに居るリリーナ嬢は、位の低い男爵令嬢ながら家業の商会を盛り立て学園へと入ってきた才媛だ。そのリリーナ嬢は三日前に学舎の階段から突き落とされ大怪我をする所だった。

 そんな事をする者には学園での学びがまだまだ足りていないと思わないか? 諸君らはそんな者と共に卒業する事に堪えられるのか?

 私にはとても堪えられない! 留年など生温い、処罰が適当と考えている!

 ニャルーラ! 申し開きが有るのなら、今この場でしてみるがいい!!」


 王子のその言葉に賛同する者ばかりで無いのは、王子が激昂してから距離を置こうとする者達が居る事からも明らかだったが、寧ろ何が始まるのかと目を輝かせている者が大半だった。

 その中を、あてやかなドレスに身を包んで、一人の女性が歩み出たのである。


「それは、わたくしに仰ってらっしゃるのでしょうか?」


 良く通る声だった。

 つんと顎を上げて、冷たく目を眇めた怜悧な相貌は、物の見事に隠す事無く悪女らしさを振り撒いて、その余りのふてぶてしさに寧ろ感嘆の声が漏れる程だった。

 手に持つ扇をゆらゆらと揺らめかせ、堂々と立つその姿には貫禄までが備わっている。

 仮令良からぬ噂の一つや二つ有ろうとも、国母として頼もしいのは誰かと問われれば、恐らく彼女を選ぶだろう。


 そんな王太子妃候補ニャルーラの姿を見たが故に、混乱の渦に呑まれてもおかしくなかった会場の騒めきは鎮まって、事態を見守る雰囲気が形作られたのである。



 さて、まずは王子の言い分。


「何を白々と!!

 三日前の夕刻、菫の廊下の先に在る階段で、貴様がリリーナ嬢を階段から突き落としたのだろう!!」


 それに対するニャルーラの答え。


「ええ、突き落としましたわね。そこの女にしがみつかれてしまいましたから、わたくしも一緒に落ちてしまいましたけれど。

 ……もしかして、殿下はわたくしが何故そこの女を突き落としたのか、その理由が分からないとでも仰っています?」


 余りに堂々と肯定したニャルーラの態度。更には丸で舞台俳優の様に、横へゆっくり歩き、首を傾げ、眉を顰めるその仕草で、王子が言う事こそおかしいと全身で表現したニャルーラに、会場は寧ろニャルーラよりの空気を醸し出し始めていた。

 その雰囲気に押されて、激昂していた筈の王子も少し気圧されたのか手控えてしまう。


「それだけでは無い!!

 貴様がリリーナ嬢を度々脅し付け、教本を破り捨て、暴力を奮い、ドレスを引き裂いたのは誰もが知る所だ!!

 目撃者だって居るのだぞ!!」


 恐らくニャルーラが否定したり言い訳をしたりしたならば、突き付ける証拠も用意していたのだろう。

 そして見苦しく足掻くニャルーラを捕縛する要員も用意していたに違い無い。

 しかし、飽く迄も当然の事として振る舞うニャルーラを見てしまうと、それを悪と断じて捕らえようと踏み切る事はとても出来無い。

 仮令第一王子が後ろに付いていると言っても、捕らえようとしている相手は侯爵令嬢で、そして何より周りが侯爵令嬢を糾弾する雰囲気に無い。

 これは卒業生達がと言う意味だけでは無く、上階から見ているその父兄に到っても、何処か面白そうに成り行きを見守っている様に感じられる。

 一歩引いて見ていれば一目瞭然なのだ。

 そもそも捕縛要員が言い渡されていたのは、侯爵令嬢が暴れたり逃げようとした際に捕縛せよとの命令だ。

 そうなると、もう動けない。動ける筈が無い。

 実際にこっそり配置されていた男子学生は、そっと溜め息を吐いて、成り行きに任せる事にしたのである。


 そしてニャルーラも、再び堂々と抗弁する。


「ええ、見苦しい行いを叱り付けましたし、それでも分からなければ頬を打った事も有りますわ。

 ですが、教本破りやドレスを引き裂いたというのには心当たりは有りません。何か勘違いなさっているのでは無くて?」

「抜け抜けと! 貴様が命じたミリンとファサフィーから、全ての企みは聞き出しているのだぞ!!」


 ただ、この言葉にはニャルーラも本当に意表を突かれたのか、魅せる為の振る舞いでは無く、素が出た様に目を見開いて眉を顰めた。

 そして心底呆れた様に首を振るのだった。


「まぁ……呆れましたわ。ミリン様はそこにいらっしゃいますオリング伯爵家三男ビブリル様の婚約者。ファサフィー様はそちらのロットストン侯爵家長男メゾー様の婚約者。

 わたくしがお二人に命じた事実など御座いませんし、お二人からわたくしの名前を出したとも思いませんが、遣り方は褒められた物では有りませんけれど、わたくし、お二人が何故そんな事をしたのか分かりましてよ?

 寧ろどうして分からずにいられるのか、そちらの方が不思議で成りませんけれど、本当にお分かりでは有りませんの?」

「なっ!? ビブリルとメゾーの!?

 き、貴様、言うに事欠いて、狂言で糾弾していると言いたいのか!」

「……その言葉で、殿下が何もご理解されていない事が分かりましたわ」


 うんうんと観衆の中にも頷く者が居るとなると、王子も強くは出られない。

 そんな王子達の前を、ニャルーラは右に左に窺う様にゆっくりと動き、哀れな者に言い諭す様に穏やかに言葉を紡いでいく。


「わたくし、ずっと不思議でしたのよ? わたくしは誰にでも分かる言葉で殿下に訴えてきたつもりでしたけれど、本当はわたくしの言葉は一つも殿下に届いていなかったのでは無いのでしょうかって。同じ言葉に聞こえましても、実は違う言語を話しているのでは無いのでしょうかって。

 ですからわたくしは、一度でいいから殿下は本当にわたくしと同じ言葉を話しているのか、確かめたいと思っていましたの。

 だってそうでしょう? 同じ言葉を話しているので無いのでしたら、どれだけ言葉を重ねようと虚しいばかりですもの。

 そうね、ちょっとした譬え話を致しましょう。そこで殿下がどの様にお考えに――」


 ニャルーラがそうして語り掛けている間、第一王子ミルヒディルは気圧されて、ビブリルとメゾーは直前の指摘に不味いと思ったのか目を逸らしていたので、そんな彼らを腑甲斐無いと憤ったのは騎士団長次男バルズ只一人。

 そしてその憤りのままに、語り続けるニャルーラへと言い放つのだった。


「何を下らん話を続けているのだ!! 罪を認めたのだから断罪するだけだろうが!!」


 二三度扇を揺り動かしたニャルーラが、冷ややかに問う。


「まあ? わたくしがいつ罪を認めたと言うのでしょう?」

「リリーナを突き落としたと認めただろうが!!」

「そう……騎士を目指す貴方がそんな事を口にするのね。貴方は戦争で敵兵を切り殺しても、それは罪と仰るのでしょうか? 警吏が犯罪者を殴り倒しても罪というのでしょうね?」

「下らん事をかすな!! リリーナと戦争でもしているつもりか!! それに彼女を犯罪者と同列に扱うとは烏滸がましいわ!!」

「いいえ、違いませんわ。わたくしにとっては、その女との関係は確かに戦争に等しくて、ある意味犯罪者を更生させる為のものでしたから」


 歯軋りをして、帯剣していたとするならば今にも剣を抜きそうな様子のバルズを前に、ニャルーラは涼しい顔をして更に続ける。


「そうですわね。殿下には言葉が通じませんでしたけれども、貴方にももしかして通じないのでしょうか?

 今迄殿下にしか聞いてみた事は有りませんけれども、貴方に訊いてみるのも良いかも知れませんわね?

 今からちょっとした譬え話をしようと思います。初めはちょっとした軽いお話に致しましょう。その譬え話の状況に対して、貴方とわたくしの思う所を一つ二つ確かめながら、状況を進めたいと思います。

 幸いにして、本日は独り善がりになりがちな狭い範囲の身内だけでは無く、諸賢の皆様もお集まり頂いていますわ。きっとその確かな目で正しく見極めて下さるでしょう。

 わたくしには恥じるところなど御座いませんが、貴方にとっても願ったりなのでは無くて? 貴方達が正しいとすれば、わたくしの不明を衆目の下に明らかに出来ましょうから。

 ――貴方の大切な人が、相手の言い分を聞かずに断罪する事を良しとする冷血ならば兎も角、全てを諒解した上で受け止めるだけの度量が有ると信じるならば聞きなさい」


 胸の前で両掌を合わせて、ちょっと首を傾げたお願いポーズで提案するニャルーラの姿は、その酷薄な笑みと冷徹な眼差し、そして挑発するその口調が無ければ愛らしくも見えただろう。

 何時の間にかその言葉が命令口調となっている事にも気付かず、バルズはギラギラとした目付きで獰猛に歯を剥き腕を組む。

 自ら墓穴を掘るならそれを妨げはしない。そんな考えで、バルズは顎をしゃくってニャルーラに続きを促したのである。


 それに応えたニャルーラは、それまでの様子とは一変して、優しい口調で語り始めるのだった。


「そうですわね。それでは、貴方には心を捧げた最愛の恋人が居たとします」


 ここで、ニャルーラはその目を一拍王子が庇うリリーナへと向けてから、再びバルズへと視線を戻す。


「恋人との仲は睦まじく、喜ばしい事に両家の諒解の元婚約も結ばれています。貴方が騎士として鍛錬を積む場所に婚約者も遊びに来て、鍛錬場の隅に用意させたテーブルセットで優雅にお茶を楽しみながら、愛しい貴方に甘い声援を送ってくれたりするでしょう」


 再びニャルーラは、リリーナへと目を向けてからバルズを見る。


「どうでしょう? ここまではちゃんと想像出来ましたか?」

「む、む!? そ、そうだな!」

「……本当にそうでしょうか?

 柔らかな日差しの降り注ぐ中、ピクニックに出掛けた先で貴方の耳を擽る婚約者の笑い声。抱き寄せた肩の柔らかさと染み入ってくる熱い体温。ふわりと薫る甘い香り。悪戯気に見上げる瞳と、口元に寄せられる婚約者手作りの軽食。

 ちゃんと全部想像出来ていますか?」


 時折リリーナへと目を向けて、確かめる様にバルズを見るニャルーラに釣られ、バルズはリリーナへ向けた眼差しを外そうともせずに鼻息荒くそれに答えた。


「大丈夫だ! しっかり想像出来ているぞ!!」


 それは或る意味滑稽で救い様の無い光景だった。

 王子は面白く無さそうな表情をしながらも、リリーナが皆に愛されるのは当然の事と認識していた為に、其処に何も違和感を抱いていない。

 ビブリルとメゾーは、大勢の目の前でリリーナを大切だと公言しているのと変わらないバルズに羨望と妬みを覚えていたが、それ以上の事には考えが到っていなかった。

 しかし、貴族の習わしとして当然の事ながら、バルズにも婚約者が存在する。

 見守る観衆の中には、その事実を丸で忘れたかの様なバルズの振る舞いに頭を抱える者も居れば、王子にビブリル、メゾーの様子に嘆息する者も少なくは無かったのである。


 当然そうなると、その状況へと誘導したニャルーラへ感心が向けられる事になる。

 恐らくはそれなりの準備をした上で弾劾に臨んでいるだろう王子達に対して、身分も人数も状況も不利な状態で、次は一体何を聞かせてくれるのだろうと。


 勿論、ニャルーラの味方をする者も居るだろう。ニャルーラの後ろで睨みを利かせている他の二人の王太子妃候補からは、ニャルーラに何かが有ればその身を顧みずに飛び込んで来るだろう気概が感じられる。

 しかし、何事も無ければこの場の主役はニャルーラだ。ニャルーラの許し無くば、唇を噛み締める彼女達も割って入る事は出来無い。


 この場をただ眺めるだけならば、王子とニャルーラの対立に見えるかも知れないが、実際にはリリーナとニャルーラの諍いだ。

 片や王子の背後に隠れて代弁させ、片や矢面に立ちながらも堂々と抗弁する。

 片や自覚が出来ていない色呆け達と、片や弁えながらも覚悟を決めた淑女達。


 既に素行の良くない貴族達の間でも、賭け事が成立しない程に趨勢は決したと言って良かったが、王族が付いているだけにどう転ぶか分からないのも事実だった。


 幸いな事に、ミルヒディル王子の二つ下には、これもまた優秀と噂の高いミクシュミ王子が控えている。ミルヒディル王子自身も決して劣っている訳では無く、寧ろ優秀だからこそ立太子する予定だったのだが、王家も我々も見誤ってしまっていたのだろうと、そう貴族達は理解して、王国の未来に影が差した訳では無いと納得する。


 そうした王子が見限られ掛けている状況に気が付かないままに、王子達とニャルーラの状況は移り変わっていくのだった。


「そう? それでは、状況を進めましょうか。

 貴方と婚約者は幸せな時間を過ごしていました。騎士としても充実した訓練に励む日々でしたが、やがて貴方の後輩となる騎士見習い達が訓練に参加する様になりました。初々しい後輩達に、貴方も先輩として指導し、その様子を婚約者は見守りながら微笑んでいます。貴方も見守られる事で湧き出る力を感じながら、より一層訓練に励んでいます。

 ここまでは宜しくて?」

「うむ!」

「ところで、その後輩達の中に、譬えるならば子犬の様な少年が居ました。無邪気で天真爛漫で、嬉しい時には笑い、悲しい時には萎れ、ころころと表情を変える男の子です。

 純真と言えばいいのでしょうけれど、騎士として訓練の痛みを隠さず顕わにしてしまったり、貴族としても建前を解せず本音ばかりを垂れ溢す様子は心配になる物でした。実際にその後輩は、騎士としての実力は中の下にも満たず、評判は好悪がはっきりと分かれ、嫌われる者にはとことん嫌われている状況でした。

 さて、そんな後輩が訓練に入ってきて、貴方はその時どうします?」


 バルズは単純だが真面目な性格をしていた。

 故に、初めはニャルーラへ恥を掻かせてくれようと始めた問答であっても、話に引き込まれた現状では、真面目に与えられたお題を考察し、自分なりの答えを出そうとした。

 上階から見ている者達はその様子を呆れながら見下ろしていたが、実は各所でこっそりとバルズに対する評価は棚上げとされていた。

 愚か者には厳しい貴族社会だが、単純馬鹿に対する見方はそれとはまた違っていた。上に立つ資格は無いかも知れないが、上手く使う事が出来たならば頼もしい部下となるだろうと。

 要するに馬鹿は使い様によって幾らでも変わると認識されていたのである。或る意味この場でのバルズの評価がその主である王子の評価へと置き替わったのだった。


「ぬぅ~~……そんな危なっかしい奴ならば、気に掛けてやるしか無いだろう。後輩の教育は先輩としての務めだ」

「それは後輩が騎士や貴族としてどうかと思う行動を取ったなら、しっかり悪い所を指摘して、どういう振る舞いが相応しいかを教えて差し上げる事と理解して宜しくて?」

「それ以外にどんな方法が有る?」

「いいえ、仰る通りですわ。

 でも、そんな後輩思いの貴方の言葉も、肝心の後輩には届かないかも知れなくてよ?

 何と言っても、貴族の常識も身に付いていないくらいですから、今迄厳しく躾けられた事が無いのでしょう。貴方の事も、口煩い厄介な先輩としか思わないかも知れませんわ?」

「そんな甘えた性根なら、より厳しく指導するしか無いな!」

「ええ、わたくしもそう思いますわ。でも一つ付け加えるなら、ちゃんとそれが貴族の間での常識と分かる様に、ロドグリム卿御夫妻の編纂された宮廷儀礼の教典『貴種礼讃』をお渡しするのも宜しいのでは無いかしら?」

「おお! それは名案だ! 何か有れば俺も参考にさせて貰おう!」


 初めの雰囲気など忘れたかの様に、満足気に強く頷いたバルズ。

 しかしその陰では、こそこそとした内緒話が波紋の様に広がっていたのである。


(『貴種礼讃』って、私、リリーナが嫌味に渡されたって嘆いていたのを一年の頃に見ましたわよ?)

(え、じゃあこの譬え話って……)

(ねぇ、聞きました? あのリリーナって子が――)

(成る程……そういう趣旨なのだな?)


 上階にその囁き声までは聞こえなかったが、会場の様子から何を話しているのかは推察出来る。

 明日に立太子を控えていた筈だったが、こうなってはもう状況を楽しむ他は無い。

 何時の間にか上階の後ろに、直視出来ない笑みを浮かべた王弟殿下が寛いでいる以上、成る様に成るしかないのは明白なのだから。


「ですけれど、そんな困ったお人も世の中には居るのでしょうというのは仕方の無い事かも知れませんけれど、その性質が聊か問題で有りました。

 純真無垢と言えば良く聞こえますけれど、貴方の指導を煩がるならそれは軽佻浮薄の考え無しでしょう。正にお馬鹿な子犬が如しですわね。

 そんな子犬が貴方の雄姿を見に来た大切な貴方の婚約者を見付けてしまったなら――」

「ぬう!? まさかっ!?」

「ええ、貴方の婚約者も、戯れ付く子犬に初めは困った顔で窘めるでしょう。しかし、見る限り悪意は無さそうで、それでいて婚約者も知らない下級貴族の話を面白可笑しく語られたなら、貴方の大切な婚約者もその優しさを無駄に発揮して、子犬とのお喋りで笑顔を見せる様になるかも知れません。そしていつしか貴方との会話も、子犬の話題が何割かを占める様になるのです」

「ぬぅぁああああああ!!! 許せん! 許さんぞぉおお!! 鉄拳制裁など生温い!! 決闘の末に膾斬なますぎりにしてくれるわ!!!」


 バルズは吠えたが、ニャルーラは顔を顰めて軽く宥める。


「ええ、ええ、勿論その気持ちは分かりますわ。ですが、わたくし達はまだ学園で学ぶ身の上。間違いを起こしたとしても、それが間違いだと学ぶ為にここに居るのです。

 ですからまずは強く窘めて、婚約者の傍からその者を引き離そうと動くのが、思慮深い者の行いでしょう。貴方の婚約者の隣に立つに相応しい、正しき騎士の姿としても、それは少し直情的過ぎますわ。

 もっと真っ当な方法が取れなくては、子犬を排除出来ましてもその時には貴方が婚約者の相手に相応しいとは認められませんわよ?」

「ぬぅうううううう!! では、彼女が俺の婚約者であり、貴族として婚約者の居る異性に不用意に近付く事はそれだけで罪に問われるとの常識をしっかりと伝え、それでも馴れ馴れしく俺の婚約者に近付く様なら親元に抗議して引き取らせよう! 当然学園は退学だ!!」

「……飽く迄厳罰を与えるべきと仰るのですね?」

「学ぼうとしなかった結末がその結果なのだろう? ならば既に議論の入り込む余地など無いではないか!」

「…………ええ、そうですわね。本当はそうするのが一番正しかったのでしょう。仮令たとえ婚約者に阻まれようとも厳然たる態度を取るべき最後の機会だったのでしょうね。

 でも、貴方も一つ見落としていましてよ? 今はわたくしが状況を説明していますから、貴方も何が起こっているのかを把握出来ていますけれど、実際には説明してくれる人なんて居ません。そして貴方に一度叱られた子犬は、貴方の目を盗んで貴方の婚約者と接触しようとするでしょうから、貴方が気が付いた時には既に手遅れになっているかも知れません。

 そうですわね、例えば貴方の知らない所で一緒にピクニックに行ってたり。劇場なんかにもこっそり一緒に行っていたりするかも知れませんわ」

「ば、馬鹿なっ!?」

「そして子犬の恐ろしい所は、貴方の婚約者と同じ様に、子犬を甘やかしてくれそうな人をどんな勘が働いているのか嗅ぎ分けて、ちゃっかり味方を増やしてしまうところにあるのですわ。

 貴方の婚約者と同じ様に、ちゃんと家と家とで決められた婚約者が居るにも拘わらず、子犬に肩入れする人達が、貴方の婚約者と一緒になって貴方を責める様になるでしょう。その人達の間では、貴方は既に子犬を苛める極悪人になっているのです。

 そうなってしまえばもう手遅れです。正規の方法で抗議を入れても、その人達にとってそれは子犬を苛める理不尽な要求になってしまいます。抗議の結果がどうなろうと、貴方の婚約者は貴方を憎み、その心は再び貴方に寄り添う事は無いでしょう。

 さて、そんな状態になってしまったその時に、貴方は一体どうします?」

「馬鹿な……馬鹿な……無い、無いぞ! 流石にそんな茶番が起こるものか!!」

「わたくしもそう思っていましたわ? でも、わたくしの語った話の流れにおかしな所が有りまして?

 わたくし、この子犬をして純真だとか無垢だとかいった言葉を良く聞きますが、正直何も見えていないのではないかと疑ってしまいますわ。

 何故って、自分をちやほやと甘やかしてくれる人に、悪意を向ける人なんて元からそうは居ませんもの。そんな相手にはにこにこと悪意の欠片も無い様子で慈愛に満ちた笑顔を向けたとしても、厳しく躾けようとする相手には威嚇だってするでしょうに。それが子犬というものですわよ? それとも子犬もそんな相手の事は居ないものとして振る舞うのかしら。何れにしても性質たちの悪い事この上有りませんけれど、実際子犬の事を思って厳しく躾けようとする人に対して、何も言う事を聞こうとしないのがその証拠になりますわね。

 窘めても叱っても諭しても、何をしても聞く耳を持たないで、飽く迄自分が振る舞いたい様に振る舞うばかり。殊勝な事を口にしたとしても、全く自分の振る舞いは変えるつもりが無いのですから、これはもうはっきりと邪悪と言ってしまって良いのでは有りませんか?」

「そ、そうだ! 恐ろしい邪悪だ!」

「それで、そんな邪悪な子犬に対して、貴方はどうするのです?」


 既にこの遣り取りの趣旨を分かっている者達にとってはそれこそ茶番もいいところだが、寧ろここからどういう結末に到るのかが分からなくなってきて、興味津々に展開を注視していた。

 逆に王子達は展開に付いて行けてない。それを見る王弟殿下の眼差しは厳しい。


「う、訴えていくしか無い! 身の潔白を! 邪悪な後輩の過ちを!」

「――ところが、もしも貴方の婚約者が今も一人で貴方と対立していたならば、まだ他の可能性も有ったのかも知れませんけれど、何人もで結託してしまったのでは、貴方の声はもう届かないでしょう。志を同じくする仲間が居て、その仲間にお前は間違って無いと言われたなら、自分の意見にも自信が付いて、多少の揺さ振りには動じなくなるでしょう? それと同じ事が起きているのですから、例えば学園で学ぶ他の人ならば納得させる事が出来たとしても、一番伝えたい貴方の婚約者にはどうやっても届きません。それどころか、悪者の見苦しい言い訳と歪められ、益々婚約者達の敵意を煽る事になるでしょう。貴方の大切な婚約者が、貴方の敵に回って邪悪な子犬を庇い立てするのです。挙句の果てには、貴方とは違う人の為出かした事まで、貴方の仕業にされて責められる事も有るかも知れませんわね? 貴方が幾ら正しい騎士として有ろうとしていても。婚約者を誑かされた人が貴方だけでは無い事を思えば、動機の有る人なんて他にも居るでしょうに。

 曇った頭とまなことで公正な判断が出来無くなった婚約者達を貴方は相手にしないといけなくなります。

 さあ、貴方はどうするのでしょう?」


 ニャルーラのその言葉を聞いて、到頭怯えた様に顔を歪めたバルズが、頭を抱えてしゃがみ込む。


「そうだとしても! 訴え続ける他に何が出来ると言うのだ!!」


 焦燥に駆られたバルズの表情に嘘は無いのを見て、ニャルーラは少しだけ目尻を下げた。

 バルズが余りにも感情移入しているその様子と、諦め掛けていた彼らにも、状況次第で話は通じるのだと理解して。


「ええ、そうですわね。わたくしもそうでしたわ。

 では、殺してしまいたい気持ちを抑えながら邪悪な子犬の指導に当たったとして、泣きたくなる様な切なさに駆られて貴方の婚約者に訴え続けたとして、それで貴方の気持ちは納まるでしょうか? いいえ、まさか、婚約者が大切なら大切な程に、怒りは募るものでしょう。邪悪な子犬にだけ辛くきつく指導するのは当然の事、それでも何れ我慢の限界を迎えましょう。もしも偶々擦れ違った階段で勝ち誇った笑みを見せられたなら、思わず突き飛ばしてしまう事もあるでしょう。そこに異論は?」

「無い!!」

「更に言うなら、その突き飛ばそうとした腕に憎き子犬がしがみついて、貴方諸共に道連れにしてきました。そして横たわる貴方を置いて、子犬は一人で逃げていきました。

 さあ、貴方はその時どうします?」

「……ふ、ふはは、ふははははは……。それはもう、どんな手を使ってでも殺してしまうしか無いなぁ……。決闘だ!」

「婚約者の気持ちはもう貴方に無いかも知れないのに?」

「そんな事は関係無いっ!!」

「……ええ、勿論わたくしも同じ気持ちです。

 ですがわたくしは国母となる為の教育を受け、秩序を守らなければならない身の上です。

 元々女の身では決闘で解決を図る事など出来ませんが、そもそもその局面で決闘を持ち出す事が秩序の破壊に外なりません。不届きな子犬を討ち取る事が出来れば最低限の秩序が保たれましょうが、もしも返り討ちに遭えば秩序は決定的に破壊されるでしょう。何故ならばそれからは婚約者が居る相手だろうとも、決闘で勝てば横取り出来るという事ですから。横恋慕し放題ですわ。

 ですけれどね、ここで秩序という観点でもう一度物事を見通してみれば、見えてくる物も有るのです」


 ここでニャルーラは王子へと視線を向けて言った。


「さて騎士団長子息バルズ。貴方にもう一度問いましょう。

 拗れに拗れた泥沼の展開をお聞かせしましたが、そもそも何故ここまで拗れる事になったのか。

 そもそもは貴方の婚約者が秩序というものを良く理解していて、じゃれついてくる後輩に対しても自分が貴方の婚約者で夫となる者以外に必要以上に親しくするつもりは無いと、毅然とした態度で突き放していれば、何も問題は起きなかったのです。

 貴方だけを一途に愛していると言って、馬鹿な子犬との間には見えなくても壁を設けてくれていたなら、その時は貴方も婚約者の事をより一心に愛し、全てを捧げて幸せを掴んでいた事でしょう。

 さて、貴方の婚約者が貴方に不実な対応をした事に恨む気持ちは有りませんか?」

「ぐう……ぅぉおおおおお!!!!」


 バルズは四つん這いで唸るばかりである。

 ニャルーラは王子に目を向けたまま、今度は戸惑ったままの表情をした王子へと問い掛ける。


「――見ての通り、騎士団長御子息殿は聊か感情移入が激しい様子ですけれど、言えば理解して頂けました。確かにわたくしも最後はその女を突き飛ばしてしまいましたけれども、誰がわたくしの罪を問う事が出来て? 殿下はわたくしを断罪するつもりで、その実自らの愚かさを曝してしまっていますわよ?」

「だ、誰に向かってそんな口を利いている! それに貴様の良く分からぬ譬え話で、一体何が分かったと言うのか!」


 観衆の囁きでざわりと空気が揺れる。

 ニャルーラはくつくつと笑うと、首の傾け方と差し延べる扇の動きだけで、見事に王子を愚弄してみせた。


「あら? 分かりませんでしたか? 殿下達以外の方々は、皆すっかり分かっていらっしゃいますのに?

 わたくしが語ったのは、わたくしに起きた出来事を、配役を変えて、シチュエーションも配役に合わせて少し整えただけの話でございます。話の中で語ったバルズ様の立場をわたくしに、その婚約者を殿下に、子犬をそこの女に置き換えれば、わたくしから見た事件の真相になりますわ。わたくしが入学当初になんて噂されていたかご存知でして? 礼儀の無い貴族擬きにまで、その手を差し延べる人と言われてました。今では不実な婚約者に虐げられる、報われない不遇の姫と、そんな不名誉な呼ばわれ方をされてますわ。

 その不実な婚約者が何方どなたを指しているのか、流石に殿下も分かりますよね?」


 何方どちら何方どちらを追い詰めているのか、誰の目にも明らかだった。

 息を呑んだのは視線を当てられている王子だけでは無い。四肢を突いていたバルズも、呆けた顔を上げてニャルーラの顔を見詰めていた。


「た、確かに俺が初めに聞いた噂は……。流石は王太子妃候補筆頭、奇特な方だと思った憶えが……。――そう冷静に見れば、指導の範疇を逸脱してはいないのか? 待て、早まるな、あの時は――」


 余程の衝撃だったのか、考えている事が言葉に漏れてしまっている。


「少し考えれば分かる事ですのに、分からない振りをしてしまうのは、その事実が殿下にとってお認めになりたくない事だからでしょう。その女が正しく、愛されるべき存在で無ければ、殿下には都合が悪いのですね。そうで無ければ、どんな事情が有ったとしてもその女を優先したい殿下の意には沿わなくなってしまいますから。つまり、殿下はその女の色香に惑っているからとわたくしは理解しましたわ。

 昔から悪女と呼ばれる女の話は多々有りますが、嫉妬に狂った女や秩序を重視し口煩い女までをそれに含めるのはどうかと思います。

 しかしながら傾国と呼ばれる国の害となる女は一つだけ。色香で以て秩序を壊すその者を、国の中枢近くに置く事は、百害を齎す事となりましょう。

 その女の振る舞いを良く思い返してみる事です。

 身分の違いを気にも留めず、婚約者が居る事に配慮もせず、気に入った男の気を惹く事に喜びを感じ、秘密の逢瀬を重ねて悪怯れない」


 そこまでニャルーラが語ったその時、ずっとぶつぶつ呟きながら考え込んでいたバルズが叫びを上げる。


「馬鹿な!! それではリリーナはとんでもない阿婆擦れでは無いか!!」


 目を見開いて愕然とした様子でリリーナを見る様子からは、単純ながらも素直な彼自身が、答えに辿り着いた事を窺わせた。

 それを祝福するかの様に、疎らに拍手が起きているが、ニャルーラは一切容赦はしなかった。


「ええ、漸く理解出来たのですね、不実な騎士様。ですが、貴方にも婚約者が居るのをすっかりお忘れの様ですけれど、それで貴方はこれから一体どうするのでしょう?」


 ニャルーラが口にした事実に、限界まで見開いていた筈のバルズの眼が、縦に大きく開かれた口に引っ張られる様にして更に一回り大きく見開かれた。

 そして大音声で叫ぶ。会場でも何人かが咄嗟に耳を塞いでいる。


「うぉおおおおおお!! 俺は何て言う事をしてしまったんだぁあああ!!」


 そして会場の中を大慌てで見回したバルズは、会場の隅に彼の真実の婚約者を見出して、決死の表情でその婚約者へと向かってジャンプした。

 着地は四肢で、そのまま膝と頭を床に着けて、べったりと上体を伏せながら婚約者へ向かって床を滑る。

 婚約者の目前で停止したバルズは、悔恨を乗せて再び叫んだ。


「済まなかった!! 俺が全部悪かった!! 何でもするから赦してくれ!!」


 プライドも何も彼もを投げ捨てた、見事なジャンピング土下座だった。

 今度こそ会場にしっかりとした拍手が巻き起こる。会場の人間は愛すべき単純馬鹿のバルズを赦したのだ。後はバルズとその婚約者の問題となったのである。


 しかし、その拍手に気圧されたのは王子達だ。王子では無くニャルーラが正しいと認めたも同然のその拍手に対して、抗う術も無く顔を強張らせるしか出来ないでいる。

 バルズの奇行に少し驚いた様子で見送っていたニャルーラが、目を戻した時がとどめとなるだろう。

 断罪はニャルーラに訪れず、王子達の罪が明らかになろうとしていた。


「――ふふふ、バルズ様は思いの外に良い騎士に成りそうですわね。自らの行いを客観的に省みる事が出来る様に成ったのなら、高潔な騎士への道も開けるでしょう。

 翻って殿下は如何でしょう? わたくしに指摘される前に、弁明する言葉は有りまして?」


 ニャルーラのこの言葉に、会場が感心した空気で包まれた。

 ニャルーラがバルズに語った譬え話で、学園での出来事を知らない参列者も状況を理解した。しかし、それはまだニャルーラによる一方的な視点であり、王子の側から見た事実はまだ明らかにされていないのだ。

 そこを釈明する機会を与えたニャルーラの誇りに感銘を覚えると共に、王子が何を語るのかに興味がそそられたのである。

 尤も、実利に即して言うならば、ここからは王子を量る試金石となる。明日にも立太子を宣言されていただろう第一王子の醜聞なれば、逸速く情勢を読んで今日の内にも動かねばならないだろう。王子が体面を崩さず応じ切るならば、明日の予定も滞りなく進められるだろうが、更に醜態を晒すならば立太子するのは第二王子となるに違い無い。

 王弟殿下が凶悪な笑みを浮かべているのも、ニャルーラによるそんな気遣いを称讃したものだ。或いは王子が失敗した時には、弁明の機会が与えられなかった時よりも王子にとって遥かに痛手となる事を理解しつつも、舵を明け渡したニャルーラへの共感だったのかも知れない。

 恐らく追い詰められた王子は、そんな周りからの視線には気が付いていないのだろう。それでも王子として黙ってしまう事は許されない。しかし、考え無しの言葉を吐いてしまえば、最悪王子ですら居られなくなってしまう。

 実際王子には代わりが居て、今は王弟がこの場を見守っている状況だ。

 開き直れば、これ以上の見世物は嘗て聞いた事は無い。

 この場に居る者は歴史をその眼で見るだろう。そんな静かな興奮も、確かにそこには有ったのである。


「弁明も何も、私には省みなければならない事など無い! 嫉妬に駆られた貴様が、私の目を掛けていたリリーナ嬢に無体を働いた、それが事実だ!」


 王子の弁明は、それまでの流れを無視して、捻りも無く強弁するものだった。

 しかし、それもあながち間違いでは無い。下手に捻りを入れてそれまでの主張を崩せば、そこに付け込まれる隙を作る事にも繋がる。王子という立場も、その言葉に力を与え、普段ならば反駁を許さないだろう。だからこそ、強弁も一つの正解だと言えた。

 尤も今この場に限れば、王子の立場は力を失っている。これが人も限った内輪の場ならば、内々の話として王子の失態を見逃す事も出来ただろうが、衆人環視の下で王子が始めた弾劾の場だ。王弟が見守る現状、下手な誤魔化しは通じない。

 ニャルーラとの問答を何としてでも乗り越えなければ、第一王子ミルヒディルの立太子はくつがえされてしまうに違い無い。

 それは、強弁だけでは何ともならない現実だった。


「まあ! わたくしが嫉妬する様な事をされていた自覚はございましたのね? それは即ち王太子妃候補を蔑ろに、その女にばかりかまけていた事でしょうけれど、殿下は何故その様な事を?」

「――リリーナ嬢の実家が営むロックス商会は、近年成長が目覚ましく、十人会議にも名を連ねる程となっている。それを裏で支えたのがこのリリーナ嬢だ。類い稀な商才の持ち主を囲い込むのは当然だろう? そんな事にも気が回らないとは、何と言う愚かさだ」

「ふふふ、わたくし一度も殿下からその様な事をお聞きした事がございませんでしたわ。妃候補であって確定した王太子妃では無いと言われればそれまでですが、事有る毎に根拠も覚束無い空言そらごとで貶められるのは、殿下の思う以上に辛い時間でございました。

 それも将来の大商会会頭の歓心を得る為と言われれば納得するしかございませんが、王国における鉱山の殆どを束ねるペリゾナ侯爵家に疑念を抱かせる言動は、聊か軽はずみではございませんか?」


 聴衆は、ニャルーラが王子をして女の色香に惑っていると言った事を忘れていない。それ故に、王子を立てるかの様なニャルーラの物言いには戸惑いを覚えていたが、王弟だけは口元の笑みをより凶悪に深めていた。

 無難を意識する余りに、ニャルーラの作り出す流れに乗ってしまえば、抗う事は極めて困難となるだろう。そしてその流れの行き着く先は、王家にとっては傷が浅く、王子にとっては都合の悪い結末に違い無い。

 ニャルーラにとってはどうなのかが分からないが、どう転んだとしても自らを賭けの対価とするニャルーラの在り方に、王弟は小気味良さを感じていた。

 もしもニャルーラ自身に不都合が降り掛かったとしても、多少ならば口利きしても良いと考える程度には。


「王太子妃となる者は、即ち未来の国母に外ならない。各国の者と遣り合う中では、多少の理不尽にえねばならぬ事も有ろう。その資質を確かめるのに、学園は打って付けとは思わぬか? 貴様は私の期待を裏切ったがな!」

「ふふふふふ、それは御見逸れ致しました。王太子妃候補筆頭とは言われていましたが、殿下自身もわたくしにそれだけの期待を抱いて、六年もの長きにわたって試練をお与え頂いていたとは気が付きませんでしたわ。

 そしてそれならばわたくしも納得出来ましょう。あと本の三日わたくしが堪えていましたら、誰よりも忍耐深くわたくし自身よりも王国を尊ぶ正妃として、わたくしを迎え入れられた筈でしたのに、そこに瑕疵を付けてしまったのですからお怒りも御尤もでございます。怒りの余り妙な言葉を口走ったとしても、それは仕方がございませんわ。

 そしてそのお言葉が真実ならば、確かにその女は囲いの商人に過ぎないのでしょう。貴族としての常識を持ち得ずとも良しとして、それを窘めるわたくしからも庇い立て、とことん甘やかしている様子は色香に惑って妃に迎えるつもりではと訝しんでおりましたが、寧ろ卒業後は貴族社会から遠ざけて一介の商人として遇する心積もりであらせられたとは。

 ええ、確かにその女には、貴族社会は辛いでしょう。貴族の常識を身に付けようともせず、窘められるだけでも苦痛に感じるのでしたなら、市井の商人として暮らす方が余程幸せになれるに違い有りません。殿下もそれを重々承知していたからこそ、その女には試練を与えるに値しないとご判断なさりましたのね。

 思えばそれを窺わせる事は有りましたわ。もしもその女を妃にしようと思うならば、わたくし達が学園が終わってからもほぼ毎日の様に受けていた国母としての教育に、その女を参加させようとしない訳が有りません。仮令殿下がその女をお気に召したとしても、妃とするには陛下や王妃様がお認めにならなければ実現はしないのですから。或いは愛妾としてなら道は有ったかも知れませんが、その可能性も今となっては潰えています。何故なら側妃も愛妾も言ってみれば正妃の部下、妃候補の言葉を何一つ聞こうとしない愛妾など、何処に存在するというのでしょう? 正妃の様に振る舞う愛妾なんてただの毒婦でございます。最悪の毒婦を傾国と言い慣わすのでは無くて? その女を愛妾にしたいのならば、殿下もきっとその女にわたくしの言う事をよく聞く様に言い含めたでしょうに、そんな素振りもございませんでした。愛妾とするつもりも無いのだと、そこで見極めないといけなかったのですね。

 ですけれど殿下、そういう事なら明日の立太子の儀には誰を伴うお積もりなのでしょう? わたくしの他に試練を与えた妃候補も見受けられなければ、六年もの長きを堪えられる資質有る者が他に居るとも思えません。それに、殿下ご自身が理不尽と認識する試練を六年もの間与えておきながら、ただ一度の過ちで見捨てるならば殿下が暴君と謗られましょう。結局の所はわたくしが相伴うものとしか思えませんが、そういう理解で宜しくて?」


 そこまで聞いて、観衆達は成る程と膝を打つ。王子が随分非道な性格に味付けされているが、王家の傷は極小で、それでいて厄介なリリーナの排除が叶っている。開幕での王子の戯言たわごとも不問に出来る妙案だった。

 しかし観衆達は、これを即興で組み立てたニャルーラに感心すると共に、何処か違和感を感じていた。どう見ても苛烈極まる性格の持ち主であるニャルーラが、これで終わらせるとは到底思えなかったからだ。

 尤も、王弟を含めて何人かはニャルーラの思惑に気付いていたのだが。


(持ち上げたな……)


 王弟が嘆息した通り、ニャルーラは王子を持ち上げられるだけ持ち上げた。それこそ、そこから逃れようにも、一人では降りられない程に。

 即ち、王子はニャルーラの示した流れを全て受け入れるか、或いは大怪我覚悟で飛び降りるしか道は無くなったのである。


 そして、言葉に詰まった王子を置いて、ニャルーラは更に畳み掛けた。


「ふふふふ、それにしても殿下の振る舞いは判り難くて困ってしまいますわね。ビブリル様とメゾー様もそう思わなくて? 恐らく殿下に遠慮してその女に声を掛けずにいた人は沢山いらっしゃるでしょうに。

 ふふふふふ、礼儀の足りない下級貴族な商人の娘は王妃には成れませんでしょうけれど、家を継ぐ事の無い三男や、商人としての知恵を活かせる財務の家になら、嫁ぐ事が出来るかも知れなくてよ?

 思いを寄せる人は沢山いらっしゃるでしょうから、告白も早い者勝ちかも知れませんわね」


 それは罠だ。聞く者全てがそれを罠だと認識した。

 しかし罠だと分かっていても、動いてしまった者が二人。


「わ、私の家は代々財務長官を務めている。市井の商売の方法論を取り入れれば、今迄とは違った視点からの改革も進むだろう。きっと後悔はさせない、私の家へと来て欲しい」

「私には伯爵家を継ぐ事は出来無くても、鍛錬を続けた魔法の腕が有ります。この腕一つで私は何れ魔法庁長官へと伸し上がって見せましょう! 貴女が素敵だと言ったこの魔法で、きっと貴女を守ってみせます。どうか、私に付いてきて下さい!」


 リリーナの前に跪いて愛を乞うその姿は、他に婚約者が居る事実も有って寧ろ滑稽だ。

 そして、そんな二人に抜け駆けされそうな現状に、焦って飛び降りてしまった愚か者が一人。


「馬鹿な! リリーナ嬢の愛を得るのはこの私だ!! 退け! 痴れ者が! リリーナ、勿論リリーナは分かっているよね?」


 心底可笑しげに嗤うニャルーラが、昏迷する状況に彩りを添える。


「ふふふ、ふふふ、うふふふふ♪

 ああ、何て無様な。まさしく傾国をこの目で見るようですわ。

 言いして有耶無耶になっておりましたけれども、色香で以て秩序を壊すのは国の敵たる傾国でございましてよ?

 ああ、純真無垢な商人の存在なんて、一体誰が信じるというのでしょう。優秀な商人ならば、計算高いのは必然。笑い話にもなりませんわ! 見てご覧なさい、その女の周りに集まるのは、王子と高位貴族の息子と高級官僚の息子だけ。一番話が合いそうな、下級貴族の子息が一人も居ませんわ! うふふふふ、何てあからさまな野心家なのでしょう!

 もしも、万が一にも、その女が偶々商売が上手く行って、偶々学園に紛れ込んでしまっただけだとしても、結末は何も変わりませんわ! 婚約者持ちの男にちやほやされていい気になっているその女が、どうして貞淑でいられると思うのでしょう? これだけ想いを寄せている男に言い寄られて、夫には内緒だと、どうして関係を持たないと言えるのでしょう? 誰の子かも分からない子供が大きくなってから、我が子に他人の面影を見る事など無いと、誰が保証してくれるのでしょう?

 ふふふふふふ、それは本質的には娼婦と言うのよ。王族ですら手玉に取るなら、高級娼婦になりましょうか。学び舎である学園に、高級娼婦が紛れていたなら、それは殿下で有っても骨抜きにされましょう!

 ああ、ああ、何て可笑しい。可笑し過ぎて涙が出てきてしまいそうよ!

 ふふ、ふふ、うふふふふ、こんなのに蔑まれていただなんて、こんなのに貶められていただなんて、こんなのに翻弄されていただなんて――」


 狂乱するニャルーラを止めたのは、顔を真っ赤に染め上げた王子の、形振り構わない絶叫だった。


「黙れ!!」


 しかし、それに続けられた言葉が問題を異なる局面へと投げ飛ばす。

 きっと王子はそういうスタイルなのだろう。


「リリーナは聖魔力を持つ聖女だ! 聖女を妃に迎えるのに、何も疚しい事などは無い!!」


 その言葉を聞いて、思わず立ち上がったのが王弟と、その他僅かな高位貴族達。

 そしてその一瞬で、表情を消したのがニャルーラと他の二人の王太子妃候補達。

 それ以外の者には分からない。

 物語に語られる聖女が見付かったのなら、それは喜ばしい事に思えるのに、何故高位に位置する王族や貴族達が、王子をして罪人の様に見るのかが分からない。


「ふふふ、ふふふふ、ふふふふふ、あははは、あははははは! ……それでは随分と話が違ってしまいますわ。殿下はご自身が何を口走っているのか、本当に理解出来ていて?」


 痛い程の沈黙を経てから口を開いたニャルーラは、哄笑と共に王子の正気を確かめる。

 勿論、理解出来ている筈が無かった。理解出来ていたならば、とてもこの状況で、それを口に出来る筈が無いのだから。


「ええ、きっと理解出来てはいないのでしょうね。色呆けした頭では、きっと王族として受けた講義の内容も、こぼれて残ってはいないのでしょう。

 ですからわたくしが告げましょう。

 王国法曰く、聖属性魔力を持つ者は発見次第教会に保護されなければなりません。これに従わない者は、仮令王族で有っても王国への叛逆を企てたとされます。

 その女は教会での保護を受けていませんね? つまり、殿下は王国に仇なす叛逆者ですわ」


 底冷えする声で告げるのは、既に弾劾する言葉では無く、断罪の言葉だった。

 しかし、それでも分からない者には混乱しか齎さない。

 王子自身も目を泳がせているのを見て、ニャルーラは凍った表情でその先を続けた。


「どうやらこれだけ言っても思い出せないみたいですね。

 高位貴族に限って伝えられていた事柄故に、わたくしが語って良い物か分かりませんが――」


 と、ここで上階席へと目を向けたニャルーラは、厳しい顔で頷く王弟の姿を見る。


「――ここまで係わったからには知らない事が害にもなりましょう」


 そこ迄言っても王弟が他に反応を見せない事から、頷きの意図に沿ったものと判断してニャルーラは視線を戻した。


「聖属性魔力、俗に言う聖魔力の持ち主を匿う事が罪になるのは、修行もしていない、精神修養もしていない聖属性魔力の持ち主が、害しか齎さないからですわ。

 聖属性魔力は凡ゆる存在を引き付けます。それは邪悪なものも清らかなものも一律に区別せず全てをです。或いは魅了すると言っても良いでしょう。

 そこの女で言うなら、聖属性魔力の力で客を引き寄せ商会を大きくし、学園に入ってからは聖属性魔力の力で高位貴族の子息を次々と籠絡し、遂には王子をもほぼ傀儡にしたのです。特一級の危険人物でしょう? 聖属性魔力の持ち主は、幼少から教会で保護し、清らかで慈愛に満ちた人物に育て上げ無ければ、聖女たり得ないのです。

 それだけでは無く、聖結界も張れない聖属性魔力の持ち主は、魔物にとって美味しい匂いを漂わせる餌でしか有りません。その女がこの王都に居る限り、遠方からも続々とこの王都に魔物が押し寄せてくる事でしょう。

 もしも魔物の力を削ぐ事の出来る聖結界を張れたならば、その素材で王都を潤していたでしょう魔物達も、聖結界が張れないならば素材となる以前に人々を襲う災禍となるでしょう。

 聖結界は幼少より修行を続けた聖女候補が、成人する頃になって漸く張れるものと伝えられている以上、その女がこれから真面目に修行に取り組んだとしても、会得するには十年以上掛かるかも知れません。いえ、幼少の頃の方が物覚えが良い事を思えば、そもそもその女ではもう聖結界を覚えられないかも知れないのです。

 そんな女を王都に置いても害しか齎しません。王都から追放したとしても、その辿り着いた先を災禍に見舞わせる事になるでしょう。それならば殿下を誑かした罪で以て処刑してしまう方が余程ましです。

 そして殿下も言ってみれば同罪です。殿下はその女が聖属性魔力を持っていると知ったその時に、警戒し、上へ報告を上げなければなりませんでした。王族として最低限必要な知識を持ち得ず、王国を危地へと陥らせる所だったのです。

 ――パルラッセン卿! ここ数年、王都周りの魔物の動きに、何か異変はございませんでしたか?」


 しんと静まり返った会場で、ニャルーラは上階に居た大男へと問い掛けた。

 バルズの父親である騎士団長だ。

 難しい顔をして腕を組んだパルラッセンは、重々しくその事実を告げる。


「確かに、他の地域には変化が無いが、この十年来王都周りだけ魔物の活動が活発化している。その娘の影響と言われても否定は出来んかも知れんな」


 騎士団長の言葉が裏付けた事により、観衆は事態を理解する。

 魅了の力を隠し持っていた少女が、王族に近付いて籠絡したのだ。

 更にその少女が魔物を呼び寄せる性質を持つとなれば、それこそ災厄の使いにも見えてくるものである。


「問題は、その女がいつから自身に聖属性魔力が宿っている事を知っていたのかと、他に誰が知っていたのかでしょうね。

 何れにしても、罪人でも有るその女に最早自由は有りません。

 後顧の憂いを無くすならば、処刑してしまうのが一番でしょう。

 生かしておくとしても、その時は聖属性魔力を漏らさない様に造られた特別な部屋に幽閉となりましょう。教会に在る修練の間と同じ仕組みの部屋ですね。

 修行が成れば部屋から出る事も出来ましょうが、一生涯監視付きで自由は有りません。

 ふふふふ、想定していた結末とは随分変わってしまいましたけれど、因果は返るというのは本当でございますね。貴族として恥知らずな振る舞いも、聖属性魔力持ちを隠した蛮行も、どちらも決まり事を無視したが故の帰結です。自業自得と――」

「このババァー!!」


 突然、ニャルーラへ飛び掛かったリリーナの罵声。

 局面はまた大きく遷移する。


 魔法には赤・青・黄の三つの基本属性と、黒・白の彩属性、光・闇の明属性が有り、その混ざり具合で、聖・邪以外の凡ゆる魔法は形作られていると言われている。

 聖属性と邪属性はこの外に在り、決して交わる事が無い。この二つの属性は生と死を司るとも言われている事から、それは当然の事なのだろう。

 死に懸けでも生きていれば死んでないし、死に立てはやはり生きてはいないのだから。

 故に、聖属性は全てを貫通し、防げるのは邪属性のみ。そしてその逆もまた然りである。


 ニャルーラへ飛び掛かったリリーナ。その姿は聖女は猶の事、淑女すら程遠い悪鬼の形相をしていたが、その手に纏った光とも違うぎらつきが、確かに彼女は聖属性魔力の持ち主なのだと思わせた。

 その手がニャルーラへと振るわれる。どれだけ魔法を鍛えていたとしても、邪属性を持たなければ防ぐ事も出来無い無敵の力と共に。

 そして邪属性は真面な生き物には持ち得ない力だ。何故ならそれは死の力なのだから。


 悲鳴が上がり、上階から何人かの大人が会場へと飛び降りる。

 しかしそこでまた事態は動いた。


「ぎゃっ!?」


 邪属性で無ければ防げない筈の聖属性魔力を振り翳していたリリーナが、掌を向けたニャルーラに弾かれて、翻筋斗もんどり打って倒れている。


 更に事態は動く。


『ウフ、ウフ、ウフフフフ♪ スッカリ素ガ出テシマッテ居マシテヨ? ソノ顔デ聖女ダナンテ、ウフフフフフ♪』


 地の底から轟く様な声は、低く、昏い。

 ニャルーラの上半身は失神したかの様に力無く横に倒れ、今まで何故気が付かなかったのかと思える程に青白く血の気の引いて動かない顔を晒している。

 そしてその倒れた上半身の代わりに立っていたのが、人の形に影を詰め込んだ様な何かだ。しかし直視出来無い程にその影は昏く、深淵の悍しさを感じさせた。


 その何かは、直ぐに周囲のただならぬ様子に気が付く。

 首を回して倒れたニャルーラの上半身に気が付くと、一層その影が濃くなった様に見えた。


『……脆弱ナ。サテハ貴様ニ道連レニサレタノガ響イタカ。我ラガ計略ヲ妨ゲルナラバ滅ビルガ良イ!!』

「わぁああああああ!!!!」


 ニャルーラの体を飛び出した影がリリーナ嬢へと襲い掛かり、転がりながら必死に聖属性魔力を振るうリリーナ嬢によって散らされる。

 そしてニャルーラの体は支えも無く、音を立てて床に倒れた。


 怒濤の急展開に、殆どの者が動けない。

 一人騎士団長であるパルラッセンだけは、彼と同じく上階から飛び降りていた王弟を庇って、その前に出ていた。


「殿下はここでお待ちを」


 そう言ったパルラッセンが、倒れるニャルーラへと近付いていく。

 そしてパルラッセンが靴先でニャルーラを小突くと、ニャルーラは呻き声を上げて目を覚ました。


「ぐぅ、痛っ、痛い……ぅう、痛いよ……こ、ここは?」


 上体を起こすだけでも呻き声を上げるニャルーラに、その前までの毅然とした雰囲気は感じられない。

 表情に険も無ければ、国母を思わせる迫力も無い。

 寧ろ痛みと不安に揺れ動きながらも、あどけないその表情は、何処か幼さを感じさせた。


「ペリゾナ侯爵令嬢ニャルーラ。今の状況は分かるか?」


 パルラッセンのその言葉に、ニャルーラは呆けた様にその顔を上げる。

 慌てて立ち上がろうとして、しかし痛みで体を折って立ち上がれない。

 その様子を見てパルラッセンは、礼儀は無用と言い聞かせた。


「いや、そのままで良い。君の把握している状況を教えて欲しい」

「あ、、庭園で怪しい男に襲われて……! 副長様が助けてくれたのですか?」


 それに答えたニャルーラは、妙な言葉を口走ったのである。

 訝し気に眉を顰めた騎士のパルラッセンは、しかし落ち着いた声音で先を促した。


「いや、それは私では無い。しかし、君は何時、庭園へと行ったのかね?」

「え? 入学式が終わって、パーティまで時間が有りましたから……。噂の庭園を見たくてこっそり。もしかして入ったら駄目な場所でしたのでしょうか?」


 その声が聞こえていた会場に衝撃が走る。

 驚愕の表情で口元を押さえる者も出る中で、ニャルーラは「あれ? あれ? 、何時の間に着替えたのでしょう? あれ?」と不思議がりながら、最後に自分の胸を押さえて首を傾げている。

 そして不審者が出たというのに動こうとしない騎士団を訝し気に見上げるのだった。


 そこに駆け寄るのは、残り二人の王太子妃候補の一人、シェルミ=レドラ=リュクリーン侯爵令嬢。


「ニャルーラ! 嘘! 嘘よ!!」

「え? ……ミシュカお姉様? ――コホッ! ゴホッ!!」


 ニャルーラのペリゾナ侯爵領は言ってみれば鉱山しか無い土地の為、王国の食料庫とも呼ばれるリュクリーン領とは昔から交流が有った。

 ニャルーラとシェルミもそこで出会い、幼い頃から友誼を交わし、学園に入って王太子妃候補に共に選ばれてからは親友と言っても良い程にその仲を深めていたのである。

 だからこそニャルーラの異変に堪らず駆け寄ったのだが、シェルミの姉の名を呼んで首を傾げたニャルーラが黒い煙を吐いて咳き込むのを見て、寸前でパルラッセンに止められる。

 パルラッセンは会場に居た部下の一人を呼ぶと、その部下にリリーナを引き摺って連れて来させ、リリーナのその首を片手で握り締めながら命じた。


「邪属性に対抗出来るのは聖属性のみ。聖属性魔法には、邪を払う術が有ると聞く。余計な真似をするな。この娘から邪を払う事のみ成し遂げろ!」


 震えるリリーナだが、憤激が冷めれば其処には怯える女が居るだけだった。恐らくニャルーラが予想した中でも、世の中を舐め腐った甘えた女というのが正解だったのだろうと、パルラッセンは理解する。

 しかしそれが弱者を装う擬態とも限らない。リリーナの首を掴むパルラッセンの手は、外される事は無かったのである。


 そして、そのリリーナはこれもニャルーラが予想した通りに、真面な修行はこれ迄した事が無かったのだろう。聖属性魔力を魔法としては、ニャルーラに飛び掛かった時に見せた通りにほぼゼロ距離でしか使えないらしかった。それも、既に二度も使ってしまったからか、振り絞る様にしてニャルーラの背中に当てた掌から送り込んでいるらしい。

 何もしないでは居られないと言うシェルミにニャルーラの体を支えさせて、パルラッセン自体はリリーナの首を掴みながらも何が起こっても対処出来る様に身構える。

 その眼の前で、ニャルーラの体が一瞬ぎらついたと思えば、突如咳き込みのた打ち始める。パルラッセンはリリーナの首に掛けた手に力を込めようと一瞬身構えたが、その頃には既にリリーナも力尽きたのか、ぐったりとパルラッセンの手で何とか支えられている状態だった。


 しかし、変化はそれだけに留まらなかった。

 ニャルーラのぎらつきの余波を受けたシェルミが小さく呻くと、その体からも薄い影が剥がされて、宙に消えるのを見たのである。


 そして、のた打ち回っていたニャルーラは、大量の黒い粘体をその口から吐き出した。

 丸で黒い光を発しているかの様なぎらつく粘体は、蠢き、集い、やがて適当にパーツを並べたかの様な歪な顔をその表面に作り上げる。

 吐き気を催す嫌悪感が、見る者の脳髄を掻き混ぜた。


『グッグッグッグッ……何モ知ラズニイタナラバ、ソノママ我ガ神ノ眷属ニ成レタモノヲ……愚カサニ出シ抜カレルトハ業腹ダガ、今代ノ聖女ハ見定メラレタ故ニ良シトシヨウ……我ラガ欠片ノ残滓ヲ相手ニ力尽キル程度ナラ話ニモナラヌ……我ガ神グシャラディモアノ復活ハ遠クナイゾ……グッグッグッグッ……』


 不吉な言葉を残しながら消えて行く黒い粘体に誰も動けず、粘体が完全に消え去った所で恐怖に眼を見開いていたニャルーラが到頭気を失って倒れた。

 リリーナは恐怖の表情と共に「グシャラ……ディモア……」と呟いて、その場に嘔吐する。

 何を知っているのかと詰め寄る王弟に対して、古の邪神だと答えるリリーナ。

 この時からリリーナは、厳しい聖女としての修行を余儀無くされる事となる。


 さて、入学式でニャルーラを襲った不審者については、何カ所も骨折したままだったニャルーラが回復するのを待って、精神汚染の治療も手懸ける宮廷魔法医によりニャルーラの過去を探る事となった。

 そして、ニャルーラが強く思い浮かべ、立ち会った王弟や騎士団長の前に映し出されたのは、にたりと怪しい笑みを浮かべてニャルーラに黒い粘体を嗾ける、学園の錬金術講師ゼオマンの姿だったのである。


「待て……流石に事が事だ。他人の空似では済まされないぞ」

「いえ、殿下。これは記憶を見せるのでは無く、思い浮かべた過去を見せる魔法です。記憶違いなどは関係有りませんから、これは確かにこの者が見た光景なのですよ」


 厳しい表情の王弟だったが、実際にゼオマンの研究室を調べると、隠されていた地下室が其処には在り、邪悪な儀式に使われる物と思える様々な器具や祭壇、そして生贄とされたらしい動物の死骸が無数に転がっていたのである。

 最早疑う余地も無く、ゼオマンは投獄された。

 地下室から見付かった数々の証拠を突き付けても最初は惚けていたゼオマンだったが、学園の卒業式で起きた事件のあらましを聞くにつれ、その様相を変えていった。常に含み笑いをする様に成り、「貴方達には理解出来ないでしょうが」等と思わせ振りな言葉を語る様になり、最後には全てを認め、「我が神よ!」と叫び哄笑しながら処刑されたと言う。


 そうして事件に一応の一区切りが付いた後、残されていたのは聖女の早急な育成と、記憶を無くしてしまった元王太子妃候補の処遇だった。

 尚、立太子の儀は第二王子ミクシュミが立派に務め、残る二人の王太子妃候補がその補佐を務めながら、実際に王太子妃を発表するのはミクシュミ王子が学園を卒業した時とされていた。

 ミルヒディル第一王子は、病に倒れて療養中という事になっている。



 ~※~※~※~



 その日、ペリゾナ侯爵邸では朝から慌ただしく旅の準備が進められていた。

 王太子妃候補から外された次女ニャルーラが、輿入れの為にリュクリーン領へと向かうからだ。

 馬車は大型が三台。前と後ろに荷物と護衛が乗り込んで、真ん中をニャルーラ用として調えている。

 輿入れするには簡素だが、ニャルーラの事情から慎みを良しとしたのである。

 どんな事情が有って王太子妃候補から外されたのだとしても、それで輿入れへと向かう先に余り豪奢な装いで向かえば、王家を実は疎んじていたのだとも取られ兼ねない。

 それが無くとも今のニャルーラの心は、静かな旅を望んでいたのだから。


 そして、ボーイやメイドが荷物を運んでいるのを余所に、ペリゾナ侯爵邸の裏手に在る四阿では別れのお茶会が開かれていた。

 とは言っても客人は一人、同じ王太子妃候補だったシェルミだけ。侍女もメイドもお茶と茶菓子の用意をさせた後は下がらせている。


 ティーカップを口元へ運ぶニャルーラは穏やかに微笑み、友人とのこの一時を確かに楽しんでいた。

 しかしシェルミは何処か寂しげに微笑んで、ニャルーラの姿をその眼に焼き付けている様だった。


「ニャルーラ、ご免なさい。貴女にこんな事しかして上げられなくて。ニャルーラが悪い訳では無いのに、邪に関わったと言うだけで、皆が貴女を恐れてしまったわ」

「あら、そうなの? としては煩わしいのが近付いて来ないのなら、とってもお気楽ね」

「それに、ニャルーラを傷物だと言う人もいて。……王都の生活はきっと辛くなるからって……」

「まあ、それは予想出来ておりませんでしたけれど、言われてみれば確かにそうですわね」

「ジャッカル兄はそんな事は気にしないわ! それに、ニャルーラが王太子妃候補に選ばれて、一番悔しがっていたのがジャッカル兄だから。もっと早くに求婚して、婚約してしまえば良かったって」

「ふふ、それはジャッカルお兄様が伝えたかった事では無くて? うふふ、わたくしにとっては良いネタを貰ってしまいましたけれど」

「いいのよ! こうならなければ動けないへたれな兄の事なんて! ……でも、学園の皆も見送りにも来てくれないなんてね……」

「そうね。ディアーヌが来てくれなかったのは少し残念ね。でも、ディアーヌは生真面目さんだから、本当の事を知れば怒られてしまうかしら」

「ええ、ディアーヌは…………。ニャルーラ、どうしてディアーヌを知っているの?」

「何を仰っているのかしら? 一緒に毎日残って学んだ仲でしょう?」


 穏やかに微笑むニャルーラに、シェルミの顔は強張っていく。


「……ま、まだニャルーラの中に残っていたのね! ニャルーラの中から出て行きなさいよ!!」


 そんなシェルミに、ニャルーラは表情を笑み崩した。


「ふふ、ふふふ、ふふふふふ♪ さて、ではここで問題です」

「何を巫山戯てるの!!」

「わたくしの固有魔法色は、赤・青・黄を交じらせずに混ぜたマーブル模様の『テイム』魔法と、完全に混ぜ溶かした透明な『召喚』魔法」

「そんな事は知ってるわよ!」

「煤煙に塗れたペリゾナ領では外出出来ず、王都では『テイム』出来る妖精や霊獣にも出会えません。そんなわたくしのお友達は、宙を漂うウィスプと、部屋の隅に蟠るスライムばかりでした」

「……それがどうしたのよ」

「ふふふふふ、ウィスプもスライムも、実は殆どの属性の子が存在するのですわ。赤・青・黄・白・黒・光・闇」


 ニャルーラが口遊むのに合わせて、宙から各色のウィスプとスライムが転がり出る。


「そしてこの子達は、一つに集めてしまう事も、混ぜてしまう事も出来るのです。紫・橙・緑・輝く黒に、くすんだ白」


 シェルミの目が、呼び出されたスライムの一つ、輝く黒に引き寄せられる。


「ウィスプもスライムも仲間を呼びますから、わたくしは各色それぞれ万単位で契約を交わしています。結構な大きさも形も今はもう自由自在ですわ」

「ちょ、ちょっと待って!?」

「そして当然ウィスプですから囁きますし――」

『ひゃふー』

「万も集まれば囁きも大声になりますわね」

『グッグッグッ!』

「待って、待って、待って!!」

「更に闇のウィスプの囁きは、感情を増幅しますから、ちょっと気持ちの悪い物を見せながら闇のウィスプに合唱して貰えば――」

「バカーー!! 誰かに見られたらど・う・す・る・の・よ!! それに、聖魔力を弾いた答えになってないわ!!」

「ふふふ、わたくしの固有魔法色は『テイム』と『召喚』と言いましたけれど、広義で捉えるならば『契約』と『空間』なのですわ。幼い頃はそれこそ『テイム』と『召喚』しか出来ませんでしたけれどね。もしも聖属性魔力を邪属性魔力で防いだならば、弾くのでは無く打ち消し合っていたでしょう。つまり、わたくしは邪属性魔力を使ったのでは無く、私に向けられた聖属性魔力を、『空間』を弄ってそのまま返しただけなのです。ちょっとした裏技ですわね。

 ですからわたくしは入学式で襲われてもいませんし、邪の力を宿した事も当然有りませんし、何も問題なんて有りませんのよ? それどころか、王国の将来の憂いを取り除いて、しっかり釘も刺して、ちょっとわたくし働き過ぎなのでは無いかしら?

 正直ミルヒディル王子の妃になるのはもう御免ですし、歳下趣味でも有りません。もう充分働いたと思いますから、自然豊かなリュクリーン領で霊獣や妖精をお友達に、格好良いジャッカルお兄様と暮らしていくのは悪く無い選択とわたくしも思っておりますの。

 ですからシェルミもそんな悲しそうな顔をする必要は無いのです。

 それに、三方を山々で囲まれた王国の食料庫たるリュクリーン領ですが、山々に囲まれた耕作地帯から一歩外に出れば、実は其処は街道が交わる要衝です。未だ手付かずのその土地ですから、遣り方次第でどんな一大商業地区を築く事が出来るかと思えば、これ程楽しみな事も有りません。

 邪神の復活はわたくしの出任せでしたけれど、有り得ない話でも有りません。邪神までとは行かずとも、魔王の胎動は話に聞こえて来ますから、聖女の育成は急務でしょう。

 ――とは言っても、あの聖女ですからね。わたくしは王都に何が有ってもリュクリーン領がその受け皿と成れる様に動いてみたいと思います。ですからシェルミも、貴女の思うが儘に動いてみてはどうでしょう」

「……己を律する事が出来無ければ、国母は務まりません」

「ええ、わたくし達はそう学びましたわ。ですけれど、わたくしはその解釈の仕方を間違えていたのではないかと思うのです。己を律せよとは、自分自身の望みでは無く、王国の未来を考えよと、そういう意味合いでは有りませんか? だとすれば、己を律して国王となる者の後ろに控えねばならないと捉えてしまっていたわたくしは、大きな間違いを犯していた事になるでしょう。

 それに気が付けたのは、思う所を全てきっちりと吐き出す事が出来た、あの卒業式が有ったからですわ。それまでのわたくし達は、飽く迄も殿下に進言するという立場でしか物申す事が出来ませんでした。ですが、実際に思いの丈をぶつけてみれば、妙な設定を入れるまでも無く殆ど解決してしまいましたわ。王国を思っての言葉ならば、遠慮する事など無かったのです。

 確かに王妃は国王の下に付く者でしょう。しかし恐らくは、国王が過ちを犯した時に、真っ先に叱り付ける事が出来るのも王妃の他には居ないのです。今にして思えばわたくしも馬鹿たれと殿下を叱り付けて、目が覚めるまでびんたでもしてやっていたならば、殿下もあれ程の空け者にはならずに済んでいたかも知れません。遣る瀬無いばかりですわね」

「あの時のニャルーラはとても素敵でした。やっぱり正妃になるべき人はニャルーラの他には居ませんわよ!」

「ふふふふふ、嬉しい事を言ってくれますが、わたくしにそんな資格は有りませんよ? わたくしは国母である事から逃げたのですから。蛇足の様に付け加えてしまったあの設定は、確かに良からぬ動きをしていた講師を炙り出す意図も有りましたけれど、それよりも好き勝手喚き散らしたわたくしが実は操られていただけだなんて、そんな逃げ道を用意した物なのですから。言ってみれば保身です。わたくしは我が身可愛さに、己を律する事が出来無かったのです」

「……ニャルーラは生真面目過ぎるわ」

「ふふふ、秘密なんていつかは曝かれる物。わたくしの所為で王権に翳りを招く訳には行きません。――後の事は任せましたよ?」

「それが生真面目と言うのよ。――はぁ、頑固なのもニャルーラよね。

 分かったわ。私とディアーヌに任せて。きっと遊びに行くわね」

「遊びにも何も、貴女の実家でしてよ、シェルミ」

「だから、私の知らないリュクリーンに遊びに行くのよ。

 期待しているからね、ニャルーラ」

「ふふ、ふふふ♪ そうね、王都の喧噪に疲れたら、いつでも遊びにいらして下さいな♪」


 その日、王都を発つニャルーラを見送るのは、ペリゾナ侯爵家の家人以外にはリュクリーン侯爵家のシェルミただ一人だけだった。

 しかし、馬車に乗り込むニャルーラに悲愴な様子は見られず、見る者を癒す柔らかい笑みを浮かべていたという。



 ~※~※~※~



 王都を出て、揺れる馬車の中でニャルーラは思う。


(お尻痛い。板バネかサスペンション……って駄目ね。加工技術が無いし、壊れた時に直ぐ交換出来る単純な構造で無いとゴミよね。クッションが有れば充分よ。知識チートが簡単に行く訳無いか)


 王都を離れ、既に王太子妃候補でも無ければ、侯爵令嬢としての体面も必要無い街道に出て、かなり気の抜けた事を思っている。

 卒業式での断罪イベントは呆気無い逆転葬らんで、その結果から考えても世界の強制力なんて物は無い。

 だから、ゲームのどのニャルーラとも違う平穏な道を選んだ今、ニャルーラを脅かす不条理は訪れない。

 ゲームには、そんな不条理が其処彼処に鏤められていたと言っても、流石にルートを外れた相手にまでも悪辣では無いと信じたい。


 『銀聖の乙女』では、貴族子息に狙いを定めた場合に、ニャルーラは事有る毎に邪魔をしてくる悪役令嬢タイプのキャラクターとして登場した。

 物凄く正論で煽って来るキャラクターだから、王宮ルートのニャルーラはネットの掲示板でも好悪がはっきり分かれていた。その後の展開も含めると或る意味王宮ルートは本道では無いIFルートと言われていて、本道の冒険ルートで出てくるニャルーラの素敵さと較べての余りの悪役令嬢振りに、開発マジキチと素晴らしい賞讃が送られていた。


 とは言っても、プレイした人によっては正しい事を言われているからこそ腹が立つとか、そのニャルーラを下した瞬間が堪らないとか、どうも仄暗さを感じさせる情念の持ち主を想起させる感想ばかりが上がっていて、それを開発も分かっていたのか王宮ルートの行く末は、悪女が操る成り上がりの果ての大陸制覇シナリオである。

 ミルヒディル王子を選んだ場合は王太子妃として王子を動かしてのウォーシミュレーションゲーム。バルズを選んだ場合は騎士の、ビブリルを選んだ場合は魔法士の、成り上がりアクションゲーム。メゾーを選んだ場合は運営シミュレーションゲームに分岐する。

 主人公であるリリーナ自身は、夫となる人を助けようと懸命に生きる健気な女として描かれていたが、遣っている事は完全に裏から操る悪女なのである。或る意味悪女プレイとして嘗て無い作り込みの、かなり良く練られたシナリオとゲームシステムだったが、現実として考えるとこれ程迷惑な話も無い。それに、どれだけ作り込んで有ると言っても、本道である冒険ルートの三割程度で終わる事を考えると、やはりおまけのIFルートでネタ枠だというのが正解だったのだろう。


 そんなIFルート真っ直中の逃げ場無しの状態で、前世の記憶が戻った気持ちが分かるだろうか。本道ルートでは王国を担って立つに相応しい王太子として登場するミルヒディルが、既に取り返しの付かないスカポンタンにされていて、断罪からの投獄の獄中で弁明する機会も与えられないままに暗殺されてしまう王太子妃候補となっていた理不尽を、誰が分かってくれるだろうか。


 記憶を取り戻してからの三日間は、焦りと憔悴の三日間だった。

 何と言っても時間が無い。強制力の有無も不明。そもそもが理不尽なIFルートなのだ。

 昼間は喚きたくなる気持ちを笑顔の裏に隠して遣り過ごし、夜になったらウィスプとスライムの演技指導。入学式会場の裏の庭園で、スライムを捏ねて造った人影に襲われるシーンを目に焼き付けられたのは、人が途切れた僅か数十秒の奇跡のタイミングが有ってこそ。


 それがあんなにも呆気ない終わりを迎えてしまって、ニャルーラは気が抜けてしまっていたのである。

 それはもう、ニャルーラとして生きた時間が全て本当に零れ落ちてしまったとしても、構わないと思ってしまいそうな気の抜け様だった。


 そんなニャルーラと同じ馬車の車内に居るのは、幼い頃から侍女として付き従っていたミルカである。

 もう一人の侍女もメイド達も腫れ物に触るかの様な態度の中、ミルカは普段と変わらない様子でニャルーラと接していた。

 それを評して、今もニャルーラの横に居るのだろう。

 尤も、そのミルカの表情には、若干の呆れが漂っていたので有るが。


「お嬢様、ご存知でしょうか。世の中では、ペリゾナ侯爵令嬢は学園での六年間の記憶を、何処かに落としてしまったと言われているそうですよ?」

「……まぁ! それは大変ね、は! 思い出したわ! 確か旅の間のデザートは私にくれるってミルカが――」

「言ってません!」

「何て事!? ミルカが記憶を――」

「無くしてません!! もう、どれだけの付き合いだと思っているのです!?」


 それも当然、ミルカがニャルーラの記憶喪失を狂言と見抜いているのなら、尤もな事では有る。


「きっと一時的な記憶喪失でしたのよ」

「お嬢様がそんな玉ですか」


 勿論、ニャルーラもミルカには通じないと分かっていて言っている。

 そしてそれが間違っていなかったと知れて、ニャルーラの口元には機嫌の良さ気な笑みすら浮かんでいた。


「お父様達ならどうでしょうね?」

「お嬢様が馬車に乗っている時点で、何れにしてもお嬢様の判断を支持されたという事でしょう?」

「……それは何だか見透かされている様な気がするわ」

「それを言うなら、ここに私しか居ない事もそうでしょうね」

「……それは本気で見透かされているわね」


 もう一人居た侍女は、ニャルーラ個人にと言うよりも王太子妃候補に仕えているつもりで学園に入ってから付けられた子だから、王都に残るというのも仕方の無い事だとニャルーラも思っている。

 それでもメイドの一人も車内に居ないのは少しおかしい。前後の馬車で荷物の番をするのは、別にメイドで無くても良い筈だ。

 それに普段なら護衛の一人も乗り込む筈が、それも居ないのは確かに変だ。


 腫れ物に触る心持ちだったのだろうと理解を示したつもりになっていたニャルーラは、流石に気が抜け過ぎていたと気持ちを引き締める。

 指摘されてみれば、これは確かに気兼ね無く内緒話が出来る様にとの心遣いにしか思えない。


「そんなにバレバレだったのかしら?」

「そんなに優雅な記憶喪失者はいらっしゃらないと思いますよ?」


 呆れたミルカの声を聞いて、ニャルーラは鼻に皺を寄せた。

 ニャルーラには家族の前でまで悪趣味な演技をする気なんて無いのだから。


「とは言え、折角の車内が無駄に広くなってしまいましたね。ええ、本当に。無駄に広いのは少し寂しいです。お嬢様もそう思われませんか?」


 そして、ニャルーラを軽くあしらいながらも催促を忘れないミルカに、苦笑しつつニャルーラは応える。

 馬車の車内に色取り取りのスライムとウィスプが溢れる。

 ミルカは無言の歓声を上げて、スライム達を撫で始めるのだった。


「キューちゃ~ん♪ ピーちゃ~ん♪ あら? 黒キューちゃんはちょっとお疲れですね? 黒ピーちゃんも? あ! 成る程、大仕事をしたからですか。頑張りましたね~♪ よしよし~♪」


 スライムはキューちゃん。ウィスプはピーちゃん。それは幼かったニャルーラが決めた事。

 スライムと戯れるミルカを見守りながら、再びニャルーラは思いを馳せる。


 王太子妃を目指すニャルーラはもう居ない。たった三日間で、もうぐったり立ち上がる気力を無くしている。シェルミには色々と言ったけれど、本当の所はお疲れモードで心が折れてしまったのだ。

 でも、王国貴族であるニャルーラは今もここに居る。そのニャルーラは嘗て王太子妃を目指したニャルーラでも有る。ならば王国の為に動くのは最低限の義務だ。

 ニャルーラはそれを王国の将来の憂いを取り除くという形で実現しようとした。

 そこでニャルーラが見出した喫緊の問題が、リリーナの存在とゼオマン講師の存在だった。


 リリーナ=ベル=ロックス男爵令嬢。恐らく彼女は転生者なのだろう。怪しむべきは幾らでも有るが、決定的だったのは邪神の名前に反応した事である。

 ゲームの中で邪神の名前が出てくるのは一箇所だけ。ビブリルルートで悪堕ちしたニャルーラが、ゼオマン講師と手を組んで悪魔召喚を執り行う際に、ゼオマンが叫ぶその一言しか登場しない。

 ゲームの記憶を取り戻す以前の話では有るが、相当に勉強熱心だったニャルーラが閲覧出来る通常の書物には、一度たりとも出て来た憶えの無い名前だった。


 邪神の名前を知り、本来のリリーナなら選ぶ筈も無いIFルートを選んだリリーナ。彼女をそのままにしておけば、王国は侵略国家への道を辿った事だろう。

 それはニャルーラとしても許容出来る話では無かった。


 そして、錬金術講師ゼオマン。彼は確かにビブリルルート以外ではマッドな側面を見せなかったが、実際には動物を生贄にした儀式を行っている状況からは、いつ貧民街の住人を犠牲にしても可笑しくない状態だった。

 ビブリルルートのニャルーラに声を掛け唆してきたのもゼオマンからである。

 実際のゼオマンが、何故自分の仕業で有ると認めたのかは分からない。認めずにいれば、恐らくは監視下に置かれはしても、いきなり処刑とはならなかった可能性も高いのに。

 或いは既にゼオマンは正気を無くしていて、ゼオマンが成し遂げた邪神の力の行使と聞いて、すっかりその気になってしまったのかも知れない。

 真相は今となっては墓の下だが、果たしてこれから罪を犯しただろう事は確実でも、まだ罪を犯していない者の罪を問うのは正当なのだろうか。


(……罪の無い悪役を生贄にしてしまいました)


 だが、後悔は無い。

 ニャルーラの胸の中には、遣るべき事を遣り遂げた達成感と、新たなリュクリーン領での生活への期待が溢れていたのだった。

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罪の無い悪役を生贄にしました。 みれにあむ @K_Millennium

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