第46話 戒厳令の告白

 裏返したスマートフォンが、ベッドの上で着信を告げている。もうこれで何度目だ? スマートフォンが、うつ伏せの身体全体に振動を伝えている。


 ヒロか。何か掴んだのか? だけどもう手遅れだよ、ヒロ。楽器をぶち壊されてしまった。もう打つ手がない。サチを助け出すための一番大切な武器を守れなかった。


 カズヤ、お前は今、生きているのか? 俺が食らった屈辱を、お前は今、味わっているのか? 


 二人ともすまない。許してほしい。

 

 サチ、頑張ってるか? ボーカルレッスン。お前を救うことは、もうできそうにない。俺なりに頑張ってきたけど、ここらが潮時かもしれない。許してくれ、サチ。

 

 あと5日間、ずっとお前のそばにいさせてくれ。そして最後は俺が見送るから。こんなことしかしてやれなくてごめんな。お前のことは一生忘れない。約束する。

 

 寝返りを打ち、仰向けになろうとしたリュウスケの右肘にスマートフォンが当たった。鈍い音を立て、スマートフォンがカーペットに落ちる。

 

 首を床に向けた。画面に表示されているのは、姉の真由美だった。けだるい右手を床に伸ばし、耳にあてる。


「竜介、今すぐ来て」


 真由美が告げた病院、階数。ここか。リュウスケは5階の廊下に立っていた。どこにいるんだ、姉ちゃん。消毒液や薬品の匂いを浴びながら、ふらつく足で廊下を歩きはじめた。


 右側に空間が広がった。休憩スペースの長椅子で、顔を両手をで覆っている真由美に声をかけた。次の瞬間、左の頬に熱い痛みが走った。自分が頬を打たれたことに気がついたのは数秒後だった。


「姉ちゃん、お袋は」


「今、処置をしてもらってる。座りなさい」


 真由美の横に腰を下ろした。


「薬を、処方されている薬を全部飲んだの。お母さんがどんな気持ちでそんなことをしたのか、竜介、あなたは分かっているの? 約束したはずでしょ、もうお母さんを苦しめることはしないって。なのにあなたは逮捕されて、テレビに出て、英雄気取り? 母親を、家族を守れない英雄なんて、私は絶対に認めないから」

 

 涙声が響いた。


「姉ちゃん。その約束、今、守るから」


「竜介、よく聞きなさい。これが最後だから。お母さんを守って。今あなたにできることはこれしかないの。お願いだから私の目を見て誓って」

 

 リュウスケが、真由美の瞳を見つめ、言葉を発しようとした瞬間、看護師の声が聞こえた。


「片桐さんのご家族の方ですか。処置が終わりました。命に別状はありません」


                 ★


 どうやって家まで辿り着いたのか、まったく分からなかった。母親の病室へ行ったのか、姉の目を見て誓ったのか、それも分からない。左の頬に手をあてた。頬を打たれた後の記憶が断片的に抜け落ちている。呆然と診察室に立ち尽くしていた。


「深夜にカギもかけずに不用心だぞ、リュウスケ」


 誰かが自分に話しかけている。誰だ?


「酔ってるのか、お前。分かるか? 俺だ」


 聞き覚えのある声だった。だが、そんなことはあり得ない。


 両肩を掴まれ、激しく揺さぶられた。意識が少しづつ、現実を捉えはじめた。


「カズヤ、お前」


「ああ、帰ってきたよ。約束しただろうが」


 カズヤの顔は傷とアザにまみれていた。髪は乱れ、黒いジャケットは土で汚れている。


「お前は確か、拘束されたはずじゃ」


「あれはフェイクニュースだ。警察の連中はメンツで飯を食っている。分かるか、リュウスケ、偽の発表をしなければならないくらい、連中は焦っているんだよ」


「じゃあ、お前を拘束したのは」


「賛成派の連中だ。クソ寒い工場跡地に拉致された。そこからどうにか抜け出して、今、お前の目の前にいる」


「ああ、そうか」


 リュウスケは力のない声で答えた。


「しっかりしろ、リュウスケ。俺は最後のカードを切る。もう時間がない。サチを救うんだ。俺が地下に潜っている間、お前も何かを掴んだはずだ、そのカードを切れ」


 カズヤの絶叫に近い声が、診察室に響いた。


「カズヤ、すまない」


「何故、謝るんだ?」


「楽器を、武器を壊された。もう無理なんだよ」


「お前には記憶というものがないのか」


 カズヤが呆れかえった声を上げた。


「どういうことだよ?」


「毎回ギグが終わった後、俺たちがすぐに取った行動を思い出せ」


「ああ、機材を」


「そうだ。機材をどこに運んだ?」


「地下室に」


「三人でせっせと運んだろうが」


「てことは、つまり」


「楽器は無事だ。地下室にある。ここに来る前にベースメントに行った。この目で確認した」


「あいつらが壊したのは、じゃあ一体」


「偽物だ。いつかこういう事態が起こるんじゃないかと思っていた。松浦さんに頼んで、置かせてもらったんだよ」


 カズヤの両手が両肩にかかった。


「もう一度言う。もう時間がない。俺は最後のカードを切る。お前も最後のカードを切れ。サチを救いたいのなら、お前の今持っている気力をすべて振り絞って、そのカードに賭けるんだ」

 

カズヤは瞳から涙を流していた。それはリュウスケにとって、二度目の涙だった。


                  ★


 扉を静かにノックする音が聞こえる。リュウスケは、黙って扉を開けた。

 黒のデニムに、赤いパーカー、白いダウンジャケット姿の香織の姿が視界に入った。


「戻ってきたの? この人」

 

 ソファーで眠っているカズヤの姿を見て、香織は驚いた声をあげた。


「ああ、命に別状はない。骨にも異常はなかった。疲れて眠っているだけだよ。それよりこんな時間にすまない」


 日付は変わり、時計の針は午前2時を示していた。


「それは大丈夫だけど。急用なの?」


「ああ、少し付き合ってくれないか。俺の部屋に行こう」


 リュウスケは自室へ向かった。後ろから、香織の足音が聞こえる。


「座ってくれ」


 机の椅子を引いた。香織が腰掛ける。コンピューターの電源を入れた。


「急用ってこれなの?」

 

 画面を見つめる香織の声にかすかな警戒がうかがえた。香織の背後からマウスを操作し、目的のアイコンをクリックする。素早くパスワードを入力した。


《ファイルを読み込んでいます》


「少し、時間がかかるんだ。待っててくれ」


 リュウスケの心は逡巡した。これから表示される画像に、香織はどう反応するのだろう? 香織を傷つけたくない。だが、香織が認めてくれなければ、サチを救うことはできない。

 

 やがて、画面上に、文書の表紙が表示された。画面をゆっくりスクロールさせ、赤色の《極秘》の二文字、タイトルの《セカンド・チャンス政策における私的見解》執筆者の《美咲秀一郎》が画面に流れていく。


 執筆者の名前を見た香織の上半身が椅子の背もたれに衝突し、きしんだ音をたてた。


「これは」


 香織の横顔から、血の気が引いていく。


「タイトルはどうだっていいんだ。香織、この名前に見覚えがあるか」


 香織はマウスに手をかけ《次ページへ》のアイコンをクリックしようとした。手を重ね、静かに香織の手をマウスから離した。


「読ませて」


「お前は読まないほうがいい。香織、お前に訊きたいことがある。いいか?」

 

 香織の全身が震えている。

 

リュウスケは震える香織の上半身を背後から包み、尋ねた。


「お前の仕事は、ケースワーカーではないよな?」


「それは」


 震えた、細い声が聞こえる。


「俺の口からは言いたくない。香織、お前の言葉で聞きたいんだ」


 沈黙が流れる。香織の震えを受け止めた椅子が音を立てている。


「私は、厚生労働省、医政局、情報、管理、官」


 感情を失ったような声で答えた。


「ありがとう。もういいよ、香織」


 香織の全身から力が抜けていく。


「俺は今、怒ってもいないし、失望も軽蔑もしていない。だから香織が何をしたのか、問い詰めるつもりもないんだ。すべては過ぎたことだ」


「信じてほしいことがあるの」


 香織は静かに口を開いた。


「はじめは、与えられた仕事にただ忠実だった。でも、あなたのライブに足を運ぶうちに、どうしても、あなたに会いたくなったの。会ってはいけないという気持ちとせめぎ合って、自分がどんどん分からなくなっていった。そして、気がついたときには、この家にいて、目の前にあなたがいたの。それで」

 

 香織の声が途絶えた。


「うん、それで?」


「あのときに、決めたの。組織に背を向けようと」


 香織は激しく嗚咽した。


「分かったよ、香織。信じるよ」


 リュウスケは背後から香織の右手を握った。


「あいつが、カズヤがさ、最後の切り札があるって言ったんだよ」


「もうやめて、リュウスケ」


 香織はリュウスケの両手を掴み、叫んだ。頬は涙で濡れている。


「恐ろしい人なの」


「それは分かってるよ」


「リュウスケ、あなたは分かってない、あの人の本当の恐ろしさを。私でさえ、あの人が一体何を企んでいるのか、まるで分からないの。だからリュウスケ、お願いだからもうやめて」


 香織は両手で顔を覆った。


「なあ香織、日比谷野音で話したこと、覚えているか?」

 

 香織は黙ってうなずいた。


「あのときはさ、俺は怖かった。音楽の力でサチを救うことへの覚悟がまだ決まってなかった。でも、今は違う。自分たちの音楽でサチを救おう。やっと覚悟が決まった。分かってほしいし、信じて欲しいんだ」


 長い沈黙が流れた。香織は顔を下に向けたまま、静かに口を開いた。


「私は、あなたを信じていいの?」


「信じてほしい。あと四日しかないけど、俺は勝つからさ」


 香織は顔を上げ、静かにうなずいた。


「実はお袋が昨晩、自殺未遂を図ったんだよ」


 香織の表情に驚きが浮かぶ。


「ずっと、心に疾患を抱えていてね。幸い命に別状はなかったんだけど、お袋をそこまで追い込んだのは俺なんだ。俺なりに考えてみた。この責任を取らなければならないって。香織には、昔から頼ってばっかりだったけど、香織にしか頼めないことがあるんだ」


 香織はうつむいたまま、首を左右に激しく振った。


「なあ、頼むよ」


「それだけは絶対に嫌。身代りになるのなら私が」


 香織の言葉をリュウスケが遮った。


「俺とお前じゃ住む世界が違うんだって。三年前、俺がウバステに移住するとき、同じことを言ったよな。それが別れの挨拶になってしまった。でもさ、今回は違う。俺は生きて戻ってくる。理由はないんだけど、そんな気がするんだ」

 

 リュウスケは椅子に座る香織の背後から、両腕を伸ばし、抱きしめた。両腕に香織の上半身の柔らかさ、温もりが伝わる。


「お前の気持ちの整理がつくまで、ずっとこうしているからさ」


 診察室から、消し忘れたテレビの音声が耳に届いた。緊急臨時ニュースは、東京都内に戒厳令が敷かれたことを報じていた。

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