第43話 タイコ叩きの淡い恋心

 ベースメントの時計は、午後7時を示していた。半日ちかくが経過しても、佐々木からも、ベースメントにも連絡はない。ヒロ、どこにいるんだ?


 リュウスケはラバーソウルのつま先でテーブルの脚を蹴った。見えない敵へのいらだちが全身に広がる。

 

 時刻は午後10時になった。一体何が起こっているんだ? いらだちが焦りに変わっていく。


「あ、リュウくん、やっぱりここにいたんだ」


 ヒロキがベースメントの扉を開け、近づいてきた。


「ヒロ、お前」


 リュウスケの身体から力が抜ける。


「佐々木君に電話したの。で、リュウくんは別の場所に行くって言ってたから来たの」


「お前、無事か?」

 

 ヒロキの外見はセックス・ピストルズのTシャツに穴の開いたデニム。いつも通りだ。暴行を受けたあとはどこにも見当たらない。


「ヒロ、とにかく座れ」


「うん。よいしょっと」


 ヒロキはゆっくりと椅子に腰掛けた。


「お前は誰かに誘拐されたんだぞ。分かってるか?」


「うん。佐々木君にも言われた。でも実感がなくてさあ」


「分かった。なんでもいいから、覚えていることを話してくれ」


「えーとね。昨夜は、家でご飯食べて、ニュース番組見てたの」


「その番組は何時だ?」


「夜の9時だよ。番組が始まってすぐにね、スーツ着た奴が三人、部屋に入ってきたの」


「顔に見覚えはあるか?」


「全然知らない連中」


「うん。それで?」


「二人に両腕を掴まれたんだ。すごい力で。そしたら、残りの一人に首に注射されたの」


「で、その後はどうなったんだ?」


「目が覚めたら、アパートのベッドの上にいた」


「目が覚めたのはいつだ?」


「2時間前だよ」


「注射打たれてから、目覚めるまでの記憶はないのか?」


「全然ないんだよ。それが」


 こいつは何をされたんだ? 首への注射は間違いなく睡眠注射だろう。


「ヒロ、注射打たれてから、眠くなったか?」


「うん。すぐに眠くなった。あ、そういえば」


 ヒロキは軽く、両手を叩いた。


「何か思い出したか?」


「ちょっと、自信がないんだけど、白衣が見えた気がする」


「それは確かか? 確かに見えたのか?」

 

 リュウスケは姿勢を前に倒し、ヒロキの顔を見つめた。


「意識がどんどんぼんやりしてきてね、そういう状態でぼーっと見えた気がするの」


「そうか。それで今、身体に違和感はあるか?」


「特に痛いとことかはないけど。とにかく、全身がだるいんだよね」


 ヒロキは全身を伸ばした。


「ねえ、リュウくん、ドラム叩いてもいいかな? 最近全然叩いてないし、身体もすっきりするんじゃないかって」


「ああ、いいけど、大丈夫か?」


「うん。大丈夫。リュウくんも付き合ってよ。カズさんもあんなことになったし、いつでもギグできるようにリズム隊で頑張ろうよ」


「お前、カズヤのメール見たのか?」


「うん。目が覚めたあと、カズさんのメール読んで、テレビで見た。実験日まであと2週間だけど、俺は絶対諦めないから」


「ああ、カズヤを信じよう」


 二人は地下倉庫に向かい、機材をステージにセッティングし、30分ほどセッションをした。ヒロキの叩くドラムも、普段と変わらなかった。


「どうだ、身体は?」


「うん。ドラム叩いたらだいぶすっきりした。ありがとリュウくん」


「ところでさあ、ヒロ」


「どしたの? リュウくん、ニヤニヤして」


「大変な思いした後にこんな質問するのもアレだけどさ」


「なんなの?」

「ヒロって、今、好きな女の子っているのか?」


 ヒロキははじめ、ぽかんとした表情を浮かべたが、頬を赤く染めはじめた。


「突然、なんでそんなこと訊くの?」


「いやあ、ちょっと心当たりがあってさ。いるよな?」


「それは、まあ、確かにいるけど」


 ヒロキはドラムスティックに指をこすりつけている。


「それは俺も知ってる女の子だよな」


「なんなの、その誘導尋問みたいな質問は」


 ヒロキの頬はすでに真っ赤に染まっている。


「ヒロ、あいつは知ってるぜ」


「え、どうして?」


「女の子ってのはさ、勘が鋭いんだよ。お前がいくら変装してあいつのライブに行っても全部お見通しだよ」


「えーバレてたの、俺」


「ああ、だから変装なんかしないで、堂々とあいつのライブに行けよ。ビンタ会にも参加してさ」


「ねえ、リュウくん、この話、絶対にサチコちゃんには内緒にしてね。お願いだから」


「分かったって。でもやっぱりいいもんだな。恋するってのは」


「恋じゃないよ。俺が勝手に思ってるだけだもん」


「それも立派な恋だって」


「そうかなあ。それよりお腹空かない? 俺、昨日から何も食べてないから、ペコペコで」


「あ、それはダメだ」


「じゃあ、ビール一杯は」


「それはもっとダメだ」

「なんでー?」


「とにかく、機材片付けて、俺の家に来いよ」


「うん。いいけど」


「サチも待ってるからさ」


「やめてよー、変に意識しちゃうじゃん」

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