第42話 忍び寄る冷たい刃
翌朝、午前7時に起床したリュウスケは、キッチンでコーヒーを二杯入れていた。
すると診察室から、サチの声が聞こえた。
「リュウちゃん、すぐ来て」
急いで、診察室へ向かう。
「どうした? サチ」
「テレビ、テレビ、大変」
サチは早口で告げた。
テレビに視線を向ける。
「お伝えしております通り、警視庁は今日、元文部科学省勤務、通称、
すぐにスマートフォンがメール着信を告げた。カズヤだった。ヒロキにも送られている。
「ニュースを見たと思う。こういうことになった。推測するに、厚生労働省も相当焦りはじめているのだろうと考えている。でっち上げの指名手配だからな。しばらく地下に潜るが、俺は必ず戻って来る。返信は不要だ。リュウスケ、お前と同じく、俺もこれで全国区の有名人だ。戻ったときには乾杯でもしよう」
リュウスケは舌打ちをした。
「平気かなあ? カズヤさん」
「あいつなら、大丈夫だ。信じよう」
「そうだね。私も信じる。じゃあ、バイト行ってくるね」
サチは扉を開け、外へ出ていった。
リュウスケは、すっかり冷めたコーヒーを口にした。カズヤが地下に潜った以上、ギグをすることもできない。フリークスの音楽が、影響力を持ち始めてきたのに、急ブレーキがかかってしまった。
カズヤの言葉を思い出す「大衆は熱しやすく、冷めやすい」
サチの実験日も二週間後だ。この二週間で自分に何ができるのか。不安と焦りと苛立ちが胸の中で交錯する。
リュウスケは両手で頬を二回叩き、考えを打ち消した。カズヤを信じよう。あと二週間、自分にできる最大限の努力をしよう。そう決意した。
すると、入り口のドアを乱暴に叩く音が聞こえた。リュウスケは立ち上がり、カーテンを開き、扉を開けた。
どこかで見た覚えのある顔だった。大柄で白髪混じりの短髪、どす黒い顔色。思い出した。昨年のクリスマスイヴに逮捕されたときの刑事だった。
「久しぶりだな、片桐」
相変わらず、ドスの利いた、威圧感のある声だった。
「何の用だ。俺はブルースハープなんて吹いていない。それとも俺の財布からくすねた金を返しにきたのか?」
「そんな昔のことは、もうとっくに忘れたよ」
「じゃあ、何故こんなところに来たんだ?」
「お前に会いたがっているザコがいる。ちょっとツラを貸してほしい」
「俺に会いたがっている? 誰だ」
「いいから、ついて来い」
リュウスケは刑事とともに外へ出た。10分ほど歩くと、工場跡地にたどり着いた。
「ここだ」
入り口には10人ほどの警察官が並んでいた。
「ザコは中にいる。入れ」
リュウスケは警戒心を強めながら、廃屋工場の中へ入った。薄暗い工場の中心付近に、二人の人間の姿を見つけた。
さらに距離を縮める。リュウスケは驚きのあまり足を止めた。心臓の鼓動が高まる。
八百屋のシゲが、酒屋のクミを背後から拘束し、クミの首に包丁を向けている。
「ああ、リュウスケか」
「シゲさん、どうしたんだよ? 何があったんだ?」
「もう、終わりなんだよ、俺は」
「何が終わるんだよ?」
「今日、実験を受けるんだよ」
リュウスケの全身に戦慄が走った。シゲさんが被験者だったのか。
「国に殺されるなんざ、まっぴらごめんだ。俺はこの子を道連れにここで死ぬ」
「シゲさん、落ち着けって。第一、クミちゃんは関係ないだろう。まずはクミちゃんを解放してあげてくれよ。クミちゃんのこと、ずっと実の娘みたいに可愛がってきたじゃないか。旅行に連れて行ったり、誕生日にはプレゼントもあげてたじゃないか。俺がクミちゃんの代わりになるからさ、頼むよ」
沈黙が流れた。
シゲの瞳に涙が溢れ、頬を伝った。少しづつ、クミを拘束していた力が緩んでいく。
「クミ、怖い思いをさせてすまなかった。許してくれ」
シゲはクミを解放した。クミはリュウスケのそばへ駆け寄ってきた。
「俺は、平凡だけが取り柄の人間だ。ウバステで地道に商売を続けてきた。なのにこのザマだ。リュウスケ、お前をここに呼んだのは、お前に頼みがあったからだ」
「なんでも聞くよ、シゲさん」
「俺が死んだら、こいつを、女房に渡してやってくれ」
シゲは、封筒を差し出し、リュウスケに手渡した。リュウスケは手紙を白衣のポケットに入れた。
「俺は女房に手紙なんて書いたことは一度もなかった。これが最初で最後の手紙だ。どうか渡してやってほしい」
「分かったよ、約束する」
「それとな、リュウスケ。俺は政治のことはさっぱり分からないが、これだけは言える。今の日本は狂っている。犠牲になるのは俺一人で十分だ。これ以上犠牲者を出しちゃいけねえ。お前のやってる音楽のことはよく分からないが、この国をまともに戻してくれ」
リュウスケの脳裏に、カズヤのニュースが浮かんだ。今の状態では手も足も出ない。返事ができないもどかしさを感じていた。
「なあ、リュウスケ頼む。こんな怖い思いをするのは俺一人で十分だ」
その直後、銃声が工場内に響き渡り、シゲは倒れた。リュウスケとクミはシゲのもとへ駆け寄った。心臓のあたりから、鮮血が溢れ出していた。
クミは瞳から大粒の涙を流している。
振り返ると、刑事がピストルを構えていた。口元を上げ、にやついた笑みを浮かべている。
「何故、発砲したんだ? 答えろ。シゲさんはもう覚悟が決まっていた。それを何故、発砲を」
リュウスケは言葉を詰まらせた。
「手紙を渡せ」
「そんなものはねえよ」
「シラを切るんじゃねえ。厚生労働省からのお達しでな、被実験者の書き置きは禁止されているんだよ」
「ないものはないと言ってるだろうが」
5人の警察官が工場へ入って来た。リュウスケはアスファルトにうつ伏せにされ、白衣のポケットから、手紙を抜き去られた。
「てめえらはそれでも人間なのか」
「ああ、人間だ。ただな、お前らみたいなゴミは人間じゃない。実験用のモルモットだ」
「もう一度言ってみやがれ」
リュウスケは刑事の襟元を掴んだ。
「よう、テロリストの兄ちゃん、また捕まりたいのか。今度捕まったら、もう二度とシャバには戻れないぞ。それでもいいのか?」
リュウスケは力を抜き、襟元から手を離した。
「まあ、ザコが一匹死んだだけの話だ。また代わりのモルモットを探せばいい。今日は見逃してやる。せいぜいおとなしくしてるこった」
屈辱が全身に広がる。カズヤ、早く戻ってきてくれ。リュウスケは心の中で何度も繰り返した。
★
自宅に戻ったリュウスケはぐったりと、ソファーに腰掛けた。
すると、机の上の固定電話が鳴った。今度は何だ?
「リュウスケさんですか。僕、プリティ・ベイカントの佐々木です。社長が、ヒロキさんが誘拐されました」
佐々木はうわずった声で告げた。
「すぐ行く」
リュウスケは、白衣のままプリティ・ベイカントに向かった。階段を上り、三階のドアをノックなしで開く。
ヒロキの部下3人が、呆然と立ち尽くしている。リュウスケの存在に気づいた一人が、駆け寄ってきた。
「さっき、お電話した佐々木です」
「いつ、知ったんだ?」
「今朝です。仕事が溜まっていたので早朝出勤したんです。そうしたら郵便受けにこんなものが」
佐々木は一枚の紙を震える手で差し出した。すぐに受け取り、視線を向けた。
【御社の代表取締役社長を預かった】
「たったこれだけか?」
「そうなんです。一体、何が起こっているのか分からないんです」
佐々木の顔面は蒼白だった。
「犯人からの連絡もなしか?」
「はい」
佐々木の目は潤んでいた。
「最近、仕事でトラブルはあったか?」
「いいえ、社長はああいう人ですから、他人から恨まれることは絶対にありません」
となると、賛成派の連中か、厚生労働省の手先か。リュウスケは拳を強く握った。
「君たちはここで待機していてくれ。ヒロを信じるんだ。俺はもう一つ心当たりのある場所に行く」
リュウスケは自分の電話番号をメモし、佐々木に手渡した。
「何かあればすぐに連絡してくれ」
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