第30話 恍惚の被験者
美咲はアルミケースを片手に、白衣を身につけ、扉の前に立っていた。
壁に設置された小型のタブレットに視線を向け、表示されているアルファベットと数字を慣れたた手つきでタッチする。
音もなく銀色の扉が横に開いた。
3メートルほど先に再び、扉が現れた。同じようにタブレットにタッチし、扉が開く。
さらに3メートル先の扉も同じ動作で開いた。
床と壁が純白に染まった、十六畳ほどの手術室だった。上方の手術用のライトが手術台を照らしている。周辺には、医療機器が五台並んでいる。部下の三人の職員の姿もあった。
「どうか、助けてください。私には夫と二人の子供がいます。家族の思い出を失うのは絶対に嫌です。そこの方、どうか私をここから出してください。お願いします」
全裸で全身を拘束された被験者が手術台の上で激しく全身を動かしながら涙声で叫んでいる。
「お願いです。せめて家族に会わせてください。このままでは私は気が変になってしまいます。一体私が何をしたというのですか? ウバステで慎ましく生活をしていただけです。どうして私が記憶の書き換えをしなければならないのですか? 省吾さん、助けにきて。洋子、隆太、ここに来て。あなたたちを忘れるくらいなら、私は今ここで舌を噛みきって死にます」
被験者は絶叫した。
美咲は職員から書類を受け取り、名前を確認した。
「どうも、錯乱状態にあるようだね」
職員が被験者の口に脱脂綿を詰め込んだ。被験者の曇った悲鳴が手術室に響く。
美咲はスマートフォンを取り出し、電話をかけた。
「ご苦労様。今、施設なんだが、被験者がごねているんだ。施設の色を緑に設定してくれないか。頼んだよ」
美咲は被験者の口から、脱脂綿を取り出した。
「あなたは、何をするつもりなのですか? 緑とは何ですか? あなたは、あなたは、あなた」
被験者の声はゆっくりと途絶え、目を閉じた。
「近藤さん、目を開けてください」
静かな声で美咲は声をかけた。近藤は目を開いた。
「今、どんなご気分ですか?」
「雲の、雲の上にいるような、穏やかな気分です」
近藤は笑顔を浮かべながら答えた。
「それはよかった。近藤さん、あなたは精神疾患をお持ちですね?」
「はい」
「さぞかしお辛い人生だったでしょう。お察しいたします」
「ありがとうございます」
「もう心配はいりません。記憶の書き換えで、近藤さん、あなたは第二の人生を謳歌することができるのですから」
「私は、私は選ばれた人間です」
「そうです。仰る通りです。全国民が欲しくてたまらないチャンスを、近藤さん、あなたは手に入れたのです」
「私は幸せです。生まれ変わります」
近藤の表情は至福感に満ちていた。
「そう言っていただけるのが、私は本当に嬉しいのです。さあ、目を閉じてください。15分後、あなたは生まれ変わります。その感動を全身で味わってください」
美咲は、職員に目配せをした。職員は医療機器のスイッチを入れ、近藤の右腕に刺さったチューブに薬品が流れていく様子を確認した。
15分が経過した。
「諸君、ここから先は私にまかせてほしい。官庁に帰って業務に戻りなさい」
一人になった美咲は、静かにアルミケースを開いた。
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