第29話 小さな帰宅者

「リュウちゃん、仕事さぼってどこ行ってたの?」

 

 帰宅したリュウスケの視界にサチの姿が映った。リュウスケは反射的に目を閉じ、開いた。やはり目の前いるのはサチだ。


「今日も寒いね。ちょっとコーヒー入れてくるから」

 

 状況がまったく掴めない。何が起こっているんだ?

 

 しばらくすると、サチがコーヒーを運んできた。サチはソファーに腰掛けた。


「あーやっぱりここが一番落ち着くなー。我が家が一番。ねーバニラ」

 

 サチは膝に乗せたバニラの背中を撫でている。


「サチ、お前」


「今日からまたお世話になります。よろしくね、リュウちゃん」


「なあ、サチ、お前さ、どうして?」

 

 どんな問いかけをしたらいいのかわからない。


「ベースメントの部屋から脱走してきちゃった。あ、でも松浦さんにはちゃんと置き手紙書いたよ。心配しないでって」


「心配するに決まってるだろう?」


「私はもう大丈夫。説教系アイドルのセンターだもん。ライブだってしたいし」


「あのさ、サチ」


「なあに、リュウちゃん」


「大丈夫、って言ったよな?」


「言ったよ」


「本当に大丈夫なのか?」


「だから大丈夫だってば。それよりリュウちゃん、自分の心配しなよ。こないだのライブ、大変だったんでしょ? ヤケドとかしなかったの?」


「いや、大丈夫だったけどさ」


「あ、コーヒー冷めちゃう。いただきます」


 サチがテーブルに手を伸ばした。コーヒーカップにかかった指先がわずかに震えている。リュウスケはサチの隣に腰掛け、両腕で抱きしめた。


「リュウちゃん、痛いよ」


 サチの声が胸元に響く。


「ごめん。これぐらいでどうだ?」


「うん。いい感じ。ねえ、リュウちゃん」


「どうした?」


「香織さんって、優しい人だね」


「来たのか?」


「うん。いっぱい話聞いてくれた」


「サチ、ごめんな」


 胸元でサチの涙を受け止める。


「どうして謝るの?」


「俺、何もしてあげられなくてさ」


「明日は晴れるかなあ」

 

 涙声でサチがつぶやく。


「晴れるよ、きっと」


 この小さな女の子は、どれだけの不安と恐怖と戦っているのだろう。自分はただ抱擁することしかできない。リュウスケは湧き上がってくる涙を必死に堪えた。サチに涙を見せないこと、こんなことしかできない自分を呪った。

 

 気がつくと、サチは眠っていた。寝言に耳を傾ける。


「ごめんね、パパ。いけないのは私。許して」

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